小説「太児」の次の展開をどうしようかと進む前に、これまでのところを読み返してみました。
太児には、弟がおったのか…。知らんかった。
設定がアヤフヤだったところ、キャラクターが、なんだか変わってしまっているところ、その他、辻褄が合わないところを、修正してみました。
チャットGPTが作ったそのままの文章だと、やっぱり変ですね。
文体が違うんで、これも手直し。
というわけで、ここまでの部分、一挙に掲載。
目次
第一話 太児、試合に敗れて雨だれを奏で 弱き心に武の志を起こすこと
「面あり! 勝負あり!」
審判の旗が相手方に上がった。
小学五年生の柔太児(やわら たいじ)は、竹刀を置いて、道場の床にへたりこみ、防具の面を外した。汗でぐっしょりと濡れた髪が、目に張りつく。
あちこちから、拍手や笑い声が聞こえる。
道場の隅には、お母さんがいて、心配そうに見ていた。
太児は、足はガクガク、息が上がって、顔は真っ赤だ。恥ずかしさや悔しさやふがいなさやらで、心がいっぱいになって、口がきけなかった。
道場の外に出ると、友達の剛拳二(ごう けんじ)が声を掛けてきた。
「がんばったなー。よく打ち込んでたよ。ナイスファイトだった!」
拳二は太児の幼馴染だ。太児の通う剣道教室の、違う曜日にやっている少林寺拳法教室に通っている。強いだけじゃなく、優しいヤツだ。太児のお母さんに気を使ってくれているのか、やけに褒めてくれる。
「ぜんぜんナイスじゃなかったよ…。一発も当たらなかった。バタバタしただけで、相手のスピードに、全然ついていけなかったよ。いつものことだけど」
太児は、あきらめたように軽く笑った。
「拳ちゃん、いつも応援ありがとうね。うちの子はなんせ、ドンくさいからねえ。拳ちゃんみたいに強くなってくれればいいのだけれど…」
とお母さんが言った。
家に帰って、しょんぼりとおやつを食べた後、太児はピアノに向かった。お母さんのアップライトピアノだ。気分が落ち込んだときは、ピアノを弾くと、少し慰められる。
ショパンの「雨だれ」。
同じ音が淡々と続いて、心がおちつく曲だ。音大卒の母が、教えてくれていたので、ピアノ教室に通ったことはない。
だけど、ピアノが弾けることは、誰にも知られたくなかった。
「男がピアノなんて、からかわれるにきまってる……」
友達と遊ぶより一人で日向ぼっこが好きというほどの運動不足で、やや肥満気味だった太児を心配して、母が勧めたのが、週一回の近所の剣道教室だった。男らしくなれるかな? と思って通うことにした。
お父さんは中学生の頃、剣道をしていたそうだが、仕事が忙しいといって、教えてくれたことはほとんどない。
クラスメートの拳二が、同じ道場の少林寺拳法クラスに通っていたとは、後から知った。
太児が剣道を始めて、2年になるが、試合で勝ったことはない。
気合の声もなかなか大きな声が出せず、いつも先生に怒られている。
「ぼくは、スポーツや武道には向いてないんだ…」
そんなことを思って、手を止めた瞬間、
「太児、いい曲だね!」
背後から声がした。
ぎくっ、として振り返ると、隣の家の幼馴染の美鈴が、窓から顔を突っ込んでいた。クラスメートでもある。
「えっ、な、なに勝手に入ってきてんだよ!」
「太児はピアノ上手だよね〜。運動音痴だけど。学校でも弾けばいいのに」
「運動音痴で悪かったな!」
「もっと、自信を持てばいいのにい~。得意なことを伸ばす方が、人生楽しいわよ」
「うるさいなあ。ほっといてくれよっ!」
太児は赤くなって叫び、ピアノのふたをバタンと閉じた。
「あーあ。応援してあげてるのに~」
そういって、美鈴は自分の家に帰ってしまった。
第二話 太児、弱さに悩みて奇夢を見て 湖畔の縁を待つこと
翌日、学校で、道徳の時間に、いじめについての話があった。
担任の堤先生がみんなに聞いた。
「弱い子がいじめられるのかな? 強ければいじめられない? 強いって、どういうことだと思う?」
生徒達が口々に意見を述べる。
「元気で明るい!」
「丈夫で健康!」
「力がある」
「ケンカに負けない」
「友情・努力・勝利!」
「いじめっ子に負けない!」
「誘惑に負けない」
「嫌なことにNOといえる」
「好き嫌いなく何でも食べられる!」
「決めたことをやり遂げる」
「不屈の精神」
「百戦百勝」
「400戦無敗」
「電柱を殴ったら雀が落ちてくる」
「わくわくすっど!」
…クラスメートたちが次々と答えた。
太児は、昨日の試合を思い出しながら、うつむいていた。
(ぼくは強くない…。いじめられる方だ…)
先生の声が、静かに続いた。
「ほんとの強さってね、自分の弱さと向き合えること…かもしれないよ」
弱いことが、なぜ強さなのか、太児には、さっぱり意味が分からなかった。
学校からの帰り道。角を曲がったところで、不良中学生たちに出くわしてしまった。
「おい。ジュース代、置いてけよ」
いきなり腕をつかまれた。太児はびくっとして立ち止まる。
「えっ、もってないよ」
太児はお金を持って学校に行くことはなかった。
「そうか。じゃあ、ジャンプしてみろ」
太児がその場でジャンプすると、ランドセルがバフバフと鳴った。
そこに、拳二が現れた。
「おい、なにやってんだよ。カツアゲしてるのかよ?」
拳二はヘラヘラ笑っていたが、目は怒っている。
「そうだ! 小銭を持ってるかチェックしてんだよ。チャリンチャリンと鳴るはずだからな!」
「…お前ら、脳味噌が頭に詰まってないのか? 札だったら音はしないだろ…」
「…それもそうだ、おい、ランドセルをぶちまけてみろ。ポケットの中も見せろ! お前もだ!」
「…太児、生殺与奪の権を他人に握らせるな!」
拳二は、足を斜めに広げて立ち、右拳を胸の前に構えた。左手の指を広げて胴を守る少林寺拳法の構えだ。
数秒の沈黙のあと、中学生たちは太児を睨みつけながら、去っていった。
角を曲がって見えなくなったところで、「逃げるな卑怯者ーーー!!!」と罵声を浴びせる拳二。
「あーすっきり。太児、大丈夫か?」
「……うん」
「俺の習っている少林寺拳法じゃ、力愛不二って、力がない愛は無力だっていうんだよね。いざとなったら戦わなきゃ」
拳二に付き添われてトボトボと帰る道すがら、太児の胸は、ふがいなさでいっぱいだった。
自分は、弱い。
剣道は負けてばかり。だいたい剣道が強くなったって、刀を持ってなきゃ戦えないじゃないか。剣道はやめて、少林寺拳法教室に転籍しようかな。でも、拳二みたいに素早く動けないしなあ。自分には合いそうにもない…
その夜、太児は、夢を見た。
見知らぬ古びた村のような場所だった。
砂埃の向こう、太陽がきらめく中、ひとりの人が、大地で、静かに動いていた。
ゆっくり、ゆっくり。影と一緒に。風と一体になるように。まるで、剣の舞のような…
目が覚めたとき、太児の心には、奇妙なざわめきが残っていた。
「……あれ、なんだったんだろう」
第三話 太児、湖畔にて太極の人に会い 新たなる道を知ること
日曜日に、太児は家族と湖のほとりにあるキャンプ場に来ていた。
自転車でも来れる距離だが、今日はオートキャンプだ。
キャンプはお父さんの趣味だ。といっても、そんなに本格的なものでもない。もっぱらトイレや調理場のあるキャンプ場ばかりで、電気も通っていない山奥などには、いったことがない。
それでもお父さんに言わせると、防災訓練も兼ねているそうだ。
水遊びや魚釣りにも飽きて、太児は一人、岸辺の林の中をぶらぶらと歩いていた。
風はない。むし暑い午後。
「つまんないな……」
樹の間からぽっかりと広がる湖面が見えた。湖の波は小さく穏やかだ。光が反射してきらきらと輝いている。水鳥がたくさん浮いている。
手前に、大きな平べったい岩がある。
その上で、人が動いていた。
アロハシャツにジーパン。裸足で岩の上に立ち、両手をゆっくりと広げていた。岩に生えた一本の木のようだった。
男が、空に向かって木の枝をゆるやかに振り上げ、ひらりと回って岩を切り裂いた…かのように見えた。
太児は思わず、息をのんだ。
木の枝が、湖の風に舞う鳥に見えた。速くはないが、滑らかで、力強く、一本の流れのような、風のような剣だった。
「……見―たーなー」
舞を終えると、男はこちらを向き、ニコリと笑った。
「……何をやってたんですか?」
男は、湖にむかって釣り竿を振り出しながら言った。
「太極拳だよ」
見た目は五十歳くらいだろうか。お父さんより少し上くらいに見えた。無精ひげ。
静かな湖のような気配があった。
太児も岩の上に座って、男と話した。名前は庵天(あんてん)だと教えてくれた。
庵天さんは、釣ったばかりのマスを串刺しにして焼いてくれた。
「丸焼きに塩を降りかけるのが、うまいんだ」
「……おいしい」
「そうだろう? シンプルなのがいいよ」
庵天さんの言葉は、ゆっくりと響いた。
「さっきの……、太極拳って武道なの?」
太児が聞くと、庵天さんは静かに答えた。
「そうだよ。武術」
「あれが……? 健康体操じゃなくて?」
「はは、そう思われがちだな。でも本来の太極拳は、武術だよ。戦えるもんだ」
「戦うって……あんなに、のんびり動いて?」
庵天さんはニヤリと笑った。
「のんびりに見えるのは、君が武術を知らないからだよ。太極拳はね、地球と相手の力を借りるんだ」
「力を……借りる……?」
「強い奴に、力で張り合うのはスポーツだな。本物の武術は、自分の力を使わない。ゆっくりでも戦える」
その言葉に、太児の心はかすかに震えた。
「君は剣道をやってるな」
「えっ、どうして?」
「見てればわかるよ。でも、上手じゃないな」
「うっ…」
「やってみるか?」
「……え?」
「ちょっとがんばってみな」
庵天さんはそう言うと、太児の手首に軽く触れた。太児が引こうとした瞬間、ふわっと全身が浮き上がった。
「うわっ!」
太児が思わず声を上げたが、次の瞬間には、元の位置にストンとおろされた。
「な、なんでっ!? なにしたの?」
「何もしてないよ。君が勝手に動いただけ。痛くもなんともないだろう?」
「ええ??え?ええ?」
「これが太極拳さ。相手の力を借りて、無理なく動かす」
太児はしばらく口を開けていた。
「君、強くなりたいんだろ?」
庵天さんは、太児の目を見て言った。
「じゃあまず、バタバタしないで静けさを学びな。動く前に、止まることだ。本当の強さは、静けさの中にあるんだよ。静けさに合わせて、心を澄ませるんだ…」
木の葉がサワサワと鳴って、涼しくなった。
第四話 太児、木玉に導かれて祖師に会い 太極の門に入ること
夜になり、湖畔のキャンプ場は静かな波の音だけが聞こえていた。
太児はテントの中で、目を閉じたり開けたりしながら、ごろごろと寝返りを打つ。
眠れない。
太児は何度も、昼間に見た庵天さんの剣の舞を思い出していた。
それは、風のようで、波のようで、自由だった。
庵天先生が言った言葉。
「水面のような静かな心…心を澄ませて、呼吸を合わせるんだ」
手元のランタンの光で、ポケットから取り出した小さな袋をそっと開ける。
庵天さんがくれた木玉だ。直径三センチほどの、少しひび割れた茶色い木の球だった。赤い紐が巻き付いている。
「また近いうちに会うだろうが、ご縁にこれをやろう。昔中国で見つけた縁起もんだ。お守りにしな」と言って、手渡してくれたのだ。
「……なんだろうな、これ」
寝袋の上に座り、木玉の糸を首にかけ、昼間に見た剣の動きを思い出しながら、テントの中でゆっくり動いてみた。
深呼吸をして、肩を落とし、心を静める。
吐く息とともに、頭の中のざわめきが消えていく…。
木玉が、かすかに光った。
テントの布が、風に揺れたように、ゆらりと波打つ。
波の音が、消えた。
「……え?」
太児が手を伸ばした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
ランタンの灯りが遠ざかり、足元の寝袋が溶けるように消えていく。
風も、波の音も、遠くへ押し流される。
代わりに、重い土の匂いと、柔らかい陽の光が差し込み、遠くから羊が鳴く声が聞こえてきた。
そこは、崩れかけた土壁の家々が並ぶ畦道だった。
畦道の向こうには緑の畑が続き、畑の上に広がる空は、黄色っぽい。
古風な衣をまとった人たちが、畑の中で、ゆったり動いている。
「ここは……?」
木玉は光を失い、ただの茶色い玉に戻っていた。
太児は、何が何だかわからない。
背後から軽い声がした。
「来たか…」
振り向くと、そこには髭を長く伸ばした初老の男が立っていた。手には木の鍬(くわ)、腰には小刀。
顔には深い皺が刻まれているが、目は意外と優しい。
「…ちょっと手伝え。田を耕すぞ」
「えっ、なんで、いきなり??」
太児は木鍬を握らされ、男と一緒に、畑を耕した。額から汗が流れ、手のひらにマメができる。
「お前さん、うちの拳術に興味を持っただろう。それで時空を超えてワシのところに来たのじゃ。お前さん達の世界じゃ、ワシが太極拳の創始者ってことになっとるようだ。ワシは昔から伝わる拳術をまとめて、村の連中に伝えただけじゃが、何百年も続いて、異国にまで広がっておるとは嬉しいもんだのう。ワシの名は陳王廷という」
「えっ、太極拳?何百年?」
「拳術は人が生きる道でもある」
「……生きる道?」
「そうとも。大地を耕すのも、拳を練るのも、似たようなもんじゃ。雑草を抜き、根を深く張り、雨風に負けない体をつくる…」
一息ついて、川で顔を洗い、腰を下ろした太児の目に、剣が映った。
陳王廷が、ゆっくりと小刀を抜いて舞い始めたのだ。
あの湖畔で見た庵天先生の剣の動きと似ているが、もっと生々しく、土と血の匂いがするようだ。
小刀の動きは、「型」であり、「呼吸」であり、「生きる道」だった。
「お前に、いい友達を紹介してやろう。そこの小僧だ」
陳王廷が指差したのは、太児と同じ年くらいの痩せっぽちで歯の抜けた少年だった。古い平屋の建物の前で両手を広げるポーズをとっている。頭に手ぬぐい、肩に布袋を背負っている。
少年がこちらに気づいて、言った。
「…うん? 見かけない、ドンくさそうなやつだな。村のもんじゃないな。誰だ」
「柔太児…」
「おいらは楊露禅(ようろぜん)、この薬屋の丁稚だ。漢方薬を買いに来たのか?」
楊露禅は、活発でおしゃべり、人懐こい目をしていた。
「初めてのお客様には、漢方の処方代は一割引きの大サービスだ。風邪でも引いたか? 夜眠れない? それともウンコが出なくなったか?」
「えっ。いや、薬はいらないんだけど…」
太児は陳王廷に助けを求めようとキョロキョロしたが、その姿はもうなかった。
「…この小僧は村の生まれではないが、いずれ大物になるだろう…仲良くしておけ…」
陳王廷の声が遠くになり、楊露禅の声が大きくなった。
「それじゃ、武術を習いに来たのか? よそ者は習えないぜ。シッシッシッ! 門前払いだ! と言いたいところだが、おいらも同じ立場だ。大目に見てやるから、やりたきゃ勝手に真似でもしてろ」
楊露禅のポーズは武術の型のようだった。一つ一つの動きの意味はわからない。緩やかなのに力強く感じる。
太児は見よう見まねで真似し始めた。
手を右に引き、左足を踏み出す。
ゆっくりと、空気をかきわけるように手を動かす。
左手の平に、右拳を下ろして合わせ、上げた右足がまっすぐ地面に吸い寄せられ、地球と一つになる。
とても心地よい。体が水の中を動いているようだし、空気が体を通り抜けるかんじもする。
楊露禅が驚いた顔で見ていた。
「おい、はじめてにしては、うまいじゃねえか。村の外にも先生がいるのか?」
「いや、まだ何も習ってないけど…。先生はいるよ」
太児は少し嬉しくなった。
第五話 太児、陳家溝に至り童子に敗れて 己が未熟を悟ること
夕方になり、村で武術大会が開かれた。村は、陳家溝(ちんかこう)と呼ばれているという。漢方薬の名産地だそうで、楊露禅少年は、近隣の貧しい村から出稼ぎに来ているとのことだった。
楊露禅以外、村人のほとんどが親戚で、みんな陳さんだ。そして、ほぼ全員が武術をたしなんでいる。
武術大会は季節ごとに開催される村の祭りらしい。一見、相撲大会のようだが、棍(こん)を振り回している人もいる。棍は1メートルちょっとくらいの、棒だ。
いつのまにか拳二も来ていた。
「なんだここ? キャンプに来ていたはずなのに…」
「あれ、拳二もキャンプ場に来てたの?」
「太児もか? 急に景色がグニャグニャになって、ここにいた」
「不思議だね…。同じ夢を見ているのかも?」
聞くなり拳二は、太児の頬っぺたをつねった。
「イテテテテ…」
「うーん、夢にしてはリアルだな」
「自分をつねってくれよう…」
「いったい何が始まるんだろう??」
「武術大会があるんだって」
「夢だかなんだかよくわかんないけど、こんなの、やってみたかったんだよね。少林寺拳法には試合がないからなあ。一緒に出てみようぜ」
渋る太児を、拳二が引っぱり、エントリーしてしまった。
指定された出場種目は子供の部で、選手は小学生低学年くらいのチビッ子ばかり。
「なーんだ、張り合いがないなあ。まあ、手加減して遊んでやるか」
ところが…
「うわっ!」
「いててててて!!」
ちびっ子拳士たちに、全敗だった。
拳二は、突きをよけられ足を掛けられ、場外にすっころばされて、負け。
太児は棍(こん)で出場したが、簡単に受け流され、棍で手足を絡み取られ、身動きできなくなって、負け。
「おまえら、ダメダメだなあ〜!」
楊露禅が笑う。
悔しい。
けれど、怪我もしていないし、激しい感情のぶつかりもない。勝っても負けても、みんな笑っている。
太児は感じていた。
武術とは、力や根性ではなく、自然の流れなのだ。
あんな小さい子供達でも、いくらでも上手になれるのだ…。
大会終了後、焚き火を囲んで、楊露禅は、自分がとった三等賞の賞品の羊肉を焼きながら言った。
「おいら、……陳家の武術をちゃんと身につけたいんだよね。貧乏人の子せがれって人に馬鹿にされたくないんだ。ここにいれば、もっと上手く強くなれる」
太児は「ぼくも、そんな気持ちになってきた。ここの武術ならできるかも…」
拳二は「自分より小さい子に負けるなんて思わなかったなあ。俺も強くなりたい」
楊露禅が笑う。
「お前らがチビッ子に負けたのは、弱いからじゃないよ。お前らがヘタクソで、ちびっ子の方が上手かっただけだ。囲碁や将棋とおんなじだ。拳を合わせずに、怒鳴り合いで泣いた方が負けっていうルールなら、勝ち負けはわからんぜ」
楊露禅が太児を見つめて言った。
「太児は怒鳴り合いでも負けそうだけど」
「ううう…」
確かにここの元気のいいちびっ子たちなら、口喧嘩でも負けそうだと、太児は思った。
でも、強さと、上手さはちがう…
なにか、意外なことを知った気がした。
朝。太児は目を覚ました。
キャンプ場の芝生の上のテントの中だった。
手のひらには、うっすらと土の感触が残っていた。
「夢じゃ、なかった……?」
テントから出て、朝日を浴びる。
隣のテントでは、拳二の家族が、朝食の準備をしていた。
拳二達は、きのうの夜にやってきていたらしい。
拳二と太児は、不思議そうに顔を見合わせた。
第六話 太児、太極の理を知りて剣を改め 武の形を新たにすること
キャンプから帰ってきた翌日。
いつものように朝ごはんを食べ、学校に向かう道、太児は、何かが違っていることを感じていた。
…歩き方。景色の見え方。空気の肌触り…
道ばたの雑草が風に揺れるのを見て、「……太極拳に似てる」と思った。
「ふふ……」
なんだか、嬉しくなる。胸の奥が軽くなっているのを感じていた。
夕方の公園の片隅で、太児はひとり、楊露禅の型を思い出しながら練習していた。
手足を動かす。呼吸に合わせて、重心をゆっくり移す。
すると、木の陰からぬっと現れる影。
「おっ、いいね〜。太極拳ぽいじゃないか」
庵天さんだった。
「あれ! なんでここに……」
「そこの釣具屋がいきつけなんだよ。あそこ、ルアーの品揃えいいんだよな」
そんなことを言いながら、庵天さんが手本を見せる。
手を広げ、左足を静かに踏み出す。
まるで海底で海藻が揺らめいているような、滑らかで軽やかな動き。
太児は、真似した。
「ちがうなあ、踏ん張るんじゃなくて沈むんだ。力は出すんじゃない、自然に湧き出るんだ」
「…湧き…出る…」
「太極拳をやりたいか?」
「うん。面白そう」
「そうか。こっちには時々寄るから、会った時は、また教えてやろう」
その日から、太児の稽古が始まった。
なんとなく、思い出しながら、動いているだけだったが…。
毎日、登校前と夕方に公園に寄る習慣になった。
ある日、庵天先生が、木刀を二本持ってきた。
「太児、剣道やってるんだよな?」
「う、うん……ぜんぜん勝てないけど」
「太極拳は刀も剣も使う。ちょっと、構えてみな」
太児は木刀を構えた。いつも通りの中段の構え。
庵天先生はそれを見て、にっこりと笑った。
「剣道の試合は、先手必勝で攻めて勝つ思想だ。太極剣は受けて返す」
「受けて、返す……」
「竹刀は打つ剣。太極剣は導く剣。まあ、いつも通りに打ってきな。当たんないから、思い切ってやっていいよ」
太一は木刀を振りかぶり、飛び込んで庵天先生の頭に打ち込んだ。先生は、木刀に木刀を吸いつけるように合わせ、太児の力をそのまま流して、背後へ回り込み、木刀の刃を、 太児の首にそっと当てた。
「ガチガチとぶつけるんじゃない。相手の力に逆らわず、合わせる。これが太極の考え方さ」
太児は、目を見開いた。
「ま、試合向きじゃないがな。でも、これを知っておくと、剣を違った風に感じる」
庵天先生がニコッと笑った。
その週末。
剣道教室で練習試合があった。
どうせまた負けっぱなしだ、と思っていたが…
「時間切れ、引き分け」
審判が旗を頭の上で交差させた。
相手選手は、ゼーゼーハーハー言っている。2分間、飛び跳ね続けると、たいていそうなる。
ところが、いつもならへたり込んでいる太児が、静かに立っている。息も上がっていない。
それに、小手も面も胴も、一発も当てられていない。むしろ、太児の方が多く当てている。
太児のは、一本も有効にならなかった。剣道では、充実した気合で、大きな音が響くような打突をもって有効とされる。太児の竹刀は、スルスル当たるばかりで、さっぱり音がならないから、有効にならなかったのだ。
「太児、もっと積極的に攻めろ」と審判の先生に注意を受ける。
しかし太児は、負けなかったことに驚いていた。
相手が打ってくるのが分かった。無理に打ちにいかず、自然と相手の攻撃をいなすように受け流し、スッと返せば、小手や胴に入っていた。
次の相手は、太児が一番苦手としている藤吉だ。いつも強烈な体当たりをぶつけてきて、吹き飛ばされる。
「用意。始め」
審判の旗が振り下ろされるや否や、藤吉は猛烈な勢いで、踏み込んできた。竹刀を持った両拳を激しくぶつけてくる。
いつもなら衝撃を受けて、そのまま後ろに突き倒されるところだが、太児は左足をすっと右後ろに引いた。受けた拳の感覚はあるが、衝撃はない。ふんわりとスポンジで受けているようだ。
手応えを失った藤吉は、その勢いを弱めることができなかった。体勢の崩れた藤吉を、太児がちょんと竹刀の柄で押すと、藤吉は、投げそこなったコマのように斜めに回転して、ひっくり返り、コートの枠の外まで飛び出していった。
「場外!」
審判が旗を上げた。だが、一本にはならない。
再びコート中央で、竹刀の先を合わせて立つ。
「始め!」
藤吉は、今度は闇雲に飛び込んでこない。じりじりと摺り足で寄ってくる。
藤吉の竹刀が、太児の竹刀の上を滑るように進み、フワッと浮いた。振りかぶらずに、直線状に打ってきたのだ。頭の上まで来た時に、手首のスナップで面を叩けば、いい音が鳴る。
「メーン!」
だが、藤吉の竹刀は太児の面には当たっていなかった。浮き上がる藤吉の竹刀を、太児の竹刀がすり上げていた。
ドン!
