小説「太児」第八十話

3カ月ぶりに再開です。

この物語はすべてフィクションです。

第八十話 侠眼が古剣を得て信珠が幽関を開くこと

遡ること、5年。

「太児……しっかりママを守ってくれよ……」

窓の外に日本列島がゆっくりと遠ざかっていく。

雲の切れ間から見える海は、冬の陽光を受けて銀色に光っていた。

侠太郎は小さく息を吐いた。

「おっと、もう日本人じゃなかった」

胸ポケットから旅券を取り出す。

濃い緑色の表紙。

青天白日章が刻まれた中華民国旅券だった。

蘇崑崙。
SU KUNLUN。

生年月日、出生地、身分証番号。どれも綿密に作り込まれた偽装情報だった。

台湾語も、中国語も訓練した。

侠太郎は誰にも聞こえない声でつぶやいた。

「太兒……一定要好好守護媽媽啊……」

その瞬間から、柔侠太郎という男はいなくなった。

中華民国の蘇崑崙だけが存在していた。

数時間後。

蘇崑崙となった侠太郎は台北の空港に降り立った。

入国審査は何事もなく通過した。係官は旅券を一瞥しただけだった。

市内へ向かうタクシーの窓から街並みを眺める。

選挙シーズンらしく、街角には候補者のポスターや幟が並んでいた。民主化へ向かう台湾の熱気が街に満ちていた。

しかし、その熱気の裏では各国の思惑が複雑に交錯している。

侠太郎はそれを知っていた。

ホテルに到着すると、まず部屋の安全確認を始めた。電話機を分解する。コンセント周辺を調べる。壁時計を外す。照明器具を確認する。

盗聴器は見つからなかった。侠太郎はベッドに腰掛け、窓の外を眺めた。

任務の目的は一つ。信の珠。故宮博物院に眠ると伝えられる七珠の一つだ。

 

侠太郎は日本の大学と提携して歴史研究している教授を名乗り、故宮博物院の学芸員と会っていた。

「国共内戦後、大陸から運ばれた宝物と別に、七つの徳を象徴する珠が持ち込まれ、保存されていると聞きました。情報の真偽を確認したいのです。現物がありましたら、ぜひ拝見したい」

侠太郎がつかんだ情報は、台湾の華僑からだった。国民党の移送チームの中に、武術家がいて、武術とともに、伝説の珠を運んだと噂をきいたのだ。

国立故宮博物院学芸員の陳遊学(ちん・ゆうがく)が言った。

「地上で展示されている宝物は、全体の数パーセントにすぎません。地下収蔵庫には膨大な量の宝物や資料が眠っています。非公開のものが多いのですが日本の大学の研究とのことで許可が下りています。しばらくおまちください」

