小説「太児」第八十一話

この物語はすべてフィクションです。

第八十一話 信の珠が時を越え 女剣士が故宮を守ること

トンネルは、コンクリート打ちっぱなしで照明もなく、奥には何も見えない。

「風が吹いてくるってことは、外部につながっているってことでしょう。行ってみますか」

侠太郎がペンライトでトンネル内を照らすが、突き当りらしきものは見えない。

珠から伸びる緑の光線は、奥へと向かっている。

「この収蔵庫は、北側の山の中に作られていますから、トンネルは北に向かっていることになりますね」

「こちら方面には何がありますか?」

「陽明山国家公園ですね。七星山があります。休火山群があり、温泉がたくさんあります。地面から蒸気が噴き出しているのが見ものです」

ペンライトで足元を照らしながら、緑色の光に導かれて進んでいく。

「なんとなく硫黄臭いですね…」

「私、温泉好きなんですよねー。日本の別府温泉地獄めぐりをしたこともありますよ。蘇先生は?」

「もちろん。私はキャンプも好きなのですが、帰りの温泉が格別ですねえ」

侠太郎は、話の辻褄に注意を払いながらも、陳学芸員に不信感を持たせぬよう四方山話をする。

陳遊学が思い出したように侠太郎に尋ねた。

「蘇先生は、剣術を学ばれたのですか?」

「え、ええ。国術も学びましたが、日本文化に興味がありましてね。日本の剣術も少々。陳先生は?」

陳遊学は少し照れくさそうに笑った。

「ええ、一応は太極拳などを。形だけですよ」

「おや、そうでしたか」

「実は私の祖父は、マレーシアの華僑だったんです」

「マレーシアですか」

「ええ。祖父の先祖は河南省の陳家溝を出たと伝わっています。本当かどうかは分かりませんけどね。陳姓の者は台湾にも多いですし」

侠太郎は思わず足を止めた。

「陳家溝…太極拳発祥の地ですね。」

「祖父は毎朝、日の出前に庭でゆっくり拳を舞っていました。子どもの頃は退屈でしたが、毎日見ているうちに覚えてしまいましたね」

陳遊学は懐かしそうに笑う。

「祖父は戦乱を避けて南洋へ渡り、父の代で台湾へ移住しました。私は台北で生まれ育ちましたが、今でも旧正月になると家族みんなで太極拳もやるんですよ」

「なるほど」

「私は学者になりましたが、祖父は『文も武も同じ道だ。本物を見抜く目を養え』と言っていました。その言葉が忘れられなくて、故宮の仕事を選んだのかもしれません。」

侠太郎は小さくうなずいた。

「武術家の家系が、今は文化財を守る学芸員ですか」

「ええ。不思議な縁ですよ。」

話している間にも、ずいぶん歩いたが、光の先にはまだ何も見えてこない。

「公園の向こうは何がありますか?」

「二十キロも行けば海ですよ。海を越えれば大陸です」

「この光線の先はどこに続いていると思います?」

「千七百キロ進めば北京の紫禁城です。そちらにも故宮博物院があります。ここにある文物はほとんど紫禁城から運ばれたものなのです」

「千七百キロ…」

かれこれ三十分ほど暗闇を歩いたが、一向に出口の気配がない。

「どこまで続いているのでしょうね…」

「北京までは続きませんよ。公園のどこかに出るんじゃないでしょうかね」

さらに十分歩くと、ポツンと明るい点が見えた。

「出口のようですよ」

「やれやれ、まだだいぶ歩きますね」

明るい点はだんだん大きくなり、二人の足取りも軽くなってくる。

「先生、速足過ぎませんか? 転ばないように気を付けてくださいよ」

「先生こそ、なんだか飛んでいるみたいに速いじゃないですか」

「ええっ、なんだか吸い込まれるようですよ」

ふたりはどんどん加速し、足が地につかないまま、光に近づいていく。

やがて、あふれるような緑色の光に包まれた。

「ここは一体……」

緑色の閃光が、波を引くように静かに収まった。

眩しい冬の日差し。

コンクリートのトンネルを抜けると、二人は煉瓦と石を敷いた広い街路に立っていた。

鼻を刺したのは、石炭の煙と馬糞、乾いた土埃の匂いだった。

正面には巨大な朱塗りの城門。その向こうに、黄金色の瑠璃瓦をいただく紫禁城の屋根が重なって見える。

「天安門…?」

だが、侠太郎の知る天安門とは違っていた。

毛沢東の肖像がない。

街角には日の丸と、南京に成立した新政権の旗が掲げられていた。道端の壁には、日本語と中国語で「和平・反共・建国」「東亜新秩序」といった標語が並んでいる。

小銃を肩にした日本兵が検問所に立ち、その傍らでは腕章をつけた中国人警察官が、黄包車の客の通行証を調べていた。

灰色や濃紺の綿入れを着た人々は、兵士と目を合わせないよう、足早に通り過ぎていた。

自転車のベル。

車夫の掛け声。

凍った石畳を軋ませる馬車の音。

そのすべてを、日本軍の軍用トラックのエンジン音が押し潰した。

「号外! 華中の戦況だ!」

「皇軍、重慶を空襲!」