またしても鍔ぜり合いの体勢だ。二人の拳同士が押し合う形になっている。
藤吉は脚を踏ん張り、腕を突っ張り、太児を押しのけようとした。距離が空いたところで、飛び退きながら面を打つつもりだ。
だが、藤吉は竹刀を振りかぶることができず、そのまま真後ろに飛んだ。仰向けにひっくり返り、ごろごろ転がり、コート脇に正座して待機していた部員の列に突っ込んだ。
「場外!」
場外二回で、太児の一本となる。
実質的には、まだ一本も取ってないが、カウント上は一本だ。太児にとって、はじめての得点。
試合は二本先に取った方が勝ちになる。
「藤吉に勝てる? でも…せめて一本はちゃんと取りたい!」
太児に勝負に対する欲が出た。
「構えて。始め!」
藤吉はフラフラだ。今ならいける気がする。
大きく竹刀を振りかぶり、剣道の基本通り、左足で床を蹴り、真正面から面を打ち込んだ。
が、太児の竹刀は、藤吉に跳ね上げられた。そして返す刀で胴を薙ぎ払われた。
パーン!と、いい音が、道場に鳴り響いた。
「一本!」
審判の旗が上がった。
結局この日も、太児は勝つことができなかった。
稽古が終わり、防具袋を肩に担いで道場を出たところで、藤吉に声を掛けられた。
「太児、今日はなんだか、いつもと違ってたじゃねえか。なんで俺が吹き飛ばされたのか、さっぱりわからねえ。何をしたんだ?」
「たまたまだよ…」
「たまたまで、二回もオレが転がされるかよ。何か違うことを習ったのか?」
「…太極拳だよ」
太児は小さな声で、つぶやいた。
「太極拳って、あの公園でやってる年寄りの体操か? そんなもんで俺を吹っ飛ばしたのか?」
「太極拳は、相手の力を借りるんだけど…。本当にできるとは思わなかった。藤吉は力が強いから、思った以上に飛んで行ったのかもしれない」
「なんかよくわからんが、すげーな」
「剣道じゃ勝てないし…。藤吉の最後の胴は、やっぱりすごかったよ。全然かなわないと思った」
「いや、太児、試合じゃ俺の勝ちだったけど、あれが本物の戦場での斬り合いだったら、死んでたのは俺の方だったかもしれないぞ。俺は本当は、そんな剣道をしたいんだ。昔の剣豪みたいになりたいんだよ。父ちゃんが警察でやってるのはそんなんだしな。お前、すげーよ!」
藤吉がそんなことを言ってくれるとは、予想もしていなかった。
第七話 太児、肉体改造を受けて基礎を築き 武の根を養うこと
次の日の夕方、公園で楊露禅がやっていた型を思い出しながら動いていると、庵天先生がやってきた。
「よう、試合どうだった?」
相手の動きが分かったこと、当たっても一本にならなかったこと、藤吉がすごい勢いで転がったこと、最後に胴を取られたことを、話した。
「ほう、やったなあ」
庵天先生は、嬉しそうに褒めてくれた。
「でも、相手が転がったのは、まぐれだな。まっすぐ突撃してくる現代剣道だからうまくかかったけど、本当の剣術なら斬られて死んでる。最後に胴を取られたのは、太児が剣道に付き合ったからだ」
「藤吉も、そんなことを言ってたような…。先生、武術って何なの?」
「武術は長生きする術だ。戦って生き残ることも、逃げて生き延びるのも、頭を使って戦わずして勝つのも、みんな武術だ。試合で勝ったり負けたりとは関係ない」
じっと黙って考えている太児に、庵天先生が尋ねた。
「…本物の武術をやりたいか?」
「よくわかんない。でも負けっぱなしはいやだな」
「そうだな。勝たなくてもいい。負けなければ生き延びられる。勇敢に突撃して死ぬのと、卑怯者といわれても生き延びるのとどちらがいい?」
「死ぬのも、卑怯者と呼ばれるのも嫌だよ」
太児の脳裏に、拳二が不良中学生どもに浴びせかけた「逃げるな、卑怯者!」の罵声が蘇った。
「武術は、生き延びる術だ。卑怯もくそも関係ない。死ぬことに美学を求めるのは、武士道だ。自分の命より大事なことに、命を懸けるんだ。どちらも難しい。ま、弱っちいやつにはどちらも無理だな」
「強くなりたいよ」
「そうか。じゃあ、まずは戦えるように肉体改造だな」
肉体改造という言葉に、ボディビルダーのような筋肉ムキムキのマッチョを想像したが、庵天先生の言う肉体改造は、全然違っていた。
「じゃあ、ちょっとしゃがんでみろ」
太児は蹲踞の姿勢を取った。
「お、さすが日本男児。蹲踞が決まってるね! じゃあ、踵を地面につけてしゃがめるかな」
踵を下ろすとたちまちフラフラする。庵天先生におでこをチョン突つかれて、太児は尻もちをついた。
「嘆かわしいなあ。それじゃあ、ウンコもできないぞ」
「うちも学校も洋式トイレだし、しゃがむことなんて、ないよ」
「それじゃあ、太極拳はできないんだなあ」
訝しむ太児に庵天先生が語った。
「太極拳は、そもそも、昔の支那の田舎の村で、百姓などの村人がやっていた武術だ。農耕作業のできる体でなきゃ、太極拳は難しい」
「村って、陳家溝のこと?」
「ん? そうだが、何で知ってる? 社会科で習ったか?」
軽い調子で聞いた庵天先生の目が、一瞬真剣になった。
「学校では習ってないと思うけど、陳家溝の陳さんと楊君に会ったよ」
「大丈夫か? 少年サンデーの古いマンガでも読んだのか?」
探るように、庵天先生は尋ねたが、話題を戻した。
「なんにせよ、現代日本の便利生活で腑抜けた体になっている今どきの子じゃ、本当の武術は無理ってことだ。関節が固まっていて、動くべき骨が動かせなくなっている。だから肉体改造をする」
「特訓するの??」
「特訓ってほどでもないが、毎日の生活習慣を変えていこう」
庵天先生からの宿題は、次のようなものだった。
トイレは和式を選ぶ。
家の廊下の雑巾がけ。
公園の草引き。
エレベーターを使わず、階段を上り下りする。
慣れたら階段は後ろ向きで上り下り。
信号待ちでは片足立ち。
などなど。
二週間後に、庵天先生のテストがあった。
「しゃがんでみな」
しゃがんでもフラフラしない。
「じゃあ、そのままキャッチボールをしよう」
庵天先生の持ってきたのは、バスケットボールだった。しゃがんだまま、パスの渡し合いをする。
「ボールが来たら、つかまず、弾かず、止めず、音もなく静かに投げ返すんだ」
庵天先生は、しゃがんだままでも、なんとか手の届く、絶妙な位置にボールを投げてくる。
「宿題はちゃんとやっていたようだな。よし。次の宿題は、今やったキャッチボールを誰かと2週間、毎日練習することだ。友達はいるか?」
「そんな暇な友達いないよ」
そこに美鈴が通りかかった。
「太児、バスケットボールでも始めるの?」
「おお、隣りの子だな。キャッチボールはできるかい?」
「バスケットボール部よ。朝飯前よ」
「じゃあ、毎日、朝飯前に太児に付き合ってやってくれ」
そんなわけで、太児と美鈴は毎日早起きして、キャッチボールをすることになった。
キャッチボールだけじゃつまらないとの美鈴の意見で、1on1の練習も加わった。うまいぐあいに公園にはバスケットゴールがある。
「ドリブルはもっと低く!どんくさいわねえ。足がもつれてるよ!」
庵天先生の宿題は、こんなキツイ特訓ではなかったはずだがなあ…と思いつつも、美鈴と過ごす朝の時間が楽しくなってきた太児だった。
2週間後、庵天先生がやってきた。美鈴も公園に来ている。
「どれ、やってみな」
キャッチボールを4,5回やったあと、美鈴が言った。
「先生、こんなこともできるようになったわよ。太児、シュートよ!」
太児はしゃがんだままドリブルを始め、立ち上がって走り出し、ゴール手前で跳び、ボールをそっとゴールに流し込んだ。
ボールは見事、ゴールの輪っかをすっぽりと通り抜けた。
「おおっ!すごいじゃないか! 次はそれを宿題にしようと思ってたんだ」
「えっ、シュートの練習?」
「ちがう。ドリブルだ。低い姿勢のまま、前後左右に歩き回る練習さ。相手との距離感もつかめるし、武術の練習にバスケットボールはちょうどいい。剣道は、前後の動きばっかりだからな」
では、新しい課題に進む、と庵天先生に宣言され、美鈴との練習は終わりかと、ちょっと寂しい気になったが、美鈴が言った。
「先生、一緒に朝飯前にやるから、私にも武術を教えてよ!」
「ふふ、いいだろう。一人でやるより上達が早い。ドリブルもひきつづき鍛えてやってくれ」
次の課題は、立っているだけの練習だった。
足を肩幅に広げ、手をみぞおちの高さに上げ、手のひらを自分の方に向け、中指同士を10センチほど離して、向かい合わせにする。親指は天に向ける。膝や股関節、肘、手首の関節を柔らかく、少し曲げる。頭のてっぺんが天からつるされているように、首を伸ばす。
遠くを見て、口は閉じて、鼻で息をして、後ろの音を聞く。ゆらゆら揺れてもいい。
「そのまま、何も話さないで15分。せっかく二人でやるんだから、向かい合わせになって、手の甲同士を合わせて、もたれ合ってもいいし、背中合わせになってもいい。恋人同士みたいで嬉しいだろ?」
太児が赤くなって言った。
「これ、何の意味があるの? 退屈なだけじゃない?」
美鈴が答えた。
「なに? 私と向かい合わせが退屈だっていうの!?
庵天先生が言った。
「ドント・シンク! フィール!(D’ont think! Feel!)考えるな、感じるんだ!」
翌朝、拳二が公園に見に来た。変な宿題がでたと太児に聞き、興味を持ったのだ。
向かい合って手の甲を合わせていた太児と美鈴は、拳二がくると、パッと離れてしまった。
「なに、恥ずかしがってんだよー。宿題だろ!」
「べ、べ、べつに、本当は一人でやる練習だし!」
「なんだ? じゃあラブラブにさせるための課題なのか?」
「ちがうわよ。ちゃんと意味はあるのよ」
太児が庵天先生に聞いた話では、まっすぐ立ち続けることで、骨組みや内臓が整い、武術的な体の基礎を作れるとのことだった。站樁功(たんとうこう)というらしい。
二人でひっつくのは、お互いの力加減を感じて、自分の重心位置を加減できるようになる、かも。ということだった。
「そんな練習、少林寺拳法で聞いたことないぞ」
「中国武術の基本だって。考えるな! 感じろ!ってさ」
「ふーん、よくわかんないけど、俺も一緒にやってみよう」
拳二も二人のポーズを真似して、両手を上げて、立ってみる。
1分、2分、退屈だ。
「ところで、拳二は最近変な夢を見なかったかい?」
「変な夢?」
「昔の中国に行った、みたいな…」
「えっ、キャンプに行った日だ。ちびっ子に負けて悔しい夢を見た。太児もいたぞ」
「強くなりたいって言っただろ」
「…もしかして、同じ夢を見たのか?」
不思議だった。どうやら夢の中で、会っていたらしい。
「夢で見た武術を、本当に今、やってるんだな。でもよう、この、立ってる練習で強くなれるのか? ぜんぜんそんな気がしないけど」
「この後は、ドリブルの練習もするのよ。それも宿題」と美鈴。
「俺はそっちの方がいいや。じっとしてるのはつまんねえ。でも、ドリブルをして強くなれるとも思えないけどなあ」
「ドント、シンク! フィール!」
早朝の公園で少年少女がへんてこなことをやっていると、当然ながら、夜通し遊んでいた不良中学生たちに絡まれる。
「おい、何やってんだ。ジュース代置いてけよ」
いきなり太児が腕をつかまれた。
「もってないよ」
「そうか。じゃあ、二三発殴って勘弁してやる」
太児は、深く呼吸した。
手を掴んだ中学生が、バランスを崩してひっくり返った。
「……こいつら、なんか変だ。ほっとこうぜ」
彼らは去っていった。
拳二と美鈴がぽかんと見ていた。
「な、なにしたの、今の……」
太児もぽかんとしていた。
「なんだろうね…勝手に転んだんだよ…戦わずして勝つ…ってやつかな?」
第八話 太児、再び陳家溝に至り 太極の気を知ること
夕方、太児はピアノに向かった。
呼吸を整え、体を静かにして、気を沈め、鍵盤に触れる。
ショパンの「雨だれ」。
太児は、驚くほど指が軽やかに動くのを感じていた。静けさの中にある力。
「雨だれ」は、大地に降り注ぐ雫。柔らかく、優しく、響いた。
ぽつ、ぽつ、と静かに降り始めるような雨の旋律が、夜の空気に溶ける。
胸ポケットの木玉が、微かに震えた。
太児は演奏を続ける。
左手が淡々とリズムを刻み、右手が淡い旋律を紡ぐ。
雨が強くなり、水しぶきが煙のように上がる。
太極拳の型の記憶が、重なる。
呼吸と指の動きが一致し、心が澄んでいく。
…胸ポケットの奥から、青白い光があふれ出した。
周囲の空気がひんやりと濡れ、ピアノの音が遠のく。
雨だれの旋律が、螺旋の渦を巻く。
「えっ……な、なに……?」
視界が歪み、足元の床が消えた。
重力が逆さまになって、太児は、柔らかな光に浮かび上がっていた
…ざーっと、と雨の音が耳に届く。
目を開けると、見たことのある村の風景だった。
濡れた土の匂い、遠くでなく羊の声。
土壁の家々。
木玉は、淡い光をゆっくりと失っていく。
背後から、声を掛けられた。
「おう、また来たのか!」
楊露禅だった。
「あれっ、楊君、ということは…また昔の陳家溝村に来たんだな。来ようと思ったわけじゃないけど…」
「おう、せっかく来たんだし、おいらの棍の練習に付き合えよ! 狭い部屋だけど、濡れないで練習できるぜ」
楊露禅が、1メートル少々の棒を二本とりだして、一本を太児に放り出して渡した。
「こんな狭い部屋で棒を振り回したら、ぶつからない? ぼくはまだしゃがんだり、ドリブルしたり、立つ練習をしていてるだけなんだけどなあ。剣道は前からやってるけど」
「しゃがんだり立ったりするのに練習がいるのか?」
「この時代とは生活習慣が違うから、太極拳を学ぶためには、そこからやらないといけないって言われたよ」
「よくわからないなあ。立ったり座ったりしない生活を送ってるのか?」
「立たないわけじゃないけど、ちゃんと立つというか…」
「ふーむ。さっぱりわからんなあ。剣道って、剣術かい?」
「竹を割って作った刀で叩き合うんだ。こんな狭いところじゃ練習できないよ」
「狭い場所で使えなきゃ、役に立たないじゃないか」
「えっ、そうなの?」
「戦いは、広い野原でおこるもんじゃないぜ。路地裏や建物の中でも使えなきゃあ。それに、いくら広くったって、大人数での混戦で、闇雲に刀や槍を振り回したら、味方に当たっちまう」
「なるほど…実戦的だね」
「実戦的じゃない武術なんて、あんのか?」
「ぼくの住んでいる世界では、実戦なんてないからね。武道は精神修行と、健康のためだよ」
「それもいいけど、まずは戦えなきゃあね」
戦いの練習と聞いて、思い切りガツンガツンと打ち合いをするのかと思ったら、楊露禅の動きはのんびりしたものだった。
お互い、棍の両端を持ち、向かい合って、棍の真ん中あたりを合わせて、軽く押し合う。
太児がグイッと押し込もうとすると、楊露禅の棍はヌルリと向きを変えて、端が太児の手首を押さえた。太児が慌てて払いのけようとすると、もう反対側の端が、太児の脇の下に滑り込む。
太児は思わず仰け反ったところ、また反対側の端が、太児の膝を裏から引き寄せる。太児は膝を地面に押さえつけられ、身動きが取れなくなってしまった。
「ほら、こうやると全然場所を取らないだろう?」
「なんだか、不思議だ…。剣道みたいに打ち込んだらどうなるんだろう?」
「やってみろよ」
太児が振りかぶって、楊露禅の面を打とうとした。太児は、楊露禅の棍にバシッと受け止められるか、ガツンと跳ね上げられるものと思っていたが、楊露禅は棍をもつ手を頭の高さに上げただけだ。
太児の棍は、斜めに垂らした楊露禅の棍に吸い付いた。
「あっ」と思ったときには、楊露禅の顔は、目の前だ。両方の手は棍で軽く封じられ、足は楊露禅の足でつっかえ棒にされて、もう動けない。
「ふふっ。太児は棍と拳を別物に考えているみたいだな。…おんなじなんだぜ。刀も剣も槍も、みんなおんなじだ」
「ええっ、どういうこと?」
フッと楊露禅が息を抜くと、太児はへにゃッと、床に転がされてしまった。
太児は、刀の持てない世の中で、剣道なんて役に立たないと思っていたが、それは違っていたのかな?とふと思った。
狭い部屋の中で、ゆるやかな対戦が、延々と続く。一方的に太児が転んだり、吊上げられたり、這いつくばったりだ。
太児は、目が回って、フラフラになってきた。
その時…
「…気を感じるのだ…」
ふいに、低いが、軽い声が響いた。
…陳王廷の声だ。太極拳の創始者と言われる伝説の人物。部屋の入口の外に、ぼうっと立っている。
「き??」
「見えぬものを感じるのよ」
陳王廷は、鍬を持っている。
「この世界は陰と陽でできている。」
陳王廷が鍬を振ると空気が渦を巻き、狭い部屋の中を洗濯機のように回り出した。
「太児。考えるな。感じるのだ」
その瞬間、体が自然に動いた。足を開き、掌を左右に分けて陰陽の渦を受け流した。
「……えっ?」
「無極から太極に…庵天の導きだな」
「えっ、庵天先生?」
太児のまわりの空気が重くなる。見えない糸が全身を纏い、体を操っている。心の奥に白い渦が巻く。
打つんじゃない。導くんだ。
棍が、風と重なる。大きな太極図を描いているようだった。
陳王廷は、静かに鍬を置いた。
「太極は力ではない。理でもない。問い続けることだ」
「問い……? ちょっと問いますけど、さっき庵天先生って言いました?」
「…気にするな。そのうちわかる」
そういって、陳王廷は消えた。
外に出ると、空に無数の星が瞬いていた。
楊露禅の姿はいつのまにか見えない。
「気って、なんだろう……。さっぱりわからない…。非論理的だ…」
立ち尽くす太児。
「でも…実に面白い!」
第九話 太児、庵天に従いて套路を学び 太極の形を整えること
太児の日常が少しづつ変わっていた。
学校や剣道教室に行くときの、ビクビク感はなくなってきた。
ピアノは音色が優しくなり、姿勢も良くなった。
人の話をちゃんと聞けるようになってきた。これまでは、聞いているふりをしながら「聞きたくない!」と思っていることが多かった。
「お母さん、今日の晩ごはん、手伝うよ」
「えっ? ……どうしたの、急に」
「えっと……なんでも修行だな、って思って」
「助かるけど…。包丁で指を切らないように気をつけてね」
お母さんが、包丁の使い方を見せた。
太児の手は、包丁を握るとともに、野菜の感触を確かめていた。柔らかく、しかし芯のある白菜の感触。重力とバランス。
太極拳で学んだ感覚が、台所にも生きていた。
夏休みになって、太児たちは、湖畔で、庵天先生から集中練習を受けることになった。
木の葉のざわめきと、遠くの子どもたちの笑い声が混じっている。
庵天先生はベンチに腰を下ろし、拳二を見上げた。
「拳二は少林寺拳法をやっているんだったな。どんな練習をしている?」
「突きとか蹴りとか基本練習をやって、それから法形。二人で技の練習をやって、たまに乱捕」
「技の練習は、どんなのだ?」
「相手の突きや蹴りをよけて、返す練習。少林寺は守ってから反撃するんだよ。御仏の心だな」
拳二は待ってましたとばかりに胸を張る。
「突きも蹴りも、いっぱい技があるよ。投げ技や固め技もあるし。型の数も……すごく多いよ!」
拳二の声には誇らしさがにじんでいた。
太児も「かっちょいい!」と思わず聞き入る。
「太児、ちょっと腹を突いて来いよ」
拳二は顔の前で両手を広げて大きく構えた。そして太児の中段突きを、手のひらで受け流しながら、太児の手首を返し、同時に、蹴りを繰り出した。蹴りは、ピタッと太児の腹の手前で止まったが、体勢の崩れていた太児は、手首をこねられ、ごろッと地面に転がされた。
「これが、下受け蹴りからの小手投げ」
といいながら、拳二が太児の手首を引き上げる。うつぶせにひっくり返された太児は、背中に膝を乗せられ、肩は地面に押さえつけられ、身動きできない。
「拳ちゃん、すごい!」
美鈴が黄色い声を上げる。
「むぎゅ~~。いきなり投げるなんて、ひどいや」
庵天先生は「ほう」と頷き、目を細める。
「素晴らしいね。受けから固め技まで途切れなく、流れるようだ。ずいぶん練習しているな。ただ……」
先生は少し言葉を置いた。
「さっき、腹じゃなくて顔を打たれていたら受けきれたかな?」
「八相構えには中段突きがお約束だよ」
「まあ、練習だからな。上段攻撃にはそれに対する防御方法があるだろう。でも、すべてのパターンを覚えて、実戦で使えるレベルにまで鍛えるのは……現実的に可能なのかな?」
拳二は口を尖らせた。
「え、それは……練習すれば…」
「努力は否定しないけど、人の動きも攻撃も無限に変化する。防御側がすべてに対応するのは大変だ。動体視力と反射神経を鍛えるのにも限界がある」
拳二は言葉に詰まった。
「最初の間合いが離れていると、どうしても攻撃する方が有利だ。バリエーションが多ければ多いほど、そうなる」
庵天先生は柔らかく笑った。
「太極拳の形は、特定の攻防を想定していないんだ。こう攻められたら、こう返すと考えるのではなくて、相手がどうであっても、自分は攻撃されず、有利に動ける形を作る稽古なんだよ。だから、動作の名前も、どう受けてどう反撃する、みたいな名前にはなっていない。『白鶴亮翅』とか『雲手』とか、ふんわりしたイメージばかりだ」
太児は目を丸くした。
(特定の技じゃなくて、体の使い方を覚える……?)