博物院にはあらかじめ、大学からの要望が伝わっている。もちろん偽情報だ。

侠太郎は偽造した身分証明書と大学の研究資料を提示する。

陳遊学は、すぐに戻ってきた。

「ご案内いたしましょう」

階段を降り、地下室の分厚い扉が開く。

熱くもなく寒くもない完璧な空調。ガス消火設備の注意書きなどが目につく。

「こちらですね。一度も展示されたこともなく、収蔵されて以来、日の目を見ていないお宝も多いのです」

学芸員の陳遊学は白い綿手袋をはめ、棚の一角から細長い桐箱を慎重に取り出した。

箱の蓋には墨でただ一文字「信」とだけ書かれていた。

「陳先生、この『信』という箱について何かご存じですか」

陳遊学は眼鏡を押し上げ、静かに首を振った。

「私も初めて目にします。三十年勤めていますが、この収蔵品の存在は知りませんでした。」

蓋が静かに開く。黒い絹の上に珠が鎮座していた。ウズラの卵ほどの大きさで、古びた木の珠。

「これが、七徳の信の珠…?」

侠太郎がつぶやく。

非常灯が赤く点滅した。陳遊学が顔を上げる。

「おや、なんでしょう」

天井のスピーカーから、女の声が流れだした。

「消火設備が作動します。地下収蔵区画にいる職員は、直ちに退避してください」

続いて中国語、英語。そして無機質な電子音。

六十秒から始まる数字が、壁面の表示器に浮かんだ。

陳遊学の顔から血の気が引いた。

「火災? ガスが充満したら意識を失う危険があります。避難しましょう」

陳遊学が、侠太郎を促す。

「珠が燃えてしまったら大変です。とりあえず、持って出ましょう」

「いや、しかし…、そうですね」

ふたりが駆け足で、階段を登ろうとしたとき、階段に立ちふさがる男がいた。

「おっと、持ち出しは困りますな」

「何だ君は、ここは部外者立ち入り禁止だぞ」

陳遊学が強い口調で言う。

「ふふふ…その珠をいただく機会をうかがっていたのだ。こちらによこしてもらおうか」

侠太郎に拳銃が向けられている。

「大陸のスパイか?」

陳遊学が問う。

「スパイはお前の隣の男だ」

「私は日本の大学の研究員だ」

「ふっ、我々の情報網を甘く見るなよ。侠眼さんよ」

パーン。

拳銃の音が地下室に響く。

侠太郎は、陳遊学を抱え、階段を飛び降りた。

拳銃を持つ男が階段を下りてくる。

「ここの宝物は台湾のものではない」

「お前たちのものでもないだろう」

侠太郎が叫んだ。

「日本人が口を挟むことではない」

陳遊学が侠太郎を見る。

「え、蘇先生は日本人?」

「ハーフです」

表示器の数字がゼロを示し、ガスの噴霧が始まった。

階段の上で金属の扉が閉じる、重い音が響いた。

白い霧が床を這う。

地下室の壁には赤いケースが取り付けられていた。

「緊急避難用呼吸保護具」

陳遊学が手を伸ばしかけた瞬間、銃弾がケースを砕いた。ガラスが飛び散り、酸素マスクに穴が開いた。

「さあ、死にたくなければ、おとなしく珠をよこしな」

拳銃男はガスマスクをしている。

(まずい、ガスを吸ったら即死はないとしても、身動きができなくなる…)

「出入口は他にないですか?」

「地下室奥に、閉鎖されたドアがありますが…開いたところは見たことがありません」

「脱出用通路か、開かずの間か…いってみましょう」

侠太郎と陳遊学が、奥へ逃げる。

拳銃男は暗闇の中、ゆっくりと追いかけてくる。

「焦らずとも、ガスでくたばるのを待つさ…フフフ」

ふたりは保存庫の間をすり抜け、保存室の一番奥まで到達した。

鉄の扉が閉ざされている。ガチャガチャと把手を動かすが、当然ながら開かない。

侠太郎が陳遊学に言う。

「あの侵入者は、この珠を狙っています。火災はどうやらフェイクですね。焼け死ぬことはないでしょう。あなたは物陰に隠れて、なるべくガスを吸わないようにしてください」

「どういうことですか? あなたは一体?」

「説明している暇はなさそうです。静かに」

侵入者の笑い声が響く。

「フハハハ、行き止まりだな。珠をこちらによこせば命まではとらぬ。おとなしく出てこい」

学芸員が、立ち上がって叫んだ。

「ここで暴れるんじゃない! 貴重な資料が痛む!」

パーン。

どさっ。チーン。ガシャン!

侠太郎が陳遊学の足を引きずり倒した。

弾丸は、間一髪、陳の耳元をかすめ、壁に当たって跳ね返り、保管ケースのガラスを割った。

「ひっ」

「危ない! あいつは命を助ける気なんてサラサラありませんよ。交渉不可です」

「なんなんです、あいつは?」

「とにかく逃げましょう」

「でも、このドアは開きませんよ」

「こうなると戦うしかなさそうですが…拳銃相手ですからねえ」

侠太郎は割れたケースに目をやった。

「あれは…剣?」

「龍泉剣ですね。明末から清初の龍泉剣です。装飾が乏しく展示価値は低いと判断され、長年収蔵されたままです」

「ほう、ちょっと拝見」

「蘇先生、この非常時に鑑定している場合ですか?」

「いや、使えるかなあって」

パーン!

「ひっ」

バチン。真っ暗になった。緑色の非常用がぼんやり光る。

「照明が落ちましたね…」

「弾が分電盤にでも当たったのかも」

「ますます身動きとれませんよ」

「…これはチャンスです」

「えっ」

「ガスが充満してしまったら勝ち目がない。いきます」

侠太郎が剣を鞘から抜いた。

キィン――

保存状態が完璧だったため、数百年前の刀身とは思えない光を放つ。

「まさか、その剣で戦うつもりですか?」

「重心がいい。飾りものじゃありません。」

パーン!

