小説「太児」第七十六話

この物語はすべてフィクションです。

第七十六話 道戒が般若心経で空を問われ、少年らがそれぞれ朝修行に励むこと

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子…

読経の声が本堂に響く。

伊東道戒は中学生にして、修行僧のような生活をしていた。もちろん学業があるので、学校に行く時間以外だ。

朝はまだ空の暗いうちに起きる。

井戸水で顔を洗い、境内を掃き、仏前に灯明をともす。

それから本堂で正座し、経を唱える。

「…羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経…」

低く落ち着いた声だった。

まだ少年の声だが、不思議とよく通る。

外では、鳥が鳴き始めた。

東の空が、明るくなってくる。

読経が終わると、道戒は静かに一礼した。

「……ふむ」

黙って聞いていた父が声をかける。

「声はよく出ている」

道戒は振り返り、頭を下げた。

「まだまだです」

「経は覚えたようだな」

「はい。般若心経は」

父はゆっくりと頷いた。

「…空とは何だ」

父の問いに、道戒は少し考える。

「…何もないこと、ですか」

父は首を横に振る。

「違う」

本堂の壁に日が差し込む。

「何もないのではない。すべてのものは、縁によって成り立つ。ゆえに、固定した実体はない。それが空だ」

道戒は黙って聞いている。

「怒りも、悲しみも、恐れも、すべては縁によって生まれる。空を理解すると苦しみから解放される」

道戒は小さく頷いたが、よくわからない。

父が笑った。

「まあ、急ぐな。お前はまだ十三だ。人生の苦しみをたいして知らん。空を理解するには、少し早い」

道戒は父の言葉を胸に刻んだが、「空」が何を意味するのか、朝の光のようには明るくはない。

朝の読経が終われば、徒歩で登校する。

拳二と晶に出会った。

「拳二君、晶さん、おはようございます」

「おはよー」

「やあ、道戒。今日もお経をあげてきたのか?」

「朝の勤行は毎日ですから」

「俺も、百本突きと百本蹴りを毎日やってるぜ」

「うちも太極拳の型は続けてんで。商売人は体力第一や」

「素晴らしい習慣ですね」

しばらく歩くと、太児と美鈴に出会った。

「太児も毎朝、太極拳やな」と晶が聞く。

「うん。站樁功をしながら日の出を待つんだ。それから基本功を一時間ほどやって、套路を通すの」

「朝から一時間か。すげーな」

「もうちょっと長いかな…」

「私も毎日、太児と一緒にやってるわよ」

「えっ、そう? だいたい途中からだし、寝坊とか、宿題とか、ウンチが出ないとかで、休みが多いような…」

バッシーン!

大きな音が鳴り、太児の頬に赤い手形がつく。

「仲良きことは美しき哉…by 武者小路実篤」

道戒が微笑んだ。

「道戒は、家を継いで坊さんになるのか?」

拳二が聞いた。

「そうですね。いずれはそうなるでしょうが、その前に俗世界のいろんなことを経験しておきたいとは思います。寺の中だけで育った僧が、ほんとうの意味で人の苦しみを知れるとは思えません」

「そうなんやー。呑む打つ買うも経験しとこうってわけやな」

「それは極端ですけど、人の欲や迷いを知らずに、何が救えるのかとは思います。仏陀は、王族に生まれ、贅沢三昧の生活を体験し、結婚し子供もできてから、人生に迷い、苦行の道に入り、苦行に意味はないと気づいて、本当の悟りを得たのです」

「アップダウンの激しい人生ね」

「そこに人の世の奥深さがあるように思います」

太児は、自分が将来なにをしたいのか、どうもピンとこない。導いてくれる人がいないような気がしている。

「じゃあ、学校を卒業したら、就職とかするの?」

「そうですね。民間企業に就職するもよし、起業も面白そうです。自衛隊に入って国に奉仕したい気持ちもあります」

「政治家はどう?」

「政教分離ですので、それはないかと」

「あら、そうなのね」

「宗教家が国民を導くのも有りかとは思うのですが、私としましては、ひとりひとりの目線で苦しみや悲しみや怖れを分かち合いたい気がしているのです」

「ふーん。そうかあ」

「ま、この先、自分の気持ちがどう変わっていくのかわかりませんね。諸行無常、色即是空です」

今の気持ちが永遠に続くわけでなし、今は今の気持ちでいいか、と太児は、少し気楽になった。

コメント