今までの武道のイメージが、ゆっくりと裏返るような感覚だった。
拳二はまだ納得いかない顔をしていたが、太児は感動していた。
どんくさい自分に合っているのは、こっちだ。
ただの形だと思っていた太極拳が、急に深く、果てしないものに思えてきた。
美鈴が聞いた。
「庵天先生は、道場をやってないんですか?」
「ん? 昔はやってたけどな。今はやってないよ…」
庵天先生はしばらく黙って、揺れる柳の葉に目をやった。
「中国の小さな村で、十年修行して、日本に帰ってきた。しばらくして教室を始めた」
太児は、ごくりと唾をのむ。
「それって、陳家溝って村じゃ?」
「…まあ、そこだ。前にも言っていたな」
美鈴が問うた。
「なんでやめちゃったんですか?」
庵天先生が、ふーっとゆっくり鼻息を出した。
「教えるってのは、技だけじゃない。伝承者は、伝統文化や生き方も背負っているんだ。だが、こっちじゃ形ばかりにこだわって、俺が学んできた太極拳をニセモノだなんて言うんだよ。俺が本当のことを言うと、自分たちが否定される気分になるんだろうな」
庵天先生が3人の方を向き直って言った。
「俺は日本人なのに、よそ者扱いさ。ネットでも散々悪口を書かれたよ。あっちじゃ、よそ者の日本人、こっちでもよそ者だ。本場帰りだって噂になって、道場破りも次々と来たしな……。いちいち応対も大変だ。俺は、そういうのに嫌気がさした」
庵天先生が、フーッと息を吐く。
「それで、教室はやめた」
庵天先生の背中が寂しそうに見えた。
「けどなあ」
庵天先生は空を見上げて言った。
「水は形を変えても流れ続ける。……お前達はその流れの先にいるのかもしれんぞ」
ニヤッと笑って、言った。
「実は俺は、お前たちみたいな子供に教えたことはないんだ。大人に教えるより楽しいかもな…。本当はまだ早いが、型を教えてやる。懶扎衣という型だ」
庵天先生が立ち、3人を、横一列に並ばせた。
「足を横に広げる。三歩半だ。馬の背中に乗っていると思うんだ。体重は、右足に載せる。右手は右膝の方向で肩の高さ。指は柔らかく伸ばして、指先を天に向ける。左手は、腰に当てておく。人差し指が肋骨につながる位置だ。長い服の裾をたくし上げるように見えるから、懶扎衣っていう」
庵天先生は、3人の形を、手取り足取り、正しい形に整えていく。
1分、2分、3人の足がプルプルと震えてくる。
「きつくなってきたかな? じゃあ動いてみよう。右手を下ろして、スイカを抱える形。体重を左足に移す。目は斜め左方向を見る。ヘソも斜め左向きだ。見ている方向に右手を上げる。水を掬う感じだ」
その形で止めて、庵天先生が形を整えていく。
「体重は左足に載ったまま、正面に向き直る。右手は掌を返して、前に向ける。そして、体重を右足に移動。右手を右に広げると、元の形だ。これを止まらずにゆっくり繰り返す」
庵天先生が、3人に背中を向け、ゆっくりと繰り返して見本を見せた。
「円の動きに見えるが、手でマルを描くんじゃない。手は上下しているだけだ。体重移動と、方向転換が合わさって、円運動に見える」
「いつも頭が吊るされている気分でいろ。仰け反ったり俯いたりしないように。肩と肘は上げるな」
要求が次々と出される。
「まあ、一度で覚えられるもんでもない。形は何年もかけて整えていくもんだ…。ちょっと休憩」
太児が「フーッ」と大きな息を吐いて、地面にへたり込んだ。拳二と美鈴も足を叩いたり擦ったりしている。
「ふふ。ちょっときつかったかな。こうやって、しっかり土台を作っていくんだ」
「これはどんな意味があるんですか」と拳二が尋ねた。
「動作の意味は考えなくていい。少林寺拳法みたいに守って反撃している意味もあるが、蹴ったり投げたり武器を使ったり、あらゆる要素が含まれているのが、太極拳の型だ。まずは正しい形をしっかりと体に覚え込ませて、考えなくても動けるようにする」
剣道にも形があるはずだけど、ほとんどやったことはないな…と太児は思った。ひたすら打ち込み稽古と、乱捕ばかりだ。
「次は左手でやってみよう。右手は腰じゃなくて、鈎手(こうしゅ)にして、肩の高さに上げておく」
鈎手は5本の指を円く曲げて指先を合わせる形だ。手首を折り込み、指先を地面に向ける。見本を見せながら庵天先生が拳二に言った。
「少林寺拳法の鈎手(かぎて)は、字が同じだけど、指を張って手首を反らすから、全く逆だな。なんで違うのかは、知らんけど」
庵天先生が左手を掌、右手を鈎手にして、左右に広げた。
一瞬、庵天先生が大きくなったように見えた。
「この形を単鞭(たんべん)という。一本の棒を持っている形だ。陳家溝あたりでは、羊の群れを追い立てる棒を鞭(べん)といったんだ」
先ほどと同じように、庵天先生が見本を見せ、3人が真似をしながら、ゆっくり動いた。
「空中で糸を巻くように、ゆっくりゆっくり動くんだ。もつれたり切れたりしないように、丁寧に丁寧に」
ゆっくりでも、三人とも汗だくだ。
「懶扎衣と単鞭。毎日128回ずつが課題だ」
うひゃーと太児は思った。
拳二が尋ねた。
「突きや蹴りはいつやるの?」
「まだ先だ。ある程度、太極拳の体ができてからじゃないと、モノマネになって、練習の意味がなくなってしまう」
「少林寺拳法の突きや蹴りとは違うの?」
「突きは突きではないし、蹴りは蹴りではないってところが違うな」
「???」
「まだわからなくてもいい。拳二が一番苦労するかもなあ。太極拳と日本の少林寺拳法では、体の使い方が相当に違う。少林寺の道院でやったら先生に注意されるだろう。なんとなく、感覚を体に流すだけでいいよ。…でも本当は、同じなんだ。そこに気づくのは20年先かもしれないけどな」
「女の子でもできるの?」
「他の格闘技よりはやりやすいと思うよ。弱い人が強い人に勝つのが太極拳だ。日本で太極拳をやってるのは、ほとんどがおばあちゃんだしな。あれを、太極拳と言えるのかどうかは別として…」
「あれとは違うの?」
「公園や、カルチャー講座でやっている年寄り向け太極拳は、ほとんどが簡化24式太極拳だ。今の中華人民共和国になってから作られたもので、労働者の健康のためのものだったが、今はお年寄り向けの健康体操になってしまったな。俺が学んだ伝統の太極拳とは違う」
「伝統の太極拳って?」
「国家や団体が、試合や競技のために、動作やルールを制定した後づけの武術に対して、いつから始まったのかわからないような、地域や血縁関係の中で、面々と地味に伝えられてきた武術を伝統武術っていうのさ。いまどきは、熱心に取り組んでいる人もいなくなった」
「伝統太極拳って、人気ないんだね」
「まあな。簡化太極拳をやる人は多いが、古くて地味な伝統武術をやる人は少なくなった。若者は、ド派手なアクションパフォーマンスのカンフーをがんばってるみたいだけど、あれも、伝統の武術とは違う」
「えっ? どゆこと?」
第十話 太児、東山に会いて推手を習い 太極の理を悟ること
体育館には、美しく迫力あるポスターが貼られ、色とりどりの中国風の表演服を着た人が行きかう。カンフー服や剣や本を売るショップも大いに賑わっていた。
太児は胸が高鳴った。
(これが中国武術の大会か……!)
太児と美鈴と拳二は、庵天先生に勧められて、中国武術の大会を見に来ていた。
庵天先生は「たまにはフィクションもいいだろう。楽しんできな」と、謎めいたことを言っていた。
「俺の先生だった東山先生に連絡しておくよ。話を聞いてきたらいい」
何百人もの武術の選手が集まり、鍛え上げられた技が披露されると聞く。期待で、胸の奥がむずむずする。頭の中ではカンフー映画の音楽が流れていた。
ちなみに拳二の頭の中には、映画「少林寺」のテーマソング。
太児は「燃えよドラゴン」。
美鈴は「セーラームーン」のテーマであった。
アリーナに入った瞬間、まばゆい光と音楽が押し寄せた。
広い会場いっぱいに、色とりどりの衣装をまとった選手たちが舞う。
紅、藍、金、翡翠色。剣は銀の光を放ち、槍の穂先は弧を描いて空を切る。
観客席からは拍手と歓声。
美鈴は目を丸くした。
「わあ。オリンピックの体操みたいね……!」
拳二もびっくりしている。
「少林寺拳法でも、こんなにぴょんぴょん飛ばないもんな」
「東山先生に会えといわれたが、どこかな?」
受付に聞くと、受付横で立っていたのが東山先生だった。太児達を待ってくれていたらしい。
「君が太児君か。庵天君から聞いているよ。今日はワシがスペシャルな案内をしてやろう」
東山先生は日本カンフー太極拳連合会の創立時のメンバーの一人だそうだが、すでに引退されている。
髪の毛は真っ白で、姿勢が良く、背が高く見える。色褪せた太極マークの入った、ヨレたジャージを着ていた。
東山先生は、アリーナを囲む観客席の一番上の席に太児達を案内し、今日のプログラムや、出場する武術を一通り説明した後、ため息をついた。
「こんなのは…見て楽しむだけにしておくことじゃ」
「……え?」
突拍子もない言葉に太児はまばたきする。
先生は口元をゆるめて笑っていたが、その奥には寂しさが潜んでいた。
「君たちから見れば、カッコいいじゃろう。見た目は派手だし、音楽も華やか。じゃがのう、形ばかりで、中は空っぽじゃ。君達が庵天君の紹介で来たから言うんじゃが…」
東山先生は、辺りをきょろきょろと見まわした。
「他のもんには内緒じゃ」
ステージでは、若い選手が空中で二回転し、どよめきが起きる。
「花拳繍腿(かけんしゅうたい)という言葉があってのう。華のように突き、にしきのように蹴るという、褒めたたえるようで、実はバカにした言い表しじゃ。蝶のように舞い、蜂のように刺すモハメド・アリとは違うのじゃ。アリなのにハチとは、これいかに」
ここは感心すべきなのか、笑うべきなのか、若い3人には計りかねる。
「昔はのう、推手ができねば太極拳を学んだとは言えんかったもんじゃが、今は、誰も手を取らん。評価されるのは見せかけの派手さばかりじゃ」
選手が着地に失敗したのか、膝を押さえ、苦しそうに退場していく。
「本場の中国では、若い選手が無理な動きで体を壊せば、また次の若者に替える。競技人口が多いからできることじゃが、まるで消耗品。ショーモーないことじゃ」
東山先生のダジャレが太児の胸に重く沈んだ。
「武術はエリート選手を育てるためのもんじゃない。大切なのは人間の育成じゃ。パフォーマンスのために体を潰してたら、何をやってるのかわからん」
フーっと息を吐いて、しばらく沈黙。
「老子は、強きは必ず弱しと言った。太極拳は、やわらかく、長く、誰もが続けられる道のはずじゃ。それが今は……」
先生は目を細め、ステージを見つめ続けた。
「……水のように生きる道のはずが、いつの間にか、花火のように消える道に変えてしまった」
そして、ふっと笑みを戻した。
「ま、タイジくん。花火はきれいじゃが、花火拳にはならんようにの」
「……花火拳?」
「パッと咲いて、パッと散る。残るのは煙と灰。そんなのは太極拳とはいえんのじゃ」
太児は笑った。けれど、その笑いの奥に、少しの苦みがあった。
拍手の音が、なぜか遠くで鳴っているように聞こえた。
大会の熱気を背に、東山先生は太児達を人気のないサブアリーナに連れていった。
がらんとして、試合のざわめきが遠くにこだまする。
窓から射し込む午後の日差しが、床に四角い光を落としていた。
「さて、君たち。推手は、やったことあるかの?」
「……ないです」
「じゃあ、やってみようかの」
東山先生が両手を胸の前に上げ、ゆっくりと差し出す手の甲を太児に向けた。
太児もおそるおそる両手を合わせる。先生の手は、思ったよりも温かく、やわらかかった。
「じゃあ、押してみよ」
太児は軽く押した…つもりだった。
次の瞬間、自分の足がふわりと床から離れ、二歩、三歩と後ろに下がっていた。
「えっ!? どうして?」
東山先生は笑っている。手には力がこもっていないのに、動きは川の流れのように自然だった。太児は初めて庵天先生に会った時のことを思い出した。
「もう一回。もっと元気よく行こうかの」
太児が力いっぱい押すと、先生の手がゆっくり円を描いた。
その小さな円の中で、力が勝手に方向を変え、バランスが崩れ、
「うわっ!」
気がつけば、太児は床の上を転がっていた。
「ほいっ!」
東山先生が、円を反対方向に回すと、太児は動画の逆回しのように、元の位置に立たされていた。
「これが推手じゃ。力で勝つんじゃない。相手の力を受け入れて、流れを変えるのじゃ」
先生は太児の手をそっと放し、体育館の外の風を見やった。
「太児くんや、自分の中の恐れに気づいたことはあるかの?」
「……恐れ?」
「たとえば、負けるのが怖い。痛いのが怖い。バカにされるのが怖い、恥をかきたくない、恥をかかせたくもない、怒らせたくない、悲しませたくもない、そんな自分を認めたくない、そんな気持ちが、力んでしまう原因じゃよ」
太児の胸がズキンとした。
(そうだ……ぼく、いつも怖かった)
人に笑われるのが怖い。ドジって恥ずかしいのが怖い。誰かの期待に応えられないのが怖い。
それでいつも、体も心も、ガチガチになっていた。
「太児くん。弱さは捨てなくていい。認めるんじゃ。それが、柔らかさのはじまりじゃ」
太児は両手を見つめた。
「老子は言った。上善は水の如し。水は争わない。じゃが、石をも穿つ」
自分の中に、川の流れがある気がした。
花火のように一瞬で消えるものじゃなく、静かで、でもどこまでも続く流れ…。
「太児くん、見た目よりも、中にある流れの感じを大切にするのじゃ…」
東山先生の声が、ゆっくりと胸に染み込んでいった。
第十一話 太児、庵天に問いて老子の道を聞き 無為の理を知ること
太児は東山先生の話していた「老子」について、庵天先生に尋ねた。
今日は、庵天先生の趣味に付き合って、湖の桟橋から釣りをしている。庵天先生が言うには、趣味ではなくて、生活の糧だそうだ。
「また難しい話を小学生にしたもんだな。老子ってのは、これでいいのだ、バーカボンボン!ってことだ」
「さっぱりわかりません」
「じゃあ、わかりやすいように、かんたんに説明してやろう。老子は大昔の思想家さ。実在したかどうかはわからない。だけど、太極拳と老子の教えはよく合っているんだ」
庵天先生がピュッと竿を振ると、ひゅるひゅると糸が伸びていく。
「老子っぽい武術って言ってもわかりにくいだろうな。老子っぽくない武術の方がわかりやすいか…」
太児も竿を振った。
「トーナメントの頂点に立つとか、最低でも金メダルとか、そういうのは老子っぽくない。パワーとスピード命、より強く、より速く、400戦無敗、霊長類最強!も違う。スポ根マンガちっくな、血と汗と涙の努力と根性の結晶も、太極拳じゃないんだなあ」
庵天先生は、ゆっくりとリールを回して糸を巻いていく。
「頑張るときはがんばる!オフはしっかり休む!というのも違う」
太児も糸を巻き取っていく。
「勧善懲悪、俺は正義であいつは悪党、月に代わってお仕置きよ、征伐!というのも違う。民は政治に関心を持たず、平和に幸せに暮らしているのが良くて、統治者は、自分が良い人間でいることで国がよくなる、というのが老子の考えだ。…太児、巻くのが速すぎるんじゃないか?」
太児のルアーが、むなしく藻を絡めて戻ってきた。
「華々しく活躍してスターの地位を得て、富と名誉を欲しいままにして、引退後は業界の偉いさんになってふんぞり返り、磐石の組織体制で下部組織から上納金が集まりウハウハ、長老に上り詰めれば、大きな影響力で時の政治に口を出す、というのは老子の嫌うところだ」
庵天先生は、ゆっくりとルアーを引き寄せている。
「無為自然、あれこれ小細工しないで自然体ってのが、老子の思想であり、太極拳の思想でもあるのさ。太極拳は、強さとか権威の象徴となるものじゃない。ひとつの生活習慣として、頑張ったり気負ったりすることもなく、日々チンタラ続けて、健康を保ち、精神の安定に役立て、人生を楽しくすればいいのさ」
「そうか、体を壊してまでも、金メダルを狙うのは、太極拳じゃないんだね」
太児は再び、竿を湖面に向かって振った。
「他人の価値観にあれこれ言うべきじゃないけどな。否定はしないし、合わせることもない。人は人、自分は自分だ。俺の言うことが絶対に正しいわけでもない」
「庵天先生の言うことは信用するよ」と太児が言った。
「妄信的なのも良くない。拳二のやっている少林寺拳法は、仏陀の教えをベースにしているが、仏陀は物事を正しく見て、正しく考えて、正しく行えと説いている。その上で、執着を手放して、自由になれ、と言っている」
庵天先生の竿が、グググっと引っ張られた。
「おっ、かかった。ほかにも、孔子や孫子など、いろんな思想の影響を受けて支那の武術はできている。また、おいおいと話そう」
庵天先生は、30センチはあるマスを釣り上げた。
マスを魚籠に入れると、庵天先生は桟橋の先で、靴を脱いだ。
「太児、裸足になれ」
「え? ここでですか?」
「温度を感じろ。足の裏で」
太児は恐る恐る靴を脱ぎ、桟橋に立つ。ひんやりとした濡れた木の感触が足に広がった。
「いいか、太極拳はまず立つことからだ。相手も自分も、水の中にいると思え」
「水の……中?」
「そうだ。押せば返すし、引けばついてくる。それを体で覚える」
庵天先生は太児の腕に軽く触れ、ほんの少し押した。
太児は後ろによろけそうになったが、先生の手がふっと消える。すると、逆に前へ倒れそうになる。
「ほらな。力は消えても、流れは残る」
「……なんか不思議です」
「自然の法則だ。太極拳は、無為自然だ」
湖面から立ち上る朝もやの向こうで、太陽が顔を出した。
「さて……今日は、せっかくだから、もうひとつ基本の型を教えよう」
庵天先生は、朝の光を背に立ち、ゆっくりと両手を胸の高さまで持ち上げた。
「これは雲手。雲の手と書く。」
先生の腕が左右に漂うように動き出す。手のひらは交互に入れ替わり、まるで湖面に浮かぶ雲を撫でているようだった。
「雲が動くと、日が出たり陰ったりするだろう。陰と陽が変化し続けるのが太極拳だ」
「なんでこんなにゆっくりなんですか?」
「速いと、纏絲勁が養われないからな」
「てんしけい??」
「リールに糸を巻くような力だよ」
太児は見よう見まねで手を動かすが、途中でぎこちなく止まってしまう。
「固いなあ。それじゃ、糸が絡まるよ。魚を釣るように動かせ」
庵天先生は太児と向かい合わせになり、太児の両手首に自分の両手首を合わせ、導くように雲手をした。
「雲は急がないが流れていく。糸は慌てず、ゆっくり巻く」
その感触は不思議と温かく、柔らかいが芯が通っていた。
「これ……前にやった懶扎衣と単鞭に似てますね?」
庵天先生はふっと笑った。
「まあな。交互にやっているといえる。これが太極拳の基本だ。俺は太極拳の始めたころは、毎日これを、低い姿勢で128回やってた。動きが止まると、村の年寄りに、棒でバシバシ叩かれたな」
少し遠くを見る目になり、やがて動きを止める。
「今日はここまでだ。頭で覚えるんじゃない。寝てても体が勝手に動くまで、やるんだ」
湖面の雲がゆっくりと流れていく。
第十二話 太児、再び陳家溝に赴き 擖手大会に出ること
夕方の公園。三人そろって雲手の練習。入道雲が出ている。もう夏も終わりだ。
「これって、何の意味があるんだよー」と、拳二。
「考えるな。感じるんだ」と、太児。
「なんだか、雨乞いでもしているみたいね」と、美鈴。
雨が降ってきた。
「お前が変なこと言うから、本当に降ってきたじゃないか」と拳二。
「晴れた日があれば雨の日もある。これも陰陽」と太児。
「っていうか、今光ったわよ。雷じゃない?」
ピカッ!
