この物語はすべてフィクションです。
第十九話 武術と料理とシシカバブーのこと
「腹も減ったろう。異世界からの客人に、特別なごちそうを用意しておる。食っていくといい」
馬小屋に戻ってくると、なにやら、強烈なにおいが漂ってくる。馬のにおいとは明らかに違う。
陳王廷についていくと、そこはどうやらバーベキュー場のようだった。
足を踏み入れるなり、美鈴が「ぎゃあ~~~~!!」と叫んだ。
ちょうど羊が一匹解体されているところだった。仰向けに寝かされた羊と目が合ったのだ。腹を切り裂いて、内臓が取り出されていく。
「稽古に真剣を使うわけにはいかんが、調理で本物の剣の稽古ができるわな」
筋骨たくましい若者が、手際よく小刀を振るっている。
皮が剝がされ、骨を外され、羊はお肉になる。
「ああ、シシカバブーは久しぶりだなあ。イノシシは良く山で捕まえて食ってるけどな」
嬉しそうに庵天先生が言った。
太児が聞く。
「先生、もしかして、自分でイノシシをさばいてお肉にしているの?」
「ああ、そうだよ。安いし早いしウマい」
太児も、おえッとなりそうだ。鶏肉にしてもパックされたスーパーの商品しか見たことがない。
拳二は既に吐いていた。
「無理……俺、文明人だから……」と弱々しくつぶやいていた。
美鈴はというと、完全に石像のように固まっていた。
「ちょっと……あの羊……さっきまで生きてたんだよね……?」
「そらそうやろ。とれたてホヤホヤや」
晶が涼しい顔で答える。
「そ、そんなサラッと言わないでよぉぉぉ!!」
美鈴の声が風に乗って消えていく。
お肉は鉄串に刺され、焚火であぶられる。じゅうっと脂が滴り落ち、炭の上で炎が小さく跳ねる。強い香辛料の香りと、煙に混じった獣の匂いが鼻を突く。
太児は一歩下がって鼻を押さえたが、晶は逆に顔を近づけて「ええ匂いやなあ」と嬉しそうに目を細めている。
「うちはホルモン屋でも働いてたからな。こんなんは慣れっこや」
晶が、手ぬぐいを首にかけながら串を回している。
太児はなんとか平静を装おうとするが、視線の端にぶら下がった羊の皮が見えるたび、胃がぐるぐるしてきた。
(……夢ならいいのに…って、夢か…)
無言で両手を合わせて「いただきます」と心の中で唱える。
そんな中、庵天先生は至福の表情で煙を浴びていた。
「おぉ~、このスパイスの香り! 異世界版シシカバブー、最高だ!」
串をひょいとつまみ、噛みしめながら目を細める。
「陳家溝は、回族の文化も混じっているからな。羊料理もなじみがあるんだ。うまいぞ!」
「先生、やっぱりイノシシさばける人は違うね……」
太児が小声でつぶやくと、
「私もよくさばいているのよ」
と春子が笑顔で親指を立てた。
「料理は段取りと度胸。武術も一緒だ、太児!」
やがて、羊肉の香ばしい匂いに胃袋が勝ち、全員が串を手に取った。
「……ん、んんん!? うまっ!!」
美鈴が目を見開き、驚きの声を上げる。
「せやろ? 焼きたては格別やで」
晶が得意げに頷く。
拳二は、涙目のまま恐る恐るひと口。
「……な、なんだこれ……ウマいじゃねえか……」
次の瞬間、串にがっつき始めた拳二を見て、全員が吹き出した。
肉と香辛料の香りが鼻に抜け、全員の胃袋が落ち着いたころだった。
炭火のぱちぱちという音だけが響く静かな一瞬。
庵天先生が言った。
「生きていくということは命をいただくということだ。その自覚なく生きている奴が、自然や世界に感謝できないんだ。貴重な体験だぞ。まあ、俺も湖のキャンプ場でイノシシなら見せてやれるが」
美鈴がブンブンと首を振る。
「それに、武術をやるには、こういった動物の解体を経験しておくのは役に立つ。動物も人間も似たようなものだからな。骨や関節や内臓の仕組みを知っておくのはいいことだ」
庵天先生がニヤリと笑って、太児の肩を叩いた。
「動物の体のことがわかるってことは、人間の動きも、わかるようになるってことだ」
「……人間の動き……?」
太児は思わず呟いた。
目の前で串を回しながら説明する庵天先生の手が、型を示すように流れるのを見て、心の奥がぞわりとする。
「骨の構造を知るんだ。太極拳は、自分と相手の骨の構造を読んで動く」
その言葉で、太児は妙に納得できるものがあった。
「難しい話はあとにして!」
晶が骨を振り回しながら笑い飛ばした。
「はよ食べへんと焼くのにおっつかんで!」
張り詰めた空気が一気に弾け、みんなが笑いながらまた串にかぶりついた。
太児は、肉を噛みながら、「骨を読む」という言葉を噛みしめていた。

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