「八路軍、華北各地で破壊活動!」

侠太郎は通りかかった老人を呼び止めた。

「すみません。今日は……民国何年ですか?」

老人は二人のスーツを見て、警戒するように周囲を確かめた。

「民国二十九年だ。そんなことを大声で聞くんじゃない」

民国二十九年、冬。

西暦一九四〇年も、残りわずかだった。

街角には日の丸と、黄色い標識を添えた青天白日満地紅旗が掲げられていた。

北京は今、日本軍の占領下にあった。

侠太郎と陳遊学は顔を見合わせた。

「千七百キロ……飛び越してしまいましたかね」

「距離だけではないようです。時間まで……」

街路の向こうが、にわかに騒がしくなった。

紫禁城に近い検問所で、一台の黒い乗用車が警察官に止められていた。

後部トランクを開けた警察官が、布包みを引き出す。ほどけた布の隙間から、金色の仏像の頭部がのぞいた。

「密輸品だ!」

運転席の男が飛び出し、警察官の頬を殴りつけた。続いて三人の男が車を降り、懐から拳銃を抜く。

駆け寄った警察官たちも銃を構えた。

互いの銃口が向き合った、そのときだった。

一人の女性が、両者の間へ進み出た。

女性は黒い長髪を後ろで束ね、濃紺の木綿の勁装を身につけている。袖口は革紐で締められ、腰には細身の龍泉剣が佩かれていた。

剣は、すでに半ば鞘を離れている。

「武器を捨てなさい」

澄んだ声だった。

男たちは拳銃を女性に向けた。

「小娘一人で、何ができる!」

白銀の光が走った。

乾いた金属音が、ほとんど一つに重なる。

三丁の拳銃が石畳へ落ちた。

男たちが呆然と自分の手を見る。袖口だけが鋭く切り裂かれ、皮膚には傷一つない。

「次は手首ごと落とすわよ」

倒れていた警察官が笛を吹いた。検問所の日本兵たちが小銃を構えて駆け寄ってくる。

男の一人が地面へ筒を叩きつけた。白煙が噴き上がり、驚いた群衆が一斉に逃げ惑う。男たちはその混乱に紛れて、路地の奥へ消えた。

人々は声を上げなかった。

ただ、彼女を知る者たちが、互いに目を見交わした。

「陳老師の娘だ」

誰かが囁いた。

「陳家の女剣士だな…」

女性は静かに剣を納めた。

そして、侠太郎たちを見た。冬空のように澄んだ目だった。その奥には、人の言葉より先に真意を見抜くような鋭さがある。

「あなた方……」

女性が近づいてくる。

「ずいぶんお洒落なスーツね」

片手を剣の柄に置いたまま、侠太郎の胸元へ目を向ける。

信の珠が、薄い緑色の光を放っていた。

次に、侠太郎の持つ剣を見る。

「その珠と剣は、どこで手に入れたの?」

侠太郎は答えようとして、言葉を失った。

女性の腰にある龍泉剣。その鍔に刻まれた紋様は、地下収蔵庫で手にした剣とまったく同じだった。

「北京故宮博物院警衛組分隊長、陳豫侠(ちん・よきょう)です。警察局の嘱託も務めています」

彼女はそう名乗った。

陳豫侠は龍泉剣の柄に指を添えた。

「故宮の文物に関わる不審者を、見過ごすわけにはいきません」

陳遊学の顔色が変わった。

「陳豫侠……? 祖父から聞いたことがあります。戦乱の中で故宮を守った、女剣士……」

陳豫侠は二人を見つめ、かすかに微笑んだ。

「話は警察局で聞きましょう」

警察官に囲まれた二人は、天安門に近い警察局へ連れていかれた。

灰色の煉瓦造りの建物だった。

廊下には鋳鉄製の石炭ストーブが置かれ、煙と濡れた外套の匂いが漂っている。

「問訊室」と記された木札の部屋へ入ると、陳豫侠は警察官たちを外に下がらせた。

「ここからは私が聞きます」

扉が閉じられる。

部屋には四人掛けの木机が一つ。

陳豫侠は二人の向かいに腰を下ろした。

「あなたも陳さんなのね」

陳遊学は軽く会釈した。

「陳遊学と申します」

「では、陳先生。あなた方は何者?」

陳遊学が慎重に答える。

「私は……台湾にある故宮博物院で、文物を研究しています」

「台湾の故宮博物院?」

陳豫侠の眉が動いた。

「故宮博物院は、ここでしょう」

「今は、そうです」

その一言を聞いた瞬間、陳豫侠の表情が変わった。

「それ以上は話さないで」

彼女は扉へ視線を走らせた。

「壁に耳があるわ。続きは別の場所で聞きます」

そのとき、扉が叩かれた。

「陳隊長、ご無事ですか」

陳豫侠が声をひそめた。

「日本人顧問が来る前にここを出て、この住所へ行きなさい。尾行されないように」

陳豫侠は警察官たちに聞こえるように、二人を不審者として叱りつけながら、侠太郎の掌へ小さな紙片を押し込んだ。

そして、扉を開き、外の警察官に告げた。

「事情聴取は終わりました。釈放です」

外に送り出す際に、陳豫侠は侠太郎の耳元でささやいた。

「また会いましょう…」

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