ドーーーン!!!
閃光が走り、空が真っ白になり、雷鳴が地面を揺らした。
ポケットの木玉から、青白い光があふれ出し、3人を包み込んだ。
視界が歪み、足元の床が消える。
重力が逆さまになったような感覚。
思わず目をつぶり耳をふさいだ三人だったが、目を開けると、そこは公園ではなく、赤茶色い地面に、土壁が並ぶ古い村だった。
「ここは、どこ?」
「ここは、前にも来たぞ。夢の中で」
「美鈴もとうとう来ちゃったか」
突然、大きな声がした。
「おい、お前ら! 雷が鳴ってるのに危ないぞ! こっちへ入れ!」
楊露禅だった。頭に手ぬぐい、肩に布袋を背負っている。
「楊くん!…ってことは、ここは陳家溝?」
「お前ら、また来たのか。ん、初めて見るのがいるな」
「友達の美鈴だよ」
楊露禅が、とつぜん真っ赤になった。
「お、お、女の子じゃないか! は、は、はじめまして!」
「わ、わ、初めまして。って、あなたはどなたで、ここはどこ?」と美鈴。
「ここは昔の中国で、陳家溝って村。太極拳の故郷だよ」と太児が答えた。
「なんで?」と美鈴が聞く。
「異世界転生だよ」と太児。
「どうして?」と美鈴。
「タイムスリープだね」と拳二。
「誰が?」と美鈴。
「ぼくたちが」と太児。
「なんで?」と美鈴。
「雷が鳴ったからじゃないか?」と拳二。
「どうして?」と美鈴。
「シンクロニシティってやつかも」と太児。
「誰が?」と美鈴。
「いいかげんにしなさいっ!」と楊露禅。
薄暗い空が、真っ白に光り、ほぼ同時にドーン!と爆発音が鳴った。
「わあ!」
「きゃー!」
稲妻が横に走る。
バリバリバリッ!!
竜が雲の間を駆け巡るようだ。
「大陸の雷は、遠くでゴロゴロなんて悠長なものじゃなくて、光った瞬間そこら中に落ちる物騒なモノだって、庵天先生が言ってた」
しばらく、バリバリドンドンと激しく暴れていた雷だったが、やがて去り、静かになった。
「太極拳には、雷鳴って名前のついている型があるんだって。激しくてカッコいいって」
「えーっ、見てみたい。太児、やってよ」
「まだ、雲手しか習ってないよ」
楊露禅が、振り向いていった。
「なに、雷鳴? おいらが見せてあげるよ!」
雷鳴は、現代では新架式と呼ばれる陳氏太極拳の型の別称だ。激しく打ち、跳び、足を踏み鳴らし、発声する。拳は風を切り、地面が揺れる。
楊露禅の雷鳴は、凄まじい迫力があった。泥臭く、決して華美ではない。前に見に行った、日本カンフー太極拳連合会の競技とはずいぶん違う。
「楊君、かっこいい!」と美鈴が拍手した。
「それほどでも…。えへへ」
「楊君は太極拳の達人なんだね」
「そんなんじゃないよ。おいら、村の人間じゃないし、本当は陳家の武術を習える立場じゃない。今のも盗み見て覚えたもんだ」
楊露禅は、漢方薬店の丁稚奉公として、他の村から出稼ぎに来ていたのだった。
「最近は、店長の紹介で陳長興老師に教えてもらえるようになったけど、最初の頃はよそ者扱いで、練習を見せてももらえなかった。太極拳は、陳一族しか習えない武術なんだ」
「ケチなのね」
「武術は防衛上の機密だぜ。うかつに外に漏れると、この村が危なくなるんだから、しょうがないよ」
「それを教えてもらえるようになった楊君って、信頼されているのね」
「働き者だからな。おいら」
「楊君って私たちと同じくらいの年なのに、もう働いているのね。えらいわ」
「村が貧しいから、しょうがないよ。おいらだって本当は勉強したいけど。でも、武術が学べるようになったから、幸せだ」
美鈴の目から、涙がこぼれた。
「おいおい、ちょっと、泣かないでくれよ、困ったなあ。太児、なんとかしてくれよ」
太児の目からは、滝のように涙があふれだしていた。
「なんだなんだ? なんだってお前まで?」
「ぼくは、学校にも行って、剣道もして、ピアノも習って、それでも不満ばかりだった。恥ずかしいよ」
「それはたしかに、恥ずかしいな。がんばれよ。…拳二はどうなんだ」
「俺は、勉強もできるし、スポーツ万能でクラスでも人気者だ。苦労が足りなくて恥ずかしいよ」
「イヤな奴だな、お前は。わざわざ苦労しなくていいよ。恵まれた力で、世のため人のために頑張れ」
「そうするよ…」
「それで、お前たち、今日は何しに来たんだ」
「雷が落ちて、気づいたらこっちに来てた」
「ふーん。じゃあ、せっかくだから、子供擖手(かっしゅ)大会にでも参加していけよ。一等賞は饅頭がもらえるぜ」
「擖手大会?」
「手を合わせたところから、相手の体勢を崩すだけの、優しい競技さ。殴ったり蹴ったり、つかんだり投げたりは無しだ。武器も無し」
「女の子でもできそう?」
「うん。問題ない。でも、たまに勢い余って、頭からひっくり返ったりすることもあるから、気を付けてくれよ」
村の真ん中の広場では、子供から老人まで、大勢集まっていたが、そんなに興奮した様子もなく、おだやかだ。大声の声援もなく、勝ったものも負けた者も、笑っている。
「それほどエキサイトしないんだね。賞品がショボいからかな?」
「お前なあ。陳家の武術の神髄が、この擖手に現れているんだぞ。派手じゃないが奥が深いんだ」
「ぼくたちの世界では、推手っていってたけどなあ。同じ意味かな?」
「推手だと、なんだか推すだけみたいだな。擖手ってのは、もっと、なんていうか、鋭くこそげ落とす感じだな」
おおっ、と会場にどよめきが起こった。
老人が、たくましい若者を、5メートルも後ろに弾き飛ばしたのだ。若者は順番待ちの参加者に受け止められて、ひっくり返らずに済んだ。
老人はほとんど動いてもいない。まっすぐ立ったまま、ニコニコ笑っている。
「あれだよ。陳長興先生が、軽い勁力でこそげ落としたんだ。若い人は自分の踏ん張った力の反動で、飛んで行ったんだな」
楊露禅が解説する。
「今のは、デモンストレーションだけど、陳長興老師は、村一番の達人だ。優しくて、おいらにも武術を教えてくれる。姿勢がすごくいいんで、位牌大王って呼ばれているんだ。長興老師が陳家に伝わるいろんな形をつなげて、長い套路にしたんだぜ。おいらも最近は、それを繰り返して練習している」
「楊君の先生は、陳王廷先生じゃなかったの?」
「陳王廷は、陳家の武術の始まりの人だよ。よく知らない」
「えっ???」
「昔の人だよ」
「えっ???」
ふいに、太児の頭に、低いが軽い声が聞こえてきた。
「…ここはお前の夢の世界…。細かいことは気にするな…。太極の世界の楽しめ…」
まずは拳二が競技場に立った。相手は同い年くらいの子だ。
右拳を左手で包み差し出すようにして、お辞儀をし、向かい合って、お互いの右手の甲を合わせる。
開始の合図はない。まずは、軽く手を合わせたところから、お互いの肘や腕に手を滑らせ、ハンドルを回すように回転させる。
2回転、3回転もしただろうか、とつぜん拳二がつんのめって、転がった。
拳二は、なにがおこったんだ? という顔をしている。
「大丈夫か?」と太児が声をかける。
「受け身は上手だから大丈夫だ」と、苦笑いしながら、拳二は元の位置に戻り、相手とお辞儀をして、競技場から降りてきた。
「拳ちゃん、うっかりつまづいっちゃったのね」
「いや、何が起こったのかわからないけど、前に転がっていたんだ」
楊露禅が言う。
「あれは、落とされたんだよ。それも、だいぶん手加減してもらってたよ。本当は受け身ができない位置に落とすんだけど、饅頭くらいでムキになって怪我させることもないからな」
次は美鈴が競技場に上がった。相手も女の子だ。
「低く構えておけば、そう簡単には転ばないわよ」
手を合わせ、軽く回しつつ、美鈴はバスケットボールのドリブルをするように腰を低くして、相手の懐に潜り込んだ。低い位置から摺り上げるつもりだ。
ところが。
相手はさらに低くなった。深く潜り込んだつもりの美鈴の、さらに真下に沈み込んでいる。後ろ足を深く曲げ、前の足は、前方に、ほぼ伸ばしきり、お尻は地面スレスレだ
その体勢から、ふわっと、前方に吊り上げられたかのように、立ち上がった。
美鈴は、赤ちゃんが高い高いをされるように持ち上げられ、すとんと下ろされた。勝負あり。美鈴の負けだ。
「ぜんぜん持ち上げられた感じがなかったわ。何があったのかわからない…」
「仰げば則ちいよいよ高く、俯せば則ちいよいよ深し…だな。この村の子供たちは、赤ちゃんの時から武術をやっているからなあ。よそ者には勝てないよ」
太児の番がやってきた。相手はなんと楊露禅だ。
「お前が相手かあ~。まあ、よそ者同士のよしみで、お手柔らかにしてやるよ」
太児は、日頃練習してきた雲手の要領で、楊露禅の動きに従う。
「おろっ、なかなかやるじゃんか。捨己従人(しゃきじゅうじん)が分かってきたか? これならどうだ?」
楊露禅は、太児が体重移動するのに合わせて、歩を進めてきた。太児は下がることができず、もう、顔がひっつくような距離だ。近すぎて、動くことができない。
「この距離なら肘でも肩でも、どこででも打てるぜ。今日のルールじゃ打撃は無しだからやんないけど」
苦し紛れの太児は、おしくらまんじゅうのように楊露禅を押した。
「そりゃ効かないよ。勝とうと思ったら勝てない」
太児が後ろにはじけ飛んだ。ところが、楊露禅がスッとついてくる。顔の距離が変わらない。
「もうちょっと、粘ってみな」
楊露禅が太児の腕に触れたまま、いきなり、さっきの美鈴の相手の子と同じ低い姿勢になった。
「うわっ!」
ひっくり返りそうになった太児だが、足を前に出し、同じ姿勢で沈み込んだ。
「太児、頭を下げるな、低くても位牌のようにまっすぐだ」
太児が首を伸ばす。
「そうそう。歩くぞ」
楊露禅が低い姿勢のまま、ざざざっと後ろに下がった。太児は必死でついていく。顔の距離は変わらない。
「ははっ!やっぱり、お前は見込みがあるよ」
楊露禅が、ふいに右を向いた。
太児は、楊露禅が向いた方向に、低い姿勢のまま、うわーっと声を上げて、ゴロゴロゴロと渦巻きのように転がった。
きれいに転がったので、どこも痛くはない。
砂だらけで、きょとんとしている太児だった。
楊露禅は、勝ち進んだが、惜しくもまたしても3位。
参加者全員に、饅頭が配られて、お互いの健闘をたたえ合った。
「1等賞の景品じゃなかったのね。参加賞かあ」と饅頭をほおばりながら美鈴が言った。
「擖手は本来、勝ち負けを争うものじゃないからなあ。お祭りみたいなもんだから、みんなもらえるんだ」と楊露禅。
「なーんだ。じゃあ、頑張って1等賞を狙うようなもんでもなかったんだね」と太児。
拳二が、ヒソヒソ声で言った。
「なあ、楊君、最後わざと負けなかった? 俺、楊君が優勝すると思ったよ」
楊露禅が、さらにヒソヒソ声になった。
「…俺はよそ者なんだぞ。優勝なんかしてみろよ、明日から皆に優しくされなくなっちまう。先生には教え甲斐がある奴と思ってもらえて、しかも、みんなからやっかみを受けないくらいにしとくのが、長くやっていくコツだ」
「はあ、処世術ってやつね。世知辛い世の中ねえ」
「っていうか、村で一番強い子供は楊君ってこと?」太児が目を丸くして聞いた。
「いや、大会には出てこない家もあるからなあ。わかんないよ」
「なんで出てこないの?」
「家によっては、秘密主義のところもあるんだ。村の中でも、丘の上に住む人たちは、武術の研究や開発をしている。公開されていない新しい套路なんかもある」
楊露禅がさらにヒソヒソ声になった。
「さっき見せた『雷鳴』もそうだ。丘の上にこっそり見に行ったんだ。おいらはよそ者なもんで、かえって警戒もされなかったのかも。長興先生には内緒だぜ」
「じゃあ、他の丘の下の人たちも知らないことを、楊君は知ってるってこと?」
「そうだよ。すげーだろう!」
ニヤッと笑ってドヤ顔を見せた楊露禅だったが、ふと寂しそうに言った。
「まあ、おいらはいずれ村から出ていく身だからな。伝承とかに縁はないんだよ。だから今のうちに何でも学べるものは学んでおきたいんだ…」
第十三話 太児、庵天に従いて撇身捶を習い 太極の拳を得ること
「さてお前たち。宿題はやっていたかな?」
前回の庵天先生による集中講座では、「懶扎衣」と「単鞭」を教わった。これを組み合わせた「雲手」は、太児が二人に伝えている。
三人がやって見せた。
「うんうん。まあ、良しとしよう。今日は反対回しをやってみよう」
庵天先生が、雲手を反対方向にやって見せた。左右の手が、交互に顔の前を払いのける動作だ。目の前の相手にビンタをするようなも見える。もう一方の手は、膝の前を払う。
「お前たち、親や先生からビンタされたことはあるか?」
「ぼくは、ない」と太児。
「私もないわ」と美鈴。
「オレはある。幼稚園の時に、女子のスカートをめくったら、ビンタされた」と拳二。
「アホね」
「お前だよ! ビンタをかましたのは!」
「あら、忘れてたわ。女の子のビンタもよけられなかったのね。お粗末な話」
「だから拳法を習い始めたんだよ!」
庵天先生が「はあ」と、ため息をついた。
「美鈴ちゃんのビンタはいいとして…」
「えっ、いいの!?」と拳二と、太児。
「きょうびは、親も教師も体罰をしない。俺は、これは良くない風潮だと思っている」
「えっ、なんで!?」と驚く3人。
「愛のない体罰は暴力だが、ときには激しい身体接触でなければ、伝わらないこともある。なんでもかんでも一緒くたにして、やめとこうっていうのは、親や先生が、自分の責任を放棄して、逃げてるんだ。訴えられたり、捕まったりするのは怖いからな。だけど、子育てに責任を持たなくなったら、教育は終わりだ。わかるかい?」
「えー、でも、叩かれるのはいやだな…」
庵天先生が笑いながらうなずいた。
「お前たちくらいの年になれば、言葉で伝わることも増えているだろうが、もっと小さい子供には、時にはバッチーンとやることも必要だ。ただ、児童虐待と紙一重なところもある。子供への愛からなのか、親の都合や気分で叩いているのかで、教育か暴力かにわかれるな」
「先生は、暴力は絶対ダメ、っていってたよ」と太児。
「愛のない力は暴力だけど、力のない愛は無力だって、少林寺拳法で習ったよ。暴力はダメっていっても、襲ってくる奴に対抗できるのは、愛じゃなくて力だもんな」と拳二。
「太極拳だって、平和そうに見えても戦いの技術だ。いざという時に使えないようじゃ、武術じゃない。だけど、強さをひけらかして乱暴になるのも武術じゃないんだ」
庵天先生が噛みしめるように言った。
太児は、強さがなんなのか、わからなくなってきた。
美鈴が聞いた。
「先生は、自分の子を叩くの?」
「俺に子供はいないよ。生徒も大人ばかりだったから、躾のために叩くなんてことはなかった。練習ではバンバン打つけどね。ただ、俺が子供の頃には良く叩かれたなあ。親にも先生にもしょっちゅうだった。昭和の教育はそんなもんだ。当時は腹も立ったが、今じゃ感謝してるよ」
自分は親から叩かれたことがないから、強くなれなかったのかな?