銃弾が保存箱を砕く。

侠太郎は、棚の陰へ滑り込み、剣の刃を指で確かめた。

「刃もビンビン。最高のコンディションだ」

暗闇の上、白い霧が充満し視界はすこぶる悪い。

侠太郎は棚を蹴った。

ガタン!

パーン!

男は音へ向かって撃つ。

「蘇先生、お手柔らかに! 宝物が破壊される!」

「あいつに言ってくださいよ。陳先生」

「いや、交渉不可能なんでしょ」

パーン!チーンチーン。

跳弾が弾ける。

跳弾とともに、侠太郎が床を滑った。

「むう、どこだ!」

パーン!

拳銃の赤い火花が暗闇に光る。

シュッ!

龍泉剣が緑の光の弧を描いた。

キンッ!

剣が拳銃を跳ね上げる。

「うぬっ! そこかっ」

足元に滑り込んできた侠太郎に男は拳銃を向けた。

ドカーン!!!

「うおおおっ!!」

拳銃が暴発し、男の右手が弾け飛んだ。

侠太郎の龍泉剣は、拳銃を真っ二つに斬っていた。

侠太郎が男の背後に回り込み、後頭部を剣の柄で強打した。

ゴン!

どさっ。

地下室中に反響していた銃声がやみ静かになった。

「陳先生、もう大丈夫です」

「蘇先生、いったいどうなったのやら…」

「ガスを止められますか?」

「ちょっとお待ちを…ゲホゲホ…外にいるスタッフが操作してくれるはずなのですが…」

陳遊学が入り口近くの電話機のボタンを押す。

「応答がない…ドアも開きません」

「こいつに外のスタッフさん方がやられた可能性がありますね…」

侠太郎が倒れた男のマスクを外す。

「陳先生、このマスクを使ってください。こいつが病気を持ってないことを祈りますが」

「いや…このマスク、防毒マスクです。空気呼吸器じゃありませんよ」

「むむ、このマヌケスパイが…」

マスクを外すと、数字が刻まれた金属片がポロリとおちた。

「……八一。人民解放軍…?」

その時、任侠太郎のポケットが、ぼんやり緑色に光った。

「おや、蘇先生、なにか光っているんじゃありませんか?」

侠太郎がポケットに手を当てると、ほんのり温かい。

ポケットから取り出すと、珠が淡い緑色の光を放っている。

それが、するするとほどけるように一本の光となり、暗い収蔵庫の奥へと伸びていった。光は、開かなかった鉄扉の中央で止まる。

「なんだか、レーザービームみたいですね…」

「いや、蘇先生、これはまるで天空の城ラピュタですよ! さっきは剣も光ってましたよ。私、日本のアニメ大好きなんです…ゲホ、ゲホ」

「とりあえず、珠を信じて、光を辿ってみましょう…」

侠太郎は龍泉剣を静かに鞘へ納めた。

(北京から宝物を移送しようとしたチームが冬山で遭難しかけた時に、光に導かれ助かったとの証言があったそうだが、まさか…?)

ふたりは光に導かれ、鉄の扉の前につく。光は、扉の中央部をぼんやりと照らしている。

「鍵穴ですかね?」

「ダイヤル錠?」

「タッチパネルでもなさそうだし…」

手探りで扉を押したり撫でたりするが、何の反応もない。

光の糸がふいに反転し、二人の口元を照らした。

「言葉?」

「呪文?」

ふたりが顔を見合わせる。

「蘇先生、わかりましたよ」

陳遊学がニヤッと笑って、侠太郎に向かって、口をパクパクパクと三度動かした。

「いや…そんなまさか…」

「間違いありません。さあ、ご一緒に…」

バカなと思いながら、一息置いて、声を出した。

「バルス!」

途端に、鉄の扉の縁から、緑の光が溢れだした。

ゴゴゴゴゴ…重い扉がゆっくりと開き、冷たい風が、吹き込んでくる。

「これは地下トンネル?」

コメント