小説「太児」第七十九話

この物語はすべてフィクションです。

第七十九話 琴を弾き水影を観て、母の言葉に天命を聞くこと

「太ちゃん、上手になったわねえ」

自宅のグランドピアノを弾く太児を、母が褒めた。

太児は、母以外からピアノを習ったことはない。厳しい指導をする先生の噂も聞くが、子供の頃から母からは怒られたこともない。デタラメに弾いていても、いつも褒めてくれる。

今、練習しているのは、ドビュッシーの「水の反映」だ。

水面に広がる波紋がキラキラ光る、映像を表す印象派の作品と言われるが、きらめくような旋律があるかと思えば、静かに沈むところもあり、太児は陰陽を表しているようだと思う。

「なんとか、つっかえないで弾けるようになったけど、まだまだだよ」

謙遜しつつ、学校の文化祭くらいなら拍手喝采だろうな、とも思う。

でも、ステージで目立ちたいとは思わない。

昔の音楽家が、どんな風に宇宙を聴いていたのか、どう音で伝えようとしていたのか、それを知りたいと思う。

小学生の頃に弾いた曲も、誰に聴かせるわけでもないが、ずーっと飽きずに練習している。

太極拳の套路を練習するのと、気持ちは同じだ。

「右手を意識して弾くのと、左手を意識して弾くのと、比べてみてね。きっと、何か違いを感じると思うわよ」

母のアドバイスは素直に聞ける。その時は意味が分からないこともあるが、ずっと後になってから、納得することもしばしばだ。

それから1時間、太児は同じ曲を何度も繰り返した。左を意識して、右を意識して。

あまりよくわからない。

右の時は、カッチリ間違えずに弾けるような気がする。左の時は、流れに乗っているようだが、ミスタッチが多くなる。

「でも、左の方が、好きかな…?」

1年後くらいに、はっきり違いが分かるんじゃないかと思うし、違いがなくなるのかもしれないとも思う。

 

鍵盤から指を話し、太児は振り返って、母を見た。

「ところで、お父さんのことだけど…」

母の表情が硬くなった。

「本当は何の仕事で行ったの?」

しばらくの沈黙。

「貿易よ。輸入や輸出の交渉をしたり契約をとったり、現地での生産の調整をしたり、すごくたくさんのお仕事があるの」

太児は黙って聞いている。

「…というのは、表向き…って思っているのね」

「うん。もっと大きな仕事をしているんだと思う。そして、なにかトラブルに遭ってるって…」

「どうして、そう思うの?」

「なんとなく」

「…あなた、お父さんに似てきたわね」

「本当は、ある人から、ちょっと聞いたんだ。こないだ武術大会に出た時だけど…」

「夜遅くまで出かけていた時ね。交流会って言ってたわね」

「うん。そこの主催者が、中国人なんだけど、中国から亡命した人なんだよ。その人のグループが、お父さんの行方を捜しているって言ってた」

「…そうなの?」

太児は、春子のことを母に話すべきか、迷った。

先に母が、口を開いた。

「春子さんから、ちょっと聞いたわ」

「えっ」

「…親子で隠し事はやめましょう。…隠していたわけじゃなくて、良く知らないことは話していなかっただけだけどね」

「国家の機密に触れるんじゃない?」

「そうかもしれないわね」

母はそう言って、窓の外に目をやった。

「お父さんがそんな世界につながる人だなんて、結婚した頃は思いもしなかった。でもね、本当は、どこかで気づいていたのよ」

太児は黙って聞いている。

「ただ、知らないことにして暮らしていただけ。人は、そうやって日常を守るものよね」

母は少し笑った。

「どんなにうすらぼんやり暮らしている人でも、どこかでみんな世界と繋がっているのよ。知らんふりをしていても、繋がりは消えないわ」

「お母さん…」

「庶民はそんなことを知らずに平和に暮らしていれば幸せかもしれないけどね」

そういって母が笑う。

「老子だね」

太児が笑って答える。

「でも、人にはそれぞれ天から定められた使命があるのよ」

少し間があった。

「お父さんは、天命から逃げなかった人」

太児は、さっきまで弾いていた旋律を思い出した。

水面のきらめきの下で、見えない流れが静かに動いている。

「天命…僕にも?」

母は答えなかった。

ただ、太児の肩にそっと手を置いた。

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