…それも違う気がする。
「ところで、この動きって、敵をビンタでやっつけてるの? ビンタは得意よ」
「まあ、ビンタもできるが…。前にも言ったと思うが、太極拳の動作は、なにか一つの攻防を想定して作られているんじゃない。反復練習で、体に浸み込ませて、どういった状況になっても、とっさに、いちばんいいように自動で動けるように、体と脳味噌の回路を作る訓練だ」
「でもなあ…。ぜんぜん、戦える気がしないんだよなあ。蹴ったり突いたりする練習をした方が、手っ取り早いと思っちゃう」
「拳二は、そういう武術をやってるから頭の切り替えが難しいかもしれないな。太極拳は、すべてを含んでいる。そのうちわかる」
庵天先生の、ビンタの動きの見本は、どんどん腰を落として低い姿勢になっていく。ついには、肩と膝がくっつくくらいの低さになった。
「ちょっときついだろうが、若いお前たちならできるだろう。前にやった雲手と、この撇身捶(へいしんすい)を、毎日64回づつ、あわせて128回やるんだ。
「えーっ!」と3人。
「オレは拳法の練習もやってるからなあ。疲れてるし、そんなにできないかも」と拳二が言った。
「そうだな。両方かけもちは大変だ。でも、やるんだ」と庵天先生。
「私は、この前、バスケで足をぶつけて痛いから、そんなにできないわ」
「そうか、痛いのは辛いな。でも、できる。俺の言うとおりにやれば問題ない」
「ぼくは、やるよ。強くなりたい」
「そうか、ガッツがあるのはいいことだ。でも、練習の時に、あまり強さを求めるな。チンタラやっていればいい。生活習慣になれば一番いいんだ」
この日は、動作の途中途中で止められ、正しい形に何度も直された。変な形でやっても意味がない。無理に低くしなくてもいい。
128回は連続でなくてもいいし、数が足りなくてもいい。
ただただ、毎日チンタラ続けること。これが宿題となった。
第十四話 太児、夢にて楊露禅の琴を聞き 武と音の理を知ること
夕方の練習の後、太児はピアノに向かう。
新しく始めたのはドビュッシーのアラベスク第1番。
昔から聞き馴染みのある美しい旋律だ。右手と左手の別々のメロディが絡み合ったり、同調して刻んだり、変化に富むところが、陰陽の変化のようだ。
窓から美鈴がのぞき込んできた。
さっきまで一緒に公園で練習していたが、シャワーを浴びてきたようで、トレーニングウェアから、涼しげなアロハシャツに着替えて、こざっぱりしている。
「私、太児のピアノ、好きよ」
「えっ、今更、なんだよ」
「太児は、武術より音楽の方が似合うと思うけどなあ」
「男がピアノなんて、なんだか弱っちくみられそうで嫌なんだよ。ハードロックとかならいいけど」
「ハードロックは興味ないわ。男のピアニスト、ステキじゃない。全然弱いことなんてないわよ」
「そうかなあ。学校で知られたら、冷やかされるよ。美鈴が聴いてくれてたら、それでいいよ」
「もっと自信を持ってよ。それも強さじゃない?」
「そうかなあ…」
夜、太児は静かに寝ている。
窓から入ってくる柔らかな月明かりが、枕元に置いていた木玉を照らす。
木玉が青白く光った。
やがて、ぽろん……と古風な音色が流れ込んできた。
瑠璃瓦の屋根と朱塗りの回廊が、月の光を受けて柔らかく輝いている。
池のほとり、柳の枝が風に揺れる陰に、白髪の老人が腰を下ろしていた。
衣は淡い青の長衣で、落ち着いた気配を纏っている。
彼の前には古びた七弦琴が置かれ、皺の深い指先がゆるやかに弦をはじく。
澄み渡る音色が、池の水面に広がっていく。その旋律には、長い歳月を過ごした者が奏でられる深い哀愁と、天地を包み込むような安らぎがあった。
「久しぶりだなあ、太児」
弦を爪弾きながら、老人が微笑んで語りかけてきた。
「え? 久しぶりって……誰?」
太児がおそるおそる尋ねる。
「楊露禅じゃ」
「えっ、楊君? …のおじいさん?」
「おじいさんじゃない、本人じゃ。昔、陳家溝でいっしょに稽古してたろう」
「ええっ、この前、会ったばかりじゃない??」
「ふふふ。それは、少年時代のわしだろう。年老いたわしにとっては、久しぶりという意味じゃ」
太児は首をかしげた。
「どういうこと、違う時代に来たってこと?」
「そうじゃ。夢の中では時の流れなぞ自由自在。太児は陳王廷にも会ったじゃろう? 歴史の壁も、寿命も越えられるのじゃ。便利じゃろ?」
楊露禅は微笑んで、琴の弦を軽くはじいた。
その音は波紋のように広がり、庭の空気を震わせた。
「楊君、お琴なんて弾けたんだね」
「ああ、けっこう評判がいいぞ。わしの琴のコンサートは、だいたい満席じゃ」
「ええっ、意外。……でもさ、男がピアノとか琴とかって、なんか女々しいっていうか、恥ずかしくない?」
楊露禅の手は止めず、笑みを浮かべた。
「太児や。太極拳の名人には、琴の名手が多かったのを知らんのか? 弦を奏でる手と、拳を繰り出す手は同じもの。音を制するは、力を制するに通じる」
「……え?」
「楽器の演奏は、姿勢、呼吸、指先の精妙な力加減、すべて武術と相性がいい。速くも遅くもでき、強くも弱くもできる。太極拳そのものじゃ」
太児は、庭に響く琴の余韻を聞きながら、手足の先までその振動が伝わってくるように感じた。相手の力を受け、返す感覚に似ていた。
「おじいちゃんになっちゃって、まだ武術はできるの?」
「おっほほ、舐められたもんだな。ワシは今が強さのピークじゃ」
「ええっ、本当に?」
「陳家溝から出て故郷に帰った頃は、楊無敵などと持ち上げられたもんじゃが、その時より今の方が強いな。無駄な力がどんどんなくなって、残ったのは、本当の勁だけになったのじゃ。王宮での指導で、すっかりおとなしい武術になっちまったがのう」
「王宮って、王様に教えたの?」
「王族の子弟達の体育と教養のためにの。故郷に帰って最初は地元の警察で指導しておったんじゃが、王宮の教師に推薦されての。ワシの方は教養のために琴を覚えた」
「楊君、偉くなったんだねえ~」
「偉くなったわけでもないが、いろんな苦労が報われて、幸せに過ごしておる。太児もあれこれ悩まんと、今をしっかり生きておればよい」
露禅は、最後にひときわ澄んだ音を響かせ、静かに手を下ろした。
「柳は風に揺れ、琴は心に揺れる…」
…庭は霞のように消え、太児は布団の中で目を覚ました。
耳の奥には、まだ琴の音が残っていた。
(この物語はフィクションです。楊露禅が琴の名手だったとの逸話はありません)
第十五話 晶、学園祭に乱入し、太児が月を奏でること
二学期になった。
太児の学校では学園祭が始まっていた。各クラスの模擬店の呼び込みやクラブ活動のアピールで大賑わいだ。
拳二は屋台でヤキソバを焼き、美鈴は講堂でのアナウンス係に忙しい。
講堂での発表会プログラムには、太児の「ピアノ独奏」が載っていた。学園祭委員になった美鈴が、職権乱用で仕組んだのだ。
(うわぁ……人前でピアノを弾くのか……)
胸がドキドキする。
音楽を人に聴かせるのは、太児にとって恐怖だった。
そもそも人に向き合うのも怖いのだ。
それも、ひとりでなく、大勢の聴衆に向けてとなると、今から膝が震える気分だ。
一方、校門からは、妙に目立つ女子が入ってきた。
赤い髪留めに下駄履き、片手にりんご飴を握っている。
晶(あきら)だった。
拳二の親戚で、大阪のテキ屋の娘だ。神社の祭りで余った駄菓子や、くじ引きの景品を袋に詰めて持ってきたのだ。
住まいが離れているので年に数度しか会わないが、昔から拳二を慕っている。
「まいどー! 出張屋台、やりまっせえ!」
廊下に派手な声が響き、クラスの女子たちが「え、誰?」とざわめく。
拳二は真っ赤になって飛び出した。
「晶! 来るなって言っただろ!」
「なんでや、ウチかてアンタの晴れ舞台見たいねん!」
「晴れ舞台って何だよ!?」
晶はお構いなしに、ヤキソバ屋台脇の空いているテーブルに、商品を並べていく。
「どうせ、余りもんや。安うしとくでー」
「アホ、小学校の祭りだぞ、現金販売はないっ! チケット制だ!」
「ほんならタダでもええわ。いらっしゃ~い!」
そんなやり取りの最中、厄介な連中が現れた。近隣の中学から流れてきた不良グループだ。
「へえ……小学校の学園祭って面白そうじゃん。俺らも混ぜてもらおうか?」
晶が広げた駄菓子袋に、早速手を伸ばす。
「こら、なにすんねん!」
「うるせえっ!」
不良の一人が晶の肩を乱暴に押した。
「なんや! 気安うタッチせんといて!」
晶が怒鳴るのと同時に、下駄が不良の足をガツンと踏み抜いた。
「ぐおおっ!」
屋台の周りが騒然となる。
怒鳴り合いと同時に、机と椅子が倒れる。乱闘開始だ。
「おおい、やめろよう」
茫然と見ていた太児だったが、勇気を振り絞り、不良たちの前に飛び出した。
「うるせえ、ひっこんでろ!」と、不良が太児の肩をグイッと押したが、そのままつんのめって机にぶつかった。
別の不良が突っ込んできたが、太児が腰を沈めて半歩ずれれば、不良は勢い余ってひっくり返る。
「な、なんだコイツ!?」
「体が勝手に……流される……!」
一方、拳二はどストレートに殴り合いだ。やっぱり前から馴染んでいる技が出る。不良の鼻血が飛び散る。
晶は下駄を手に持ち、不良の頭に叩き付けた。
「世の中にはなんぼでも強いもんがおるゆうの、分からしたるわ!」
阿鼻叫喚の大乱闘だ。
「やめなさーい!!!」
バッシャーッ!!
水が不良どもにぶっかけられた。駆け付けた美鈴がバケツの水をぶち巻いたのだ。
不良中学生たちは、とんでもない連中に絡んでしまったと後悔しつつ、アタフタと退散していった。
「盛り上げに来たのに、ごめんなあ~拳ちゃん。てへぺろや」
太児は、散乱した椅子や割り箸を片付け、美鈴は雑巾でぶち巻いた水をふき取り、拳二は頭を抱え、駆け付けた担任の堤先生はあんぐりと口を開けていた。
数分後、校舎裏で事情聴取。晶は腕を組み、むくれ顔。
「なんやねん、悪いのはあっちやろ」
「晶……どうしたんだよ、おまえ。突然ひとりでやってきたりして」
拳二がまっすぐな目で見つめると、晶は目を逸らし、ポツポツと話し始めた。
「ウチな……家、めちゃくちゃやねん。お父はんのテツは働かへんし、お母はんは出て行ってしもた。ウチは日本一、不幸な少女や……友達は荒れとる連中ばっかりになってきたし、ホンマは普通の友達ほしかってん。ほんで、平和な学園祭って見てみたいなーと思って、来てん」
「そんなら最初から素直に言えよ」
「言う間もなかったやんか」
堤先生が拳二の両親に連絡し、晶は拳二宅に泊まることになった。
「晶ちゃんっていったわね。学園祭には参加していいわよ。でも、勝手にモノを売らないでね」
「はい…」と晶が力なく答える。
「ヤキソバとタコヤキ焼くの手伝えよ」
拳二はぶっきらぼうに言った。
晶は一瞬ぽかんとしたが、やがて口元をゆるめた。
「しゃーないな……本場のタコ焼き、味あわせたるわ」
ようやく、和んだ雰囲気が戻ってきた。
講堂の午後の部は、フォークギター弾き語りと、ロックバンドの演奏があり、次が、太児のピアノ演奏だ。太児のあとは、合唱部、ブラスバンド部と続く。
弾き語りはまあまあ聞けたが、ロックバンドは、お世辞にもうまいとは言えない。ドラムをズコズコ叩いて、ギターはガチャガチャ鳴らすだけ、ボーカルはギャーギャーとわめくだけで、はたしてこれが音楽と言えるのだろうか?
しかし、内輪ウケで妙に盛り上がっていた
ロックバンドが終わると、応援していた友人たちも出ていって、少人数になった講堂は静かになった
太児はグランドピアノの前に座り、深呼吸する。
さっきのドタバタで、緊張はすっかりなくなっていた
観客席には、美鈴と拳二、晶が並んですわっていて、後ろの席に庵天先生が来てくれている。美鈴が呼んだのだ。庵天先生の隣には、スラッとした女性が座ってニコニコ笑っていた。
「がんばれー太児!」と晶が叫び、拳二があわてて口を抑えた。
指を鍵盤に置いた。
音が鳴った瞬間、気分が落ち着いた。
曲はドビュッシー「月の光」。
楊露禅の琴の音が、頭に残っている。
旋律は、太児が異世界で覚えた型と同じ流れを持っていた。
静かに始まり、うねるように盛り上がり、やがて静かに曲が終わると、少人数のわりに、大きな拍手が沸き上がった。音楽もまた「太極」だと思った。
拍手に混じって「ブラボー!!」は晶の声。
太児はピアノの脇で、はにかみながらお辞儀をし、次の合唱部のメンバー達と入れ替わって、舞台袖へと下がっていった。
第十六話 晶、太極拳に加わり、四人が推手を学ぶこと
晶は、太児たちの通う学校に転校することになった。
拳二の父が、妹である晶の母ヨシ江から頼み込まれて、預かることにしたらしい。
もともと親戚たちは、晶の母の結婚に反対していた。晶の父親のテツの素行が良くなかったからだ。
親戚一同から「ほれみたことか」となっているようで、実家に帰りにくいようだ。
学園祭から数日後。
湖畔の庵天先生の青空道場に、拳二が晶を連れてきた。
「お邪魔しまっせ」
「晶ちゃん! 太極拳するの?」
「ヒマやったからついてきただけや」
庵天先生が柔らかく笑って声をかけた。
「晶ちゃん、見学かい? 一緒にやってもいいよ」
晶はそわそわしながらも、列に入った。
太児は深呼吸をして、ゆっくりと型を始めた。雲手だ。
重心を落とし、手足が大きな円を描く。
その動きは静かで、けれど不思議な迫力があった。
「……なんなん、これ」
晶はぽつりとつぶやいた。
拳二が笑って答える。
「太極拳。俺ら、これで強くなるんだ」
「こんなスローで強くなれるん?」
晶は眉をひそめたが、庵天先生が穏やかに言った。
「強いってのは、人を殴り倒すことじゃないんだよ。太児は、人を傷つけずに相手を止めた。それも強さだ」
晶の脳裏に、あの学園祭での光景がよぎった。
太児が、不良を転ばせたときのあの不思議な動き。
確かに、あれはただのケンカとは違った。
「……ウチにも、できるん?」
ぽつりと漏らした晶の声に、庵天先生は目を細めた。
「もちろん」
拳二が嬉しそうに笑う。
「ほらな、言っただろ? ここなら、お前の居場所もあるって」
晶は照れくさそうにうつむいた。
「……じゃあ、ちょっとだけ、教えてもらおかな」
美鈴が嬉しそうに両手を叩く。
「晶ちゃん、仲間だね!」
太児は、ほっこりした。また一人、この輪の中に大切な友達が増えた。そんな気がした。
「4人になら、推手の練習にちょうどいいな…。二人で組んで向かい合わせになってみな」
太児と美鈴、拳二と晶が向かい合わせになった。
「手首を軽く合わせて、一緒に雲手をやるんだ」
太児と美鈴は、ごく自然な感じで、ひとりで型をするのと同じようにできたが、拳二と晶はうまくできない。
「おいおい、拳二、力を入れ過ぎだ。晶ちゃんは初めてなんだから、優しくやってあげなさい」
「ほんまやで、うちは日本一ウブな少女なんやから、やさしくやったってや」
「お前が逆らうから、うまくできないんだよ!」
「そんなんいうたかて、あんたが押しすぎるんや」
庵天先生が、ふう、とため息をついた。
「選手交代。太児が晶ちゃんと組んでみな。晶ちゃんは、太児に従うんだ」
太児は、いままで身の回りにいなかったタイプの晶ちゃんに、ちょっとドギマギしながら手を合わせた。そして型どおりに雲手。手首の上に、晶の手を載せている。
「あらっ、うちもできてる」
「そのまま、合わせておくんだ。太児の力の流れを感じるようにね」
拳二と美鈴の方は、こちらはギクシャクしている。手と手がガツンガツンぶつかっているよう。
「お前ら二人は、似ているなあ。どっちも我が強くて、結婚したら喧嘩ばっかりだろうな」
「結婚しません」
「するもんか!」
そしてなおも、ガシガシとぶつかっている。
「ウチのお母はんは、テツに逆らえへんかったけど、耐えられんようになってでていったんや。喧嘩できるくらいの方がええで…」
晶がぽつりと言った。
「えっ、なんか複雑なの?」
庵天先生が、焦り気味に言った。
「すぐそこだから、まあ、寄って行けよ」
練習の後、庵天先生が4人を自宅に招いた。湖が良く見えるアパートだった。
「太児君、この前のピアノ、よかったわよお~」
庵天先生の奥さんの春子が、にこやかに笑いながら、炭酸水を出してくれた。
学園祭で太児がピアノを弾いていた時、庵天先生の隣にいた人だ。割烹着が似合う。
「先生、家に呼んでくれたの、初めてだね」
「みんなの話を聞いてみようと思ってな。懇談会だ」
懇談会と言いつつ、話題の中心は、晶だった。太児や拳二、美鈴の家庭事情などは、ある程度、雑談の中で聞いている。
どうやら、晶の父は、仕事をしなくなったらしい。母ヨシ江が家業のテキ屋の切り盛りをしていたが、精神的に負担に耐えられず、出ていってしまった。
晶は子供ながらに、ヤタケタな大人の世界でひとり頑張っていたが、家出した母から、拳二の父を頼るようにと電話があって、やって来たのだ。
「晶ちゃん、大変だったのねえ…」と、手拭いで涙を拭きながら、春子が言った。
「お母さんの気持ち、わかるわ。私も子供がいたら、働かない父親の元におらせられないもの」
「庵天先生も、働いてへんのん?」
「湖で魚を釣り、山で水を汲み、イノシシを捕り、畑で野菜を作って、自給自足をしてるよ。近所の小学生に太極拳も教えてるじゃないか。ほとんど陳王廷の気分だ」
「陳王廷って、太極拳創始者の?」
「そうだよ。忙しいときには畑を耕し、暇があれば拳を創造し、空いた時間は弟子や息子、孫に教える。龍となるもよし、虎となるもよし…って言ったんだ。お前らも龍や虎になれよ」
「そうだったのかあ」
晶以外の3人は、ドン引きだ。
「お金にならへんやん」と晶。
「私がパートで働いてなんとかやりくりしてるの。武術家なんかと一緒になるもんじゃないわ」と春子。
「お前も武術家だったじゃないか。…うちの奥さんは、散打大会で女子世界チャンピオンだったんだ」
「ええーっ!」
散打とは、グローブと防具をつけて、自由に打ち合い蹴り合う競技だ。細身で、にこやかに笑っている今の姿からは、想像もつかない。
「ケガをしちゃってね。それで、先生の施術を受けて治してもらったのよ。何年もかけて治してもらっているうちに…結婚しちゃったの」
「ええっ、先生、お医者だったの?」
「整体師だよ。整体師を兼ねた武術家は多いよ」
「当時は生徒さんも多かったんだけどね。月謝をほとんどもらわなかったから、稼ぎは少なかったわね」
「武術家が金儲けに走ると、ニセモノが横行する。俺は本物でありたいんだ」
庵天先生がニマッと笑った。
「うちは子供もいないし、たいして金もかからない生活だ。テレビがないからNHK受信料も払わなくていい。それより、俺が伝えるのを諦めかけていた本物の陳氏太極拳を、お前たちには教えてやってるんだからな。しっかり学んで、伝承者になってくれ」
「ええーっ、責任重大!」
「そうだぞ。三年かけて良師を探せというが、お前たちはいきなり良師に出会えてラッキーだ。自分で言うのもなんだけど。中学生になっても、受験だ、クラブだとかで、やめるなよ」
庵天先生との出会いは、はたして正解だったのだろうかと、ちょっと心配になってきた太児だった。
第十七話 庵天、木玉の由来を語り、六人が陳家溝へ行くこと
「ところで先生。この木のペンダントなんだけど…」
太児がポケットから取り出して、庵天先生に見せた。
「ああ、何か面白いことでもあったか?」
太児がおずおずと答える。
「時々光るんだよ…」
「ふーん。あれだな、光線が空に伸びて、天空の城のあり場所を指し示すんじゃないか?」
「天空の城じゃなかったけど…」
「…陳家溝か」
「そう言ってた」
「そうか。やっぱりな…」
庵天先生が、春子と目を合わせ、軽くうなづいた。
拳二と美鈴も顔を見合わせる。
晶はなんのことやらさっぱりだ。
「これは俺が若いころ、陳家溝で修行していた時に、村の老人から預かったものだ。村に伝わる宝だったが、時の政府に見つかると大変なことになったらしい。村に隠しているのも危ないし、村の関係者が持っていたら狙われる。で、日本に帰る時に俺に預けられたんだ。そして、村に戻さなくてもいい、お前が50歳になったら、次の者に託せ、陳氏太極拳の未来をつなげろ、と言付かった。文化大革命では、太極拳を含むすべての武術家が、抹殺されていったんだ。ひどい話だ」
「もう武術はなくなったの?」
「当時、逃げたり隠れたりした者が、なんとか伝えているようだけどな…伝統がどこまで正確に残っているかわからない。俺も正しい伝統を伝える役割を担った一人となったわけだ」
「次の者が、ぼくなの?」
「なんとなくな。雰囲気を感じたんだよ。ドンくさそうで素直、結果を求めず地道に頑張れそうなやつ。理解できないことでも、すべてを受け入れられそうな10歳くらいの男子。それが俺の50の誕生日に現れた。こいつだな、と思った」
庵天先生がニコッと笑った。
「違っていたら、取り返そうと思ってたんだが、太児、陳家溝に行ったろう。俺の見る目は間違ってなかった。だから、何十年かぶりに教えよう、伝えようと思ったんだ」
「俺も行ったよ」と拳二。
「私も」は美鈴。
「うーん、それは想定外だったが、まあ、いいんじゃないか? 人には言うなよ」
晶が言った。
「なんのことなの? そのペンダントはなんなの?」
「ぼくも知りたい。一体なんなの? なんで光るの? なんで異世界に行っちゃうの?先生もあの村に行ったことがあるの?」
庵天先生が、あぐらをかいていた足を組みなおした。
「…明の終わりから清の始めにかけて生きていた陳王廷という人が、陳氏太極拳の創始者だといわれている。この木玉は、言い伝えでは、陳王廷が練習で使っていた木剣の一部らしい。戦乱で燃えてしまって剣の形はしてなかったが、陳王廷が亡くなった後、弟子たちが形見分けで、7つに分けて、ペンダントにしたそうなんだ。7つ集まると神龍が現れ、どんな願いでも一つだけ叶えてくれるとかくれないとか言われているが、6つは昔から所在不明、一つだけが、村で大切に祀られていたらしい」
庵天先生が麦茶を飲んで、コップをお盆に置いた。
「第二次世界大戦後、共産ゲリラが新しい国を作って建国を宣言した。それが中華人民共和国だ。みんな、中国中国って呼んでいるが、中国はこの時にできたんだ。それまでは、清とか民とか漢とか、いろんな王朝が入れ替わりつづけている。入れ替わりが激しいし、大きくなったり小さくなったりで、呼び方がややこしいから、世界的には支那(Chaina)と呼ばれている」
「支那って、差別用語じゃないの?」と聞く美鈴。
「日本人が支那というと差別用語だが、世界的には標準だ。反日活動に利用されてるんだ」
美鈴と拳二が顔を見合わせる。
「この新政府は、伝統とか歴史を認めない。共産ゲリラの親玉、毛沢東の言うことだけが正しい。それで、文化大革命っていう、これまでの文化を破壊する革命が起きた。紅衛兵っていう毛沢東思想に染まったアホな学生たちが、資本家、学者、役人、教師など、知識人を一斉に粛清した。粛清っていうのは、殺すってことだ。武術家も伝統を守る人々だから、やっぱり粛清された。伝統は途切れ、多くの武術が失伝した。陳家の隠れたシンボルであったこの木玉も、当然見つかったら破壊される。だから厳重に隠されていたんだ」
太児がゴクッと、つばを飲み込んだ。
「俺が中国に来たときは、毛沢東もとっくに死んでいるし、だいぶ落ち着いていたんだが、天安門事件が起きた。民主化を望む学生達を、共産党政府が大虐殺したんだ。戦車で何百人も轢き殺した。それで、村の長老たちが、文化大革命の再来かと恐れて、木玉を俺に託したんだな。日本に持ち帰るのは、ビクビクだったよ。木だから空港のセンサーに反応しなくて良かった」
木玉が太児の手の中でわずかに震えた。その微細な動きは、まるで脈打つ心臓のようだった。
「動いた?…なんで動いたり光ったりするんだろう?」
「それを感じるのは、太児、おまえだけだ。いまだに残っている陳王廷から続く陳氏の気の流れを、お前が感じているんだよ。お前の心が動いたとき、扉が開く。そして…向こうでお前を待つ人たちがいる」
太児の心臓が高鳴る。手のひらにある木玉が、さらに強く脈打つのを感じた。木玉が淡い光を放ちながら震え始めた。
「先生もあっちに行ったことがあるの?」
「ああ、飛行機で北京へ行って、そこから寝台列車で12時間で鄭州。バスで4時間で温県、そこからトラクターの荷台に乗せてもらって行ったんだ」
「遠いんだね…」
「陳家溝では、四大金剛と呼ばれていた老師達や兄弟子達、村の年寄達からみっちり学んだが…、お前の聞きたいのはそれじゃないよな」
庵天先生がニヤッと笑った。
「このペンダントを預かって中国を離れてから、お前も行った世界に、俺も行った。350年前の陳家溝だ。高い交通費を払って、何日もかけていってたのが、一瞬だ。そこで陳王廷に会った。本当に伝承者だと認められた気がしたのは、その時だ。俺がお前たちに教えていることは、陳王廷から続く陳氏の武術そのものだ」
そんな不思議な繋がりがあるのだろうか…。
太児が感動していたら、木玉から青白い光が発せられ、その場にいた6人を包み込んだ。
第十八話 陳王廷、馬上の剣を教え、太児が横座りすること
「なんなん?ここ?」
晶がきょろきょろ見渡しながら言った。
朝靄に包まれた陳家溝。
村の広場には、栗毛や黒毛の馬たちがのんびり歩いている。動物の匂いが鼻を突く。
「おいおい…。ここは初めてだな。動物園かな?」
拳二が馬の首筋を恐る恐る撫でると、馬がふんっと鼻を鳴らした。
「うわっ、こっち見た!」
美鈴は一歩後ずさるが、太児は目を輝かせていた。
「すごい……かっこいい……」
「うちは馬見たら、馬券をちぎって投げて叫んでるテツ、思い出すわ」と晶。
その時、低いが軽い声が響いた。
「久しぶりだな。庵天」
振り向くと、陳王廷が馬に乗って歩いてきた。腰に木の剣をぶら下げている。
庵天先生は一歩前に出て、深く頭を下げた。
「お久しぶりです。この子に導かれてやってきました」
そういって、庵天先生は太児を見た。
「知っておる…。珠の光に包まれたのであろう。わしが導いたともいえる…。ここに来たということは、馬に乗りに来たということだ。陳家溝の馬術訓練所で遊んでいくがいい」
「えっ、のっていいの?」と飛び乗ろうとした拳二は「うわぁ!」と悲鳴を上げて振り落とされた。
続いて、晶が「見ときや!」と息巻いたものの、馬にそっぽを向かれて尻餅をつく。
太児は緊張しながら馬に手を添え、静かに深呼吸した。
庵天先生が声をかける。
「力を抜け、太児。套路の擦脚の要領だ。馬と同じ呼吸になれ」
鐙に片足をかけ、手綱を掴み、もう片足をフワッと上げると、ふんわりの馬の背に乗れた。
「太児、馬歩だ。站樁功の要領でまっすぐ座れ」
太児の乗る栗毛の馬は、大人しく足を運び出し、ブフフッと声を上げた。
「ふふふ。まっすぐ乗れておる。馬が喜んどるわ…」と陳王廷が笑う。
美鈴は「わたしは見学で……」と遠慮していたが、春子が「美鈴ちゃんは私と一緒に乗るといいわ」と、美鈴を、馬の背中にひょいと担ぎ上げ、その後ろに跨った。
庵天先生は、拳二と晶を馬に乗せ、自分もひらりと馬に飛び乗って言った。
「ここは異世界だからな。夢の世界さ。乗れると思ったら乗れる。怖がらずに走れ」
陳王廷が言った。
「さよう。言葉が現実を作るのじゃ」
「そんなアホな。ちょ、ちょっと待ってえ!」
叫ぶ晶だったが、意外にもバランス感覚が良く、大きく揺れながらも、振り落とされず走っていく。
「支那北方の武術は、馬に乗る技術で成り立っている。太極拳を修得するには、馬に乗るのが手っ取り早い。ちなみに南方は船だ。南船北馬といって、これ豆知識」と庵天先生。
拳二も晶に負けじと追いかけるが、馬の首にかじりつくので、馬は走りにくそうだ。
庵天先生が矢継ぎ早に叫ぶ。
「手綱にしがみつくな!」
「仰け反るんじゃない!まっすぐだ」
「鞍を股で挟め!」
「鐙(あぶみ)に体重を載せるな!」
「金玉の裏を馬の背中に擦りつけろ! …ごめん、晶ちゃんじゃない!」
太児の乗っている馬が、溝に向かっている。
「太児! 馬と一緒に飛べ!」
馬が飛ぶのと同時に太児が宙を浮く。
(…飛んでる!)
太児はぶれない。位牌のようだ。
「ふふっ、誰がドンくさいんだっけ?」
庵天先生が笑った。
「えっ、太児、すごいじゃん…」
「さすがね。先生が見込んだだけのことはあるわ
「ていうか、春子さんもすごい!」
二人乗りにもかかわらず、春子は自由自在に馬を操る。
「私が馬に合わせてるのよ。逆らわないの。でも私の思うようになってる。夫婦円満のコツでもあるわね」
異世界からやってきた6人を眺めていた陳王廷が、静かに呟いた。
「みな、よい目をしておるな。拳を学ぶ者は、心を澄ませよ。馬も拳も、心の延長にある」
そして、にやりと笑って、馬を走らせた。
「さて、馬上で戦ってこそ陳家の武術じゃ。剣を持て」
そういって、陳王廷は、馬上の太児たちに、ポイポイと、木の剣を放り投げて渡していく。
「チャンバラじゃよ。騎馬戦ともいえるな。木の剣じゃ。斬れはしない。安心して戦ってみよ」
陳王廷が、木剣を片手で持ち、馬を走らせる。
木剣はごくシンプルで飾り気はないが、長年使いこまれたような、ずっしりとした風格がある。もしかして、木の珠はこの剣から作られたものでは?と考えてしまう。
陳王廷は庵天先生に近づき、頭めがけで剣を振り下ろした。庵天先生は、すれ違いざまに剣を顔の前に上げ、陳王廷の剣を音もなく受けて、滑らせるように、頭上に流し、返した刃で、陳王廷の首を狙う。
「ほうほう。さすがじゃな」
陳王廷は笑いながら、スーッと庵天先生の剣を受け流し、ひょいと持ち上げると、庵天先生は、おっとっとと、馬ごとよろめく。
続いて、春子に斬りつける。春子は美鈴をかばうように、剣を翻し、陳王廷の剣をはねのけたが、陳王廷は、剣の先をくるっと巻き込むと、春子の剣は、宙に舞い上がり、吸い付くように陳王廷の左手に収まった。
「奥方、子供に気を取られて、剣への意がちょいと足りなかったのう」
両手に剣を持って、馬を走らせる。
「さて、そこの活きのいい子よ。かかってまいれ」
拳二が、陳王廷に突進する。
「わおー。馬が勝手に走るんだ。片手運転なんて、できないよっ」
拳二は剣を抱えつつも、両手を手綱から離せない。苦し紛れに、すれ違いざまに、陳王廷の馬に向かって、蹴りを放った。
「キーック! これでもくらえ!」
「ほっほっ、片手運転が難しいといいながら、さらに難しい片足運転に挑むとは、あっぱれ!」
馬の勢いに負けて、くるくると空中に放り出された拳二を、陳王廷がキャッチ。自分の馬にまたがらせて、自身は拳二の乗っていた馬に飛び移り、晶に向かって走り出す。
「お嬢ちゃんは、剣どころじゃないのう。ワシについてまいれ」
そういって晶を誘導するように前を走るが、なんと後ろ向きに座って、晶の方を向いている。
「ほい。背筋を伸ばして、ワシの方を見ろ。両足でしっかりお馬さんを挟むんじゃ。あとは馬を信じて楽にせよ。ふむ。それでよい」
アタフタしていた太児だったが、ようやく周りを見渡す余裕が出てきた。
次は自分が稽古をつけられる番だ。
後ろ向きに馬に乗っていた陳王廷が真横を並んで走っている。
陳王廷は、よいしょと片足を上げ、太児の方を向いて、横すわりになった。
「さあ、ワシの二刀流を捌けるかの?」
そういって陳王廷が、左右の剣を、ツンツンと突き出してくる。
「アワワワワ…」
太児は、剣を片手でよけるのと、馬から落ちないようにするので、必死だ。
「ハハハ。ちっと、こっちを向かんか。それじゃと、刺されっぱなしじゃ」
太児は思い切って、陳王廷と同じように、横すわりになった。この体勢だと、足で馬を挟んでいないので、非常に不安定だ。鞍に脚を引っ掛けて、腰かけているだけになる。
「おーほっほ。度胸があるぞ、太児!」
揺れる馬の上、頼りどころのない姿勢に、次々襲い掛かる二本の剣、もうなにがなんやら、意識のやりどころがない。
ズリッと馬から落っこちたところで、陳王廷に受け止められた。
「なかなかよろしい。楽しかった!」
第十九話 太児、命をいただき 骨の理を知ること
「腹も減ったろう。未来からの客人に、特別なごちそうを用意しておる。食っていくといい」
馬小屋に戻ってくると、なにやら、強烈なにおいが漂ってくる。馬のにおいとは明らかに違う。
陳王廷についていくと、そこはどうやらバーベキュー場のようだった。
足を踏み入れるなり、美鈴が「ぎゃあ~~~~!!」と叫んだ。
ちょうど羊が一匹解体されているところだった。仰向けに寝かされた羊と目が合ったのだ。腹を切り裂いて、内臓が取り出されていく。
「稽古に真剣を使うわけにはいかんが、調理で本物の剣の稽古ができるわな」
筋骨たくましい若者が、手際よく小刀を振るっている。
皮が剝がされ、骨を外され、羊はお肉になる。
「ああ、シシカバブーは久しぶりだなあ。イノシシは良く山で捕まえて食ってるけどな」
嬉しそうに庵天先生が言った。
太児が聞く。
「先生、もしかして、自分でイノシシをさばいてお肉にしているの?」
「ああ、そうだよ。安いし早いしウマい」
太児も、おえッとなりそうだ。鶏肉にしてもパックされたスーパーの商品しか見たことがない。
拳二は既に吐いていた。
「無理……俺、文明人だから……」と弱々しくつぶやいていた。
美鈴はというと、完全に石像のように固まっていた。
「ちょっと……あの羊……さっきまで生きてたんだよね……?」
「そらそうやろ。とれたてホヤホヤや」
晶が涼しい顔で答える。
「そ、そんなサラッと言わないでよぉぉぉ!!」
美鈴の声が風に乗って消えていく。
お肉は鉄串に刺され、焚火であぶられる。じゅうっと脂が滴り落ち、炭の上で炎が小さく跳ねる。強い香辛料の香りと、煙に混じった獣の匂いが鼻を突く。
太児は一歩下がって鼻を押さえたが、晶は逆に顔を近づけて「ええ匂いやなあ」と嬉しそうに目を細めている。
「うちはホルモン屋でも働いてたからな。こんなんは慣れっこや」
晶が、手ぬぐいを首にかけながら串を回している。
太児はなんとか平静を装おうとするが、視線の端にぶら下がった羊の皮が見えるたび、胃がぐるぐるしてきた。
(……夢ならいいのに…って、夢か…)
無言で両手を合わせて「いただきます」と心の中で唱える。
そんな中、庵天先生は至福の表情で煙を浴びていた。
「おぉ~、このスパイスの香り! 異世界版シシカバブー、最高だ!」
串をひょいとつまみ、噛みしめながら目を細める。
「陳家溝は、回族の文化も混じっているからな。羊料理もなじみがあるんだ。うまいぞ!」
「先生、やっぱりイノシシさばける人は違うね……」
太児が小声でつぶやくと、
「私もよくさばいているのよ」
と春子が笑顔で親指を立てた。
「料理は段取りと度胸。武術も一緒だ、太児!」
やがて、羊肉の香ばしい匂いに胃袋が勝ち、全員が串を手に取った。
「……ん、んんん!? うまっ!!」
美鈴が目を見開き、驚きの声を上げる。
「せやろ? 焼きたては格別やで」
晶が得意げに頷く。
拳二は、涙目のまま恐る恐るひと口。
「……な、なんだこれ……ウマいじゃねえか……」
次の瞬間、串にがっつき始めた拳二を見て、全員が吹き出した。
肉と香辛料の香りが鼻に抜け、全員の胃袋が落ち着いたころだった。
炭火のぱちぱちという音だけが響く静かな一瞬。
庵天先生が言った。
「生きていくということは命をいただくということだ。その自覚なく生きている奴が、自然や世界に感謝できないんだ。貴重な体験だぞ。まあ、俺も湖のキャンプ場でイノシシなら見せてやれるが」
美鈴がブンブンと首を振る。
「それに、武術をやるには、こういった動物の解体を経験しておくのは役に立つ。動物も人間も似たようなものだからな。骨や関節や内臓の仕組みを知っておくのはいいことだ
庵天先生がニヤリと笑って、太児の肩を叩いた。
「動物の体のことがわかるってことは、人間の動きも、わかるようになるってことだ」
「……人間の動き……?」
太児は思わず呟いた。
目の前で串を回しながら説明する庵天先生の手が、型を示すように流れるのを見て、心の奥がぞわりとする。
「骨の構造を知るんだ。太極拳は、自分と相手の骨の構造を読んで動く」
その言葉で、太児は妙に納得できるものがあった。
「難しい話はあとにして!」
晶が骨を振り回しながら笑い飛ばした。
「はよ食べへんと焼くのにおっつかんで!」
張り詰めた空気が一気に弾け、みんなが笑いながらまた串にかぶりついた。
太児は、肉を噛みながら、「骨を読む」という言葉を噛みしめていた。
第二十話 庵天、金剛搗碓を教え、太児が芯を得ること
日曜日。湖のほとりのキャンプ場にある庵天道場には、太児たち全員が集まっていた。
朝の空気はまだひんやりしていて、湖面が鏡のように光っている。
「さて、今日は我が陳氏太極拳の母式、金剛搗碓を教える」
「先生、今日は猪肉の解体バーベキューもやるん?」と晶が目を輝かせた。
「今は猟期じゃないからなあ。11月から3月しか捕れないんだよ。今日は冷凍保存のでやろう」
「冷凍かぁ……まあ、肉やったらなんでもええけど」
準備運動と基本功で一時間。汗を拭き、麦茶でひと息ついたところで、庵天先生がゆっくりと見本を見せた。
その動きは、水面に影が落ちるように静かで、そして重かった。
起勢。両手がゆらりと上がり、下がる。波が押し寄せ、海面が盛り上がり、水が引いて海が静まるようだ。
左から右へ、水を掻き分けるように揺れながら、ゆったりと前進する。
大きな獣が忍び寄るような足取りで、左足、右足とゆらゆらと大きく進んできたところで、右の拳と右脚が上がり、ピタッと止まった。
巨大な重機が動き出したような圧迫感。
いや、戦場の兵器が攻撃準備を完了したかのような……息が詰まる。
そして…
ズゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……。
拳が、地の奥へ落ちた。
左掌で拳を受け止め、右足が静かに地面を踏みしめる。
巨大な杭が地球の奥深くに打ち込まれたかのようだ。
庵天先生が地面にめり込んだかのように、沈んで見えた。
「これが、金剛搗碓だ。金剛神が碓(うす)を搗(つ)くと書く。太極拳のすべての動作が、この一式に集約されている。すべての動きは金剛搗碓の一部か変化だ。漢字で言えば、『永遠』の『永』みたいなもんだな」
太児は、異世界で楊露禅が見せてくれた套路を思い出した。雷鳴のような震脚、響く風圧…。
「太極拳って、そんなドカーンって激しいこともやるのん?」晶が首をかしげる。
「今もやっているのは陳氏の門派だけだな。でも、少林拳とか古い武術では、子供でも普通にやっているぞ。地震みたいに地面を揺らすから、『震脚』って呼ばれている」
「かっこいい! 俺は派手にやりたいね!」と拳二が興奮気味に拳を握る。
庵天先生は苦笑しつつ、子どもたちを見回した。
「最初から激しくやると形が崩れる。今はゆっくり、音を立てずに正しい形でやることが大事だ」
「どうして他の太極拳ではやらなくなったの?」美鈴が首をかしげる。
「もともと太極拳は陳一族の秘伝だったんだ。世に広まったのは楊露禅という名人が北京で教え始めてからだ。今では『楊式太極拳』として知られている。ゆったり上品な動きが特徴だな」
あの激しい「雷鳴」を得意げに見せてくれた楊露禅が「上品」だなんて。
想像して太児は、思わず吹き出した。
「楊露禅は当時の王族や高官に教えたらしいから、上品に見せたのかもしれない。もしかすると、異民族に秘伝の部分を隠したのかもな」
「えっ、異民族?」
「そうだ。今の中国ができる前の清王朝は、満州族が、漢民族を征圧して、今の中国本土とモンゴル高原を支配した王朝だ。武術家は、漢民族の王朝だった「明」を復活させたいと考えていた。カンフーでやる包拳礼は、「反清復明」の意味もある。右手のグーが「月」、左手のパーが「日」、合わせて「明」って暗号だ。当時の武術家は、辮髪という長い三つ編みをさせられて、清王朝に従っていたが、腹の中では反発していたんだろうな。だから、肝心なことを隠していたかもしれないと思うんだ」
「へぇぇぇ!」拳二の目が輝く。
「第二次世界大戦後、新中国ができて、漢民族の支配に戻ったが、武術家は今度は新政府に弾圧されてしまった。皮肉なもんだ」
しんとした空気が流れた。
「とりあえず、真似してやってみな」
庵天先生の手拍子で、活気が戻った。
拳二が、勢いよく踏み込んだ。
ドンッ。
へっぴり腰で足を踏み込み、体は前に流れて、あえなく尻もち。晶が腹を抱えて笑い、美鈴はため息をつく。
「いってぇ……!」
「受け身はうまいやん」と晶が笑う。
「うっせー! 今のは地震の初動だ!」拳二が怒鳴る。
晶も負けじと踏み込み、拳を振り下ろした――が、腰が浮き、軸が崩れて膝からおっとっと。
「ひゃっ、あっぶない!」
美鈴が叫ぶ。
「お前ら、さっきの話を聞いていたのか? 静かにやれって言ったろ。…いきなり見せるんじゃなかったなあ」
美鈴は用心深く、丁寧にやってみる。
丁寧すぎて、膝がプルプルしている。
「それじゃあ、生まれたての小鹿さんだなあ…」
太児の番になった。
ゆっくり、ゆっくり……足を出し、腰を沈める。
あの圧倒的な「重さ」に、一歩でも近づきたい。
頭では分かっているのに、足と腕がちぐはぐになる。
拳を振り下ろそうとしても、空気を切るだけで、庵天先生のような「重さ」は微塵もない。何が違うんだろう。
ドタバタした練習にくたびれ、お茶の休憩。
「太児、力を抜け。足で立つんじゃなくて、腹で立つんだ」
太児はきょとんとしたまま、先生の顔を見上げた。
「腹、で……立つ?」
「考えるな。やってみろ」
再び構えた。
今度は深呼吸をして、ゆっくり腰を落とす。
腕を持ち上げ、右足を上げる。
「そこだ。馬に乗っていると思え」
ふっ…と、体が一瞬、軽くなった気がした。
天から吊り下げられているようで、重心が自然に落ち、地球に吸い寄せられる。
拳を下ろすに合わせて、足が地面に吸い付いた。
庵天先生が、口の端をわずかに上げた。
「今のだ。覚えとけ」
太児は、何がどうなったかは分からない。でも、今のは確かに、「できた」気がする。
拳二が「なんか今カッコよかったぞ」と言った。
「ほんまや。カンフーっぽかったで」と晶。
美鈴は「太極拳って太児に合ってるんじゃない?」
練習が終わり、全員でストレッチ。庵天先生が言った。
「形はまだまだだが、みんな太極拳らしくなってきたよ。特に太児は、動きの芯を掴みかけてきたな。いいかんじだ」
太児は、初めて自分の体が、自分の心と合った気がした。
練習の後は、冷凍イノシシ肉のバーベキュー。湖畔に寝転んで星を見上げる。
拳二と晶はいつものように言い合いをし、美鈴は黙って星を眺めている…と思ったら寝息を立てていた。
太児は、ポケットから木の珠を取り出し、そっと握りしめる。
……あたたかい。
何百年も昔からの脈動が、珠の奥から伝わってくるように、太児は感じた。
第二十一話 太児、親子喧嘩をいなし、晶が味噌汁をすすること
晶が拳二の家に来て、一カ月がたった。太児や美鈴ともすっかり親友だ。
拳二の家は昔ながらの作りで広い。4人が集まるときは拳二の家が多くなった。
晶の母のヨシ江は、実家である剛家には、遠慮があるのか帰りづらいようだ。旅館で住み込みで働いているらしい。
晶や、兄である拳二の父には時々電話をしているようだが、夫のテツに居場所がばれるのを恐れてか、職場を明かさない。
また、晶が拳二家に匿われていることも、テツにくれぐれもバレないように、気にかけていた。
「そんなんいうても、心当たりの一番目やろ、ここ。そのうち押しかけて来るんとちゃうかなあ」
晶は心配そうに言う。
テツがやってくることも心配だが、テツがギャンブルと喧嘩に明け暮れて、野垂れ死にすることも心配している。もちろん母も心配だ。
「あーあ。うちは日本一親思いの少女やわ」
夕方、パパパラッとバイクの軽いエンジン音がして、拳二宅の前で止まった。
「スーパーカブの音や。テツや!」
晶が、とまどったような、嬉しいような声を上げた。
ピンポーンとドアホンの音がして、返事を待たずに、ドンドンと扉を叩く音がした。
「晶がおるやろ! 隠しやがって! ださんかい!」
ドアを開けて拳二が怒鳴った。
「隠しているんじゃない! おっちゃんが、ちゃんとしてないから頼ってきたんだろ!」
「誰がちゃんとしてへんねん! お前、ガキのくせに生意気なんじゃ!」
玄関から入り込むなり、拳二の頬に拳が飛んだ。
「いってー! いきなり殴りやがったな」
拳二が殴り返す。怒りに任せた動きは直線的だ。
テツも元テキ屋の腕っぷしを見せ、二人の拳がぶつかり合う。
そこへ晶が飛び出してきた。
手には下駄。
「このクズテツがああ! 人の家に来て、いきなり何あばれてんねん!」
バコッ! テツの後頭部に下駄が直撃する。
「痛っ! なにしよんねん、晶!」
「うるさい! お母はん泣かせて、みんなに迷惑かけて、今さら何しに来たんや、このスクラップがあ!」
「スクラップ言うな!」
拳二、晶対テツの殴り合いだ。
そこに太児がオロオロしながら二階から降りてきた。太児はもちろんテツとは初対面だ。
「ままま、冷静に…」
おそるおそる近づいて、拳二の横にぴったりつく。
「何やお前は。他人は引っ込んどかんかい!」
テツがドン!と太児の肩を掌で突いて押しのけようとしたが、太児は肩を受け流した。勢いで、テツがよろける。
そこに拳二がパンチをたたみこもうとしたが、太児が拳二の袖を軽く引っ張ったせいで空振り。
拳二とテツは同時に、ド派手にすっ転んだ。
「……は? なんだ?」
さらに太児が一歩、音もなく踏み込んだ。
テツが振り上げた肘に、そっと掌を添えて軌道をずらし、下駄を振り上げる晶には、さりげなく膝カックン。
「拳二! じゃませんといて!」
「へ? 何もしてない」
回し蹴りを浴びせようと片足を上げた拳二の腰のベルトに、ちょいと指を引っ掛ける。拳二の足は大きく空振りして、テツの頭の上を通り過ぎた。
「うおー、危ないやんけ!」
三人とも攻撃は外れっぱなしだ。
太児は、何もしていない顔で「みんな冷静に~」と叫んでいる。
晶は、下駄を放り投げ素足で突進し、テツの背中に飛び乗って拳でボコボコと頭を叩く。
「このアホ! ハゲ!」
「ハゲてへんわ!」
収拾のつかない状況になってきたころ、拳二の母の千恵が台所から顔を出して、近所に響き渡るような大音響で叫んだ。
「アンタら、うるさいで! 近所迷惑や! 耳の穴から指ツッコんで、奥歯ガタガタいわしたろかい!!!」
シーン。
「あらあら、私としたことが、はしたないことを…。ほほほ。もう少しお静かになさってくださいね」
千恵は、日頃は上品な言葉で都会人を装っているが、興奮すると幼少時に過ごした、地の言葉が出る。
その静けさの中、晶が叫んだ。
「……うち、もうイヤや! なんで、こんなんなん……」
テツの目が泳ぎ、しばし沈黙の後、低くかすれた声が漏れた。
「……ワシが悪かった、晶」
晶が顔を上げる。テツが神妙な顔をしていた。
「ワシなぁ……どうしたらええか、分からんかったんや。とりあえず、お前に会いに来たんや」
声が震えた。
「ほんまはお前と、ヨシ江と、三人で、もう一回やり直したいんや…」
その時、ピンポーンと、チャイムが鳴った。
開けっ放しの玄関ドアの向こうに、晶の母、ヨシ江が立っていた。
「ご近所さんにから、お父はんが思いつめたようにバイクに乗っていったときいて…。きっとここだと思って、駆け付けたのよ」
「ヨシ江ちゃん、ようやく帰って来たのね…」
「ごめんね。千恵ちゃん、本当にごめんね…」
ヨシ江は、涙を浮かべ、声が詰まって、言葉にならない。
「ヨシ江、ワシが悪かった。堪忍や…」
「なんべん同じことやってんねん。もう堪忍の限界はとっくに超えてるわ。態度で示してんか」と晶。
「晶、ごめんね。あんたは本当に強い子や…」
「お母はんは謝らんでええ。悪いのはテツや」
「お父はんは、強がってるけど、弱い人なんよ。不器用でどうしようもない人やけど、悪い人とちゃう…」
「ギャンブルやって喧嘩して働けへん人が、何で悪い人とちゃうねん」
「それでも、お父はんは…晶のお父はんなんよ…他にはおれへんのよ…ここまで50㏄のバイクで晶に会いに来たのよ…」
「電車できたらええのに、アホやろ」
「ほっとけ、電車代がないんじゃ」
ヨシ江がそっと、テツの横に腰を下ろした。
「…お父はん…晶の想い、汲んであげてください…」
そう言って、ゆっくりとテツの肩に手を置いた。
千恵が、ふぅっと息をつきながら、ちゃぶ台に味噌汁を並べた。
「晩ごはん食べながら仲直りしましょうね。テツさんも遠いところからきて大暴れしてお腹もすいたでしょう?」
その言葉で、場の空気が少し緩んだ。
晶が鼻をすすりながら「……味噌汁、もらう」とつぶやくと、拳二が「オレも」と頷く。
太児は居心地悪そうに席に着き、テツも不愛想な顔でちゃぶ台の前に座った。
その晩は、拳二宅の客間で、久々に親子三人水入らずで過ごした、晶一家だった。
自宅に帰った太児は、今日の混乱をまだ飲み込めず、お風呂に浸かりながら、ぼんやりと指先を見つめていた。
なんで、あんなにスルスル動けたんだろう。頭は真っ白だったが、身体が勝手に動いた。
庵天先生の言葉がよぎる。
「考えなくても動けるようにするのが太極拳だ…」
今日の混乱が、遠く感じられた。
第二十二話 晶、父を責め問い、黒服どもが現るること
夕食の時間。
「ほう、そんな大変なことがあったのか」
太児のお父さんがいう。
「拳ちゃんのお父さんの妹さんよね。ヨシ江さん。苦労されたのねえ」
「拳二の家は、一気に大家族だよ。晶ちゃんのお父さんのテツさんが、誰かに狙われてるらしくて家に帰れないらしいよ」
「借金のトラブルとかだろうけど、ここまで取り立てにきたりしないか心配だな」
「拳ちゃんの家にはあまり行かない方がいいんじゃない?」
「そんなことで友達を避けたりできないよ」
「本職が来たら、この前みたいな、親子喧嘩じゃすまないぞ」
「うーん…」
夜、ピアノの部屋の窓越しに、美鈴と相談する太児。
「ヤクザが来るかもしれないって、パパやママも心配していたわ」
「ぼくのお父さんやお母さんも心配していたよ」
「晶ちゃんは、ヤクザなんかこわいことあらへんわ! っていってたけど…」
「庵天先生に相談してみようか?」
「そうだね…。頼りなさそうだけど…」
翌朝、早朝から魚を釣っていた庵天先生と、太児が相談していた。
「借金のもめごとなんか、逃げ隠れしてないで、親父がけじめをつければいいんだ」
自分でけじめをつけられるなら、こんな騒ぎになってないよなあと、太児は思った。
「チンピラ闇金だと、拳二の親にまで強請ってくるかもしれんが、ためらわずに110番だ」
「ヤクザとチンピラは違うの?」
「まあ、似たようなもんだが…。でも、本当に借金の取り立てか? 何に追われているのか、わからないとなあ。中国マフィアとか政府がらみってことは、よもやあるまいが…」
太児はゴクリとつばを飲み込んだ。
「まずは敵が何者かだ。己を知り敵を知れば百戦危うからずだ」
庵天先生が釣り糸をたぐりながら、ゆっくりと話す。
「武は、ただ戦うだけじゃない。危うきを察して、避けることも武だ。太極拳の化の理と同じだ」
太児は、小さくうなずいた。
「親父がなにをやらかしたかだな。父親が逃げ腰なら、子は苦労するなあ」
先生は魚籠を覗き、釣れた小さな鮒を放してやる。
「晶ちゃんは気が強いが、女の子だ。守ってやらんとな」
胸の奥がドキンとする。人を守るなんて、できるのだろうか?
「人はみな、強く見せたいもんだが、本当の強さとは、弱さを知り、弱さを抱えて、なお歩むことだ。剛の中に柔あり、柔の中に剛あり。陰陽だ。どちらか一方ではなく、両方を受け入れたとき、人は強くなる。」
先生は太児をまっすぐに見つめる。
「太児は関係ないような気もするが、巻き込まれることも考えて、まずは自分がしっかりするんだぞ。恐れを消そうとするな。恐れと共に立つんだ」
昼下がりの公園で、晶が父親を詰問していた。
「テツ、借金取りに追われてるんか?」
「借金くらいでワシがビビるかい! これまでなんぼ踏み倒してきたと思てんねん!」
「ヤクザと揉めたんか?」
「ヤクザが怖いわけないやろ! ワシ見たらあっちが震えあがるわい!」
「ほんなら、なんで家を放って、逃げたんや」
「わからん連中に追われとるんじゃ。そやから、尾行できへんように、スーパーカブで、寄り道しながら逃げて来たんじゃ」
公園のベンチに、ざらりと風が吹き抜けた。
晶とテツのやりとりを遮るように、背後から低い声が響いた。
「ふふふ。そんなことで我々を巻いたとでも思ったアルか?」
晶がはっとして振り向くと、ベンチの脇の茂みから、黒スーツ、サングラスの男が3人現れた。
全員、長身痩躯で似たような顔立ちだ。
テツが椅子から立ち上がり、拳を握る。
「ちっ、尾けてきよったんけ。晶、下がっとけ」
晶は、父を睨んだ。
「……ほんまに何かやらかしたんやな」
長身の男が口元を歪める。
「尾けなくとも、行き先は見当つくアル。あんたアホね。手に入れたブツ返せば、我々の仕事は完了アルよ。とっとと出すアルよ」
「おのれら……ただのヤー公やないな」
「知らない方が身のためアルね」
晶はじっとりと冷や汗が流れるのを感じた。借金問題でもヤクザでもなく…もっと大きな、得体の知れないものに追われているのか。
「あなた持っているもの返す。それで終わりアル」
「……なんのことや」
テツは虚勢を張るように笑ったが、額には汗がにじんでいた。
晶が鋭く父を見上げる。
「テツ、何をしでかしたんや」
テツは口を開きかけて、ぐっと言葉を飲み込む。しかしスーツの男が代わりに答えた。
「ある国の秘密計画の鍵となる、過去からの遺産を、お父様は偶然、手に入れたアルよ。とっとと殺して取り返すつもりが、隠して、逃げたアルね」
晶の顔色が変わった。
「……ある国の秘密計画? 冗談やろ……」
テツは肩をすくめ、苦笑した。
「いてこましたったヤー公から取り上げたカバンに、わけわからん字が書いてあった木の玉が入っとったんや。それが、どうもアカンもんやったらしい」
サングラスの男が一歩前に出て、低い声を響かせる。
「その玉は国家機密アルね。返せば命は無事ね。さっさと吐くアルよ」
晶は震えながら父を見つめた。
「テツ……ほんまに、そんな危ないもん持ってるんか?」
「今はもっとらへんわ。誰にもわからんところに隠しとる。……晶に手ぇ出したら許さへんぞ」
公園の空気が、一気に張りつめた。
男は口角をわずかに吊り上げた。
「……ハオ。今日の終わりの0時までに湖畔の倉庫跡で渡すアルよ。でないと、晶ちゃんの命はピンチね…」
そう言って彼らは風のように立ち去った。公園には再び蝉の声だけが残る。
晶は父を睨みつけた。
「……テツ。ほんまのこと、全部言うて」
テツはベンチに崩れるように腰を下ろした。
「……ワシが見つけたんはな、古臭い小汚い下手な字の書いてある木の玉や。なんでそんなもんが狙われるんかわからへんわ」
「なんなんそれ。なんでテツが持っとるん?」
「ワシかて、しらんがな。シャブの密売とかで、商店街で揉めてたヤー公を絞めたって、荷物を没収したったら、シャブはあらへんと、それが入っとんたんや。……知り合いのC国人の占い師に見せたら、青ざめて、捨てろて言うた」
「それで……捨てへんかったんか?」
テツは苦笑して、
「金になる思たんや。けど、すぐに追っ手が来た。ヤクザどころやない……国家レベルの悪党やったんやな」
「最悪やな……。もう逃げられへんやんか。はよ、返したりや」
テツは晶を直視できず、空を仰いだ。
「秘密を知ったワシはもう詰んどる。返したところでな…。お前を巻き込むわけにはいかんから、逃げとけ」
「遅いわ、もう巻き込まれてる。ていうか秘密、知らんやん。なんで、うちのとこに来たんや。拳ちゃんまで巻き込んでしまうやないか」
二人の間に、重たい沈黙が落ちた。
「テツ……ほんま情けない父親やな。でもな、うちはテツの子や。責任取って最後まで見届けるわ」
「……晶」
「誰にも迷惑かけんとこ。二人だけで終わらせるんや」
第二十三話 庵天、倉庫に影を落とし、いばら姫が珠を奪うこと
夜更けに晶が家を出て、どこかから帰ってきたテツと合流した。
「怪しい動きを探知!」
拳二が気づいた。思った通りだ。何かある。
拳二は、こっそり尾行する。途中で、キッズ・ケータイで太児を呼び出して、合流。美鈴には内緒だ。
テツと晶が向かったのは、湖畔の古びた倉庫跡の廃屋だった。
もう真っ暗だというのにサングラスをかけたスーツの男たちが、黒いバンを倉庫に横付けし二人を待っていた。
「……晶。返したところで殺されるかもしれへん。やっぱりお前は逃げとけへんか」
「逃げても同じや。せめて、うちが見届ける」
スーツの男たちに促され、半開きになっていたドアから、薄暗い倉庫の中に、二人は入っていった。
同じ時間、少し離れた倉庫の屋根から、庵天先生が密かに現場を監視していた。
バンから出てくる怪しい男たちを双眼鏡で観察する。
「3人か…ずいぶん小さいな」
「逆よ、先生」
「あら。久しぶりだから緊張してたかな」
春子…穏やかで優しいはずの妻が、黒い戦闘服に身を包み、小型カメラで撮影している。
双眼鏡を持ち替えた庵天先生がつぶやく。
「どうやら悪い予感が当たったようだ…C国に通ずる特務機関だな。といっても、下請けか外注だろう。あんなゼンジー北京みたいな喋り方をする奴らが、正社員の幹部なはずがない」
倉庫内の会話は、仕掛けておいた盗聴器で集音されて、庵天先生がイヤホンで聞いているのだ。
春子は小さくうなずく。
「この程度の連中、掃討は簡単ね。狙ってるものが何なのかよくわからないけど、とりあえず回収しないと…。C国が狙っているからには、世界の平和にとって影響の大きなものに違いないわ」
庵天は目を細め、低く答えた。
「10分以内にあいつらを片付けて、ふたりを救出する。後を頼む」
そのとき。
「晶ーっ!!」
倉庫の脇から、駆けつけてきた拳二と太児の声が響く。
二人は叫びながら、倉庫の中に飛び込んでしまった。
「あ、あいつら、こんなところまで来やがった。ちょっと厄介だぞ」
倉庫の中では、晶が顔を真っ青にして叫ぶ。
「なんで来たんや! アホー!」
拳二は拳を握りしめ、息を切らせながら答える。
「ほおっとけるかよ!」
太児も叫ぶ。
「晶ちゃん……ぼくもがんばるぞ!」
倉庫の中、鉄の匂いと油のにおいが充満する空気。
「お友達が勢ぞろいしたところで、何をがんばるアルか。しかたない。目撃者は全員死んでもらうアル」
黒スーツの男たちが銃を構えた。
晶が悲鳴を上げかけたとき、銃を構えた男は地面に叩きつけられていた。
黒い影が、どこからともなくスーツの男の後ろに忍びよっていたのだ。人間離れした足運びで滑るように床を進み、音もなく絡みつき、争う間もなく、男は一瞬で地面にへばりついていた。
「あっ」と、もう一人が振り返るが、黒い影は疾風のごとく絡みつく。
「うおおっ」と、肘を振り回そうとした瞬間、
「あああーーーっ!」
男はまるで竹とんぼのように宙を舞い、はるか上空の鉄骨に叩きつけられ、どさっと落ちた。
「……な、なんだ!?」
太児は呆然とする。
拳二は目を丸くして声を裏返らせた。
「い、今の動き……人間か!?」
太児の心臓は爆音のように鳴っていた。
(あれ……もしかして、太極拳……? ええっ? まさか?)
黒い影の動きは、小さく、良く見えない。カンフー映画のような派手な立ち回りはない。ひっついたと思ったら、終わっている。
「小学生二人、床に伏せろ」
低く小さい声が、鋭く二人に指図した。
ふたりが慌ててうつぶせになると同時に、銃を持った三人目の男が、影の背後から銃口を向け、叫んだ。
「何者アルね!」
その瞬間、スーツの男は足を上に、頭を下に縦回転して、真っ逆さまに床に落ちた。黒い影が、地面スレスレに低く沈み、クルッと回転して男の足を刈ったのだ。
さかさまになった男が、黒い影の男を見上げて、ハッと叫んだ。
「こ、黄河一号…?」
「ふっ、今は黄昏(たそがれ)とでも呼んでくれ」
静かに答えた声に、太児は聞き覚えがあった。
その隣に、いつのまにか、もう一つの細身の黒い影が寄り添っている。
スーツ男の傍らで跪き、尋ねた。
「大変恐縮なのですが、息の根止めさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「何をする…」と言い終わる前に、スーツ男は、グタッと伸びてしまった。
沈黙。
わずか数十秒…組織の三人は、全員倒れていた。
「……全員片づいたわ」
その声にも聞き覚えがある。
「……は、春子さん?…と、先生??」
いつもは割烹着姿で料理をしていた春子が、漆黒の戦闘服に身を包み、髪は後ろで一つに束ね、腰にナイフを下げている。
太児は目を丸くした。
晶も驚愕の声を漏らす。
「嘘やろ…」
春子は二人の言葉を無視して、すたすたとテツに歩み寄った。
そして無言で、彼の胸元を探る。
「おい……何をするんや」
テツが抗う間もなく、春子は懐から小さな布袋を抜き取った。
開けると、中には5cmほどの木の玉が入っていた。
「……これね」
春子は淡々と確認し、布袋をポケットに収める。
「待って! それは――」
晶が叫び、父をかばうように立ちはだかった。
「テツの命がかかっとるんや! 持ち主に返したらな!」
春子の目は一切揺れない。
「晶ちゃん、これは世界を揺るがす危ないものかもしれないの。C国の手に渡ったら、世界の破滅につながるかもしれないわ。お父さんが持っていても殺されるだけ。しかるべき機関で処理します」
庵天先生が静かに言葉を添える。
「びっくりしたか。まさかこんなことになっていようとは、俺もびっくりだが…」
晶も太児の拳二も口をあんぐり開けている。テツは状況が呑み込めていないが、同様に口を開けていた。
「こいつらは、C国に通ずる秘密組織のスパイだ」
春子は晶をじっと見つめた。
「テツさんは、もうマークされてるわ。秘密をつかまれたと思われて、もう平凡な日常に戻れない」
「日頃から平凡でもなかったけどな…。テツはどうなるん?」
「お目当ての物は持っていない、内容もわかっていないと証明できれば、狙われないかもしれないけど…。そんな甘い組織ではないわ」
春子の声は、判決を言い渡す裁判官のように冷静だった。
「……お父さんと一緒にいたら、晶ちゃんも危ないわ。離れた方がいいわね」
その瞬間、晶の中で何かが弾けた。
「あかん!」
倉庫の鉄骨が反響するほどの大声だった。
「テツを守るんは、うちの役目や!!」
春子の瞳が一瞬、揺らいだ。
「……強いわね。でも、自分の命が危なくなるのよ」
「かまへん!! テツはうちから離れたらあかんようになるんや!!」
晶の声が震えながらも、確かに倉庫の空気を突き破った。
テツは娘の背中を見つめ、ボロボロと涙を流した。
「晶……」
意識のないスーツ男達から、武器や電子機器を回収していた庵天先生は静かに目を閉じ、ゆっくりと吐息をもらした。
「春子……それ以上は言うな。晶ちゃんは自分の答えを持っている」
春子は、言葉を飲み込み、微笑んだ。
テツは、しばらく沈黙のあと、かすれた声が漏らした。
「…ワシな…これまで親父らしいこと、何ひとつしたことあらへんかった。晶に苦労ばっかかけて、命まで巻き込んでもうて……最低や」
「…テツ…」
「ワシ一人が消えたら、お前らは安全やろ…」
拳二が前に出た
「何言ってんだよ、テッちゃん。俺たちがいるよ!」
太児も必死にうなずいた。
「そうだよ! ぼくだって力になるよ! テッちゃん!」
拳二と太児の目は真剣だった。
「あんたら……」
晶は二人を見つめた。
「アホやろ」
うん、うんと二人がうなづく。
「…ていうか、テッちゃんて誰やねん…」
とテツがつぶやいた。
静かに様子を見ていた庵天先生が、一歩前に進んだ。
「……いい仲間を持ったな、晶ちゃん」
彼は全員の顔を見渡し、低い声で続ける。
「だが、敵はここで終わらん。C国がらみの秘密組織はもっと大きく、もっと深い。今夜の連中は雑魚にすぎない」
春子がうなずく。
「本隊が動く前に、後片付けをする必要があるわ」
庵天先生は鋭い視線でテツを見据えた。
「テッちゃんの覚悟は聞いた。だが命を捨てる必要はない。……この件、俺たちが処理する」
「…いや、テッちゃんて…」
春子は静かに頷くと、黒いトランクを開き、とりだしたジャケットを羽織り、大きなマスクをつけ、ゴムの手袋をはめた。
その仕草は、普段の温和な主婦の姿からは想像もつかないほど冷徹で、鋭い気配を纏っていく。
春子は、かすかな笑みを浮かべ、しかし瞳は氷のように冷ややかだった。
「私の…コードネームはいばら姫。世界平和を守るための諜報機関のエージェントよ。得意なことはお料理とお片付け。それは家でも、仕事でも同じ…」
三人は言葉を失う。
春子は腰のホルダーから細長いナイフを取り出し、切っ先を光にかざした。
庵天先生は妻に、短く告げた。
「先にみんなを避難させる。あとはまかせる」
春子は、微かに口角を上げ、刃をひとひら翻した。
「承知しました」
「お前たちには、いずれ猪の解体も体験させてやるが、これは見ない方がいいな。2,3分で済むから、壁際で壁の方を向いておけ」
庵天先生と春子は暗闇の中、寄せ集められていたスーツ男たちの脇で、もぞもぞと動いていたと思うと、シューッと煙が上がり、倉庫の中が白くなった。
「よし、みんなこちらの出口から外に出ろ」
庵天先生が先頭を進み、そのあとに晶、テツ、太児、拳二と続く。
倉庫の外に出ると、空には星が瞬いていた。しばらく足元の良く見えない暗闇を歩き、湖畔の無料駐車場についた。
庵天先生が古いワゴン車のドアを開けていった。
「これで、いったん俺のアパートに行く。朝になる前に、家まで送ってやる。ちょっと狭いが、みんな乗れ」
「春子さんは?」
「心配ない。後片付けをしたら、戻ってくる」
車が走り出してしばらくすると、後ろの方で、ボンッという音がした。白い煙の球が暗い空に浮き上がっていく。
後ろを振り返っていたテツが、低くつぶやいた。
「あれ、なんや??」
「爆発事故でもあったのかもな。まあ、気にするな」
しばらくすると、パトカーや消防車のサイレンの音が、真夜中の空気を切り裂くように響き渡った。
庵天先生のアパートに帰ると、すでに春子は割烹着姿でそこにいた。
いつもとかわらない春子さんだ。
「お疲れ様だったわね。みんな。シャワーでも浴びたらいいわ。服もずいぶん汚れちゃってるから、お洗濯と乾燥しておくわ。ちょっとくつろいでいてね。お腹が空いていたら、お茶漬けくらいできるわよ」
太児は、あの3人は死んでしまったのか?と思ったけれど、怖くて口に出せない。
何も考えないようにしようと思って、頭から冷たいシャワーを浴び、春子が用意してくれていた旅館の名前が入った浴衣を着て、お茶漬けをすすった。
「太児君、ちょっとこっちを見て、じっとしていてね」
春子が、太児の額に、ちょんと人差し指を当てた。
なんだか、あたたかくて気持ちがいい…。
…目が覚めたら、自分の部屋のベッドの上だった。
きのう、パジャマに着替えないまま寝てしまったらしいけど、何があったのか、よく覚えていない…
第二十四話 庵天、義の珠を語り、美鈴が怪しむこと
夜明け前、庵天先生のアパートの台所。
春子が台所で味噌汁を温めつつ、調味料の瓶の裏に隠した小型送信機を取り出す。
庵天が小声で言う。
「味噌汁三人前、具は豆腐とワカメ」
送信機から、オペレーターが「湯豆腐は南禅寺…」と返事が返ってくる。
春子がため息をつきながら囁く。
「先生、また食べ物の暗号? おなかすいた人みたいで恥ずかしいわ」
「アナログがいいんだよ」
本物の味噌汁をちゃぶ台に置いて、春子が用心深く言った。
「…現場にもう一人いたわね」
「ああ、でもあいつらの仲間じゃないな。俺たち側の奴じゃないか? 敵意を感じなかったし」
「でも、そんな連絡は入ってないわ」
「うーん。わからんな…。どこかでまた接触するかもしれないな。なんだか知ってる者のような気がする…」
そう言って、庵天先生は味噌汁を一気に飲み込んだ。
飲み終えるのを待って、春子が言った。
「あの子達、ちょっと脅かしすぎたんじゃない? 記憶は消しておいたけど、トラウマになりかねないわよ」
「自分こそ、悪ノリがひどかったぞ。なんだよ、いばら姫って…」
「先生がタソガレとか言うからじゃない」
「奴が黄河一号なんて言うもんだから、古すぎると思って、令和の時代に合わせてみたんだ」
「バラバラ殺人事件の予告みたいなことも言ってたわよ」
「ビビらせてやろうと思ったんだが、ちょっと冗談が過ぎたかな。実際には麻酔薬で眠らせて、公安に引き取りに来させたんだが…。C国側の連中、死体も消されたと思ってくれればいいけどな。あの爆発はうまくいった」
「倉庫はバラバラ。お隣さんは、窓ガラスくらいは割れたかもしれないけど、そんなに被害はないはずよ」
「太児達、上手く忘れていてくれていたらいいけどなあ」
庵天先生は、足を組みなおして、まっすぐ座り、机の上にゴロッと木の玉を転がした。
「さて、これが例のモノだが…俺が昔、陳家溝で預かって、今は太児が持っている珠によく似ている」
珠には「義」の一文字が黒々と書かれていた。
春子が珠を手に取って言う。
「義和団事件の義? あるいは義務教育? さては、義理チョコ?」
「仁・義・礼・智・信・厳・勇…か?」
「えっ?」
「儒教の七徳だな。陳王廷の時代に、七つの徳目を宿す珠が作られたという話を、俺は陳家溝で聞いたことがある。たまには不思議な力が宿っているそうな」
「それが、この珠?」
「そうだ。義の珠は、正義と忠誠を象徴する。太児の珠は無地だが、触っているうちに文字が消えたのかもしれない。仁とか書かれてたのかもしれないな」
「なら、残りの礼・智・信・厳・勇も存在するのね…」
「陳家溝に伝わる伝承が本当なら、C国がこの七珠を回収しようとする理由もなんとなくわかる」
「どうして?」
「今のC国の政治や思想と相容れない徳が、この珠には込められているからだ。仁は思いやり、智は真理を、信は信頼と真実を重んじる。C国の政治は、そのあたりデタラメだからな。得体のしれないパワーで、そうした思想が人々に広まれば、国家の統制に障ると考えているのかもしれない」
朝の公園で、美鈴が詰問していた。
「あんたたち、昨日の夜どこへ行ってたのよ!」
眠そうな声で太児が答えた。
「覚えてないよ…」
「オレも…」
「うちも…」
「ワシも…」
なぜかテツも晶に連れられて、太極拳の練習に参加。
「きのうは爆発事故もあるし、あんたたち、巻き込まれたのかと思ったわよ」
「へえ、そんなことがあったんだ…」
「へえ、知らなかったなあ」
「うちもしらん」
「ワシも…」
拳二が尋ねる。
「ていうか、なんでオレたちが夜に出かけたと思うんだよ」
美鈴がプリプリしながら答える。
「太児のピアノが聞こえないし、拳ちゃんも電話も出ないし! 私だけのけ者にして、例の昔の村に行って、お馬さんに乗ってたんじゃないでしょうね!
「例の昔の村って、なんや? 怪しいやんけ」とテツ。
「あっ…渦巻映画村のナイトイベントがあったのよ」とあわてる美鈴。
「そうそう、三国志特集だったかな? 関羽はかっこいいね!」と太児。
「馬の上で春秋大刀(しゅんじゅうだいとう)を振り回すんだよな。そこにシビれる! あこがれるゥ!」と拳二。
「そんなん、興味ないわ。ワシが行くわけあれへん」
「テツに聞いとんのとちゃうわ」
本当にそんなイベントがあるなら行ってみたいなあと思いつつ、太児は昨日のことが思い出せない。
(なにがあったんだろう??)
結局、三人とも、太極拳の宿題で疲れて、テツは飲みすぎて、早く寝ていたということに落ち着いた。
「あんたたち、体力がないのねえ~。やっぱり日頃バスケットボールで鍛えている私が、一番強いってことね」
ドヤ顔で見渡す美鈴だったが、その瞳は、何かを疑っていた。
第二十五話 太児、発科に出会い、紅衛兵が珠を奪うこと
なんだかしっくりこない一日を過ごした夜、太児はベッドに寝転んだ。もう、クーラーを入れなくても涼しい。
網戸の窓から秋の虫の声がきこえる。
リーリーリーリーリー、ガチャガチャガチャ、チンチロチンチロチンチロリン、日本人は虫の声も言語として聞いているそうだ。欧米人や中国人は、単なる音として聞いているらしい。
そんなことを考えながら、眠りにおちようとしている時、木玉が光った。
黄色の土煙が風に舞い、麦畑のざわめきが村を包んでいた。石垣と土壁の家々が寄り添うように並び、村人たちは鍬を振るい、広場では太極拳の型を繰り返している人々がいる。
(ああ、ここは陳家溝だ…)
だが、前に来た時とは少し雰囲気が違う気がする。
太児は陳家溝の路地をさまよった。
どこかで咳き込む声がする。振り向くと、痩せた少年が崩れた壁に腰をかけて肩で息をしていた。太児と同い年くらいに見える。
「大丈夫?」
太児が声をかけると、少年は弱々しく笑った。
「大丈夫。武術の練習をしているんだ」
「君が武術を? 人のことは言えないけど、体も弱そうだし、…ドンくさそう…」
「父さんや伯父さんたちは、ぼくが継がないと、陳家の拳術が途絶えてしまうっていうんだよ。でも、体が弱くて、息が続かないし、他の子たちと練習もできない…」
その瞳には、おどおどして自信がなく、子供の明るさもない。
「おい、発科(はっか)。サボってないで練習しろ!」
広場から、誰かが声をかけた。
その名に太児は息をのんだ。陳発科といえば、陳氏太極拳の伝承者の名だ。楊露禅からは二代後の代になる。
…ということは、この時代は、前に来た時代より、現代に近い時代ということか?
陳発科は「拳聖」と呼ばれる人物のはずだが、目の前にいるのは、病弱な少年だ。
発科と声を掛けられた少年はゆっくり立ち上がった。
「休憩ばかりじゃだめだね。練習しなきゃ…」
立ち上がると、ひょろっとして、わりと背は高い。
月明かりの下で、ゆっくりと套路をなぞるが、太児から見ても、弱弱しい。
「……ごほっ、ごほっ……」
(僕より、ずっと弱っちい……)
太 児は彼のそばに歩み寄って言った。
「……あの、こうすると楽かも」
そう言って、庵天先生から習った呼吸の仕方、お腹に空気をため、足裏で大地を感じる「立禅」の姿勢を真似てみせた。
「…ちょっと楽になったよ。きみ…、誰なの?」
「え、あ…太児っていいます」
「村の子じゃないね。ありがとう」
少年は弱々しく笑った。
緩やかな円を描き、虚弱な身体から、少しずつだが、柔らかい気の流れが生まれていく。
太児は、しばらく陳発科の動きを見ていたが、不意に声を掛けられた。
「…太極とは、無から有を生み、柔から剛を制する理。病弱な身であろうとも、己の内に気をめぐらせ、静中に動を見出せば、やがて剛力すら凌ぐことができるのじゃ」
「…その声は…もしやして陳王廷老師?」
「さよう。陳発科はワシから八代後となる者」
「王廷老師は行ったり来たり、自由自在なんですね」
「さよう。お前やお前の師匠達も、ワシが行ったり来たりさせておるのじゃ。陳家の武術が未来永劫続いていくように歴史を見守り、多少は操作もしておる。まあ、夢の中にちょこっと入りこんでいるだけじゃが」
「そうでしたか…。それにしても伝承者に虚弱体質の人がいたんですね……虚弱だからこそ、できることがあるとか?」太児は問い返す。
「そうじゃ。強者は力に頼るが、弱き者は理にすがる。理が、力を制すのじゃ」
太児の胸に深く刻まれた。
「太児。陳発科の姿をよく見ておくといい…」
暗くなってきた景色が、青白い光に包まれ、再び黄昏時に戻った。
陳発科はまだそこにいる。
しかし、さきほどとは様子が違っていた。
顔色は青白いが、立ち姿に揺らぎがない。体はガッチリし、息に乱れがない。拳を繰り出すたびに、土煙が小さく舞い上がる。
「……すごい……」思わず太児は声をもらした。
発科は笑い、汗をぬぐった。
「やあ、太児くんか。久しぶりだね。おかげでまだ元気に続けていられるよ。…君はあまり変わらないな」
そしてまた青白い光に包まれる。
次に太児が見たのは、先ほどとは変わって、都会の景色だった。
そこには成長した陳発科がいた。彼は洛陽や北京に出向き、数々の武芸者と手を交えた。比武(武術試合)では次々と挑戦者を退けた。
彼の太極拳は「四両撥千斤(よんりょうはつせんきん)」の妙理を体現していた。
かつて病弱で馬鹿にされていた少年は、今や「拳聖」と称えられていた。都会の武林の人々の度肝を抜くほどの功夫があり、しかも礼儀正しく気配りがあり、謙虚な人柄が知られていた。
「太児君かい。久しぶりだね。……柔よく剛を制す。体が弱かったからこそ、極意が掴めたよ。それにしても君は変わんないなあ」
太児は、胸の奥が震えるのを感じていた。
(僕も……強くなれるのかな…)
「武術は…己の弱さを知り、付き合っていくのに役立ったよ。強い人の真似をしても、本物にはなれない。弱いから理がわかった。力に逆らわず、自然に生きる。それが太極拳だね」
その眼差しには、病弱だった頃の面影はもうなかった。
「強さとは、他人を打ち倒すことじゃない。世のため人のために役立つ力を持つことだよ」
太児は思わず問い返した。
「でも…世の中には、力で人を縛ろうとする人もいる。どうすればいいの?」
陳発科は、静かに言った。
「人のことはどうしようもない。自分が正しい武であることだね。正しい武は、決して滅びない。正しい心を持たない者が力を持てば、自らの暴力で亡びるだろう…」
その言葉は、太児の胸の奥深くに突き刺さった。
青白い光が表れ消えると、そこは赤い世界だった。
太児は、荒れ果てた広場に立っていた。
紅衛兵の赤い腕章を巻いた子供や青年たちが、竹槍や鉄棒を振り回し、「造反有理!」と叫びながら群衆を押しのけている。
壁には大きな毛沢東の肖像画と、大字報が貼られ、墨の匂いが漂っていた。
「ここは……どこ……? また現代に近づいた……?」
太児は周囲を見渡す。
かすかに聞き覚えのある姓を呼ぶ声を耳にした。
「陳照旭! 逃げるな!」
太児の目に映ったのは、鉄条網を越えようとするひとりの中年の男。
やせた顔つきに、鋭い眼光を宿したその人は、陳発科が語っていた「わが子」の名と一致していた。
「陳照旭……?」
銃声が鳴り響いた。
乾いた破裂音が夜空を裂き、男の体が仰向けにひっくり返る。
赤土の地面がじわりと黒く染まっていった。
群衆の一部は罵声を浴びせ、一部は顔をそむける。
誰も助けようとはしなかった。
太児は、その場に立ち尽くすしかなかった。
武術の名門に生まれながら、革命の嵐に呑まれ、撃ち殺される。
「これは武じゃない…暴力だ…!」
追いかけてきた紅衛兵たちは銃を掲げ、群衆に「人民の敵を打ち倒した!」と叫んでいる。
太児の目に映るのは、恐怖と狂気の連鎖だった。
太児は膝をつき、こらえきれずに涙をこぼす。
(…未来はどうなるんだ?)
紅衛兵たちは、赤旗が夜風にはためく中で、照旭の体を探っている。
「あったぞ。これだ」
紅衛兵の一人が高く上げたものは、なにやら字が書かれた小さい玉のようだった。
「あれは?」
太児は思わず自分の持っている木の玉を、袋の上から握りしめた。
青白い光が太児を包み込み、紅衛兵たちが陳照旭の亡骸を荒々しく引き摺って去っていく姿が見えなくなっていった。
光が消えると、世界地図が表れた。多くの国々が赤く染まっている。
アジア、中東、アフリカ、ヨーロッパまで…。
C国が軍事と情報を駆使して世界を呑み込もうとする姿が目の前に広がる。
武が、国家の「支配と征服」の道具へと歪められて、暴力と強権が世界を縛ろうとしている…
第二十六話 太児、武は国より長きことを知り 歴史を学ぶこと
太児が目を覚ますと、自分のベッドだった。
うつらうつらとしたのは、10分前だが、汗をびっしょりかいていた。
相変わらず、秋の虫が、リーリーリーリーリー、ガチャガチャガチャ、チンチロチンチロチンチロリンと鳴いている。
これが「邯鄲の夢」というものか…。
眼の奥には、赤土に倒れた照旭の姿が焼きついたまま離れない。
あの夢はただの幻だったのか。
知りたい。陳照旭が生きた時代を。陳王廷が、楊露禅が、陳発科が、拳を磨いた世界を。
小学校の社会の授業では、世界の歴史はまだ学んでいない。
太児は図書館に行って、本を広げ、パソコンを開き、中国の歴史を検索し、ウィキペディアを読み込む。
わからないことはお父さんに聞いた。
「世界史に興味があるのかい? そりゃいいことだ。でも、その前に、日本史も知っておかないとなあ」
お父さんは学校の先生でもないのに、社会の教科書なども持っていた。
「学校の教科書は普通、一般に販売されないものだけど、これは学校で使われているのとほぼ同じ、とても詳しくていい教科書だよ」
見せてくれたのは、中学生向けの「国史教科書」(令和書籍)だった。明治天皇の玄孫(やしゃご/孫の孫)の人が作ったそうだ。
はじめの方に、世界の国の年表が載っていた。
お父さん講義を受けて、太児は驚いた。
日本は、昔から日本で、太児はそれが当たり前だと思っていた。
日本は昔から日本、アメリカは昔からアメリカ。
中国は、国の名前が変わって武術家が迫害されたような話を庵天先生から聞いた気もするが、四千年の歴史ある国だと思っていた。
日本は西暦紀元前660年に神武天皇が即位して国が始まり、統治者も人民もみんな変わることなく日本人だ。
日本と呼ばれる前は大和(やまと)とよばれていたようだが、2000年以上ずっと日本人の国でありつづけている。
日本しか知らなければ、「国が変わる」なんて、思いもよらない。
でもそれは、世界の標準ではなくて、極めて稀なことだったのだ。
たとえばアメリカができたのは、1776年。まだ300年も経っていない。それまでは、ネイティブアメリカン、いわゆるインディアンが大陸に住んでいたらしい。
ヨーロッパから来た白人が、インディアンを征服してできたのがアメリカだ。
インディアンは、国という考え方を持っていなかったかもしれないが、それ以前にも、歴史はあったはずだ。
でも、どこにも書かれていない。
逆に、中国四千年の歴史はややこしすぎる。
お父さんによると、四千年の歴史といわれているのは、「中国4000年の幻の麺 中華三昧」というラーメンのコマーシャルからきているそうだ。
ジブリ映画のキャッチコピーも作っている人気コピーライターが作ったらしいが、実は、中国は四千年も続いていない。
太児が中国だと思っていた中華人民共和国が成立したのは、1949年。まだ100年も経っていない。
その前は、中華民国。別の国だ。1912年にできた。
共産党に負けた国民党は、大陸から追い出され、中華民国政府は、現在、台湾に移っている。
その前は清。1616年に建国。満洲人の愛新覚羅(あいしんぎょろ)氏が漢民族を征服してできた王朝だ。
楊露禅は、その清王朝の皇族の武術教師を務めていたと、これは楊露禅本人から聞いた。
その前は明(みん)王朝。漢民族の国だ。1368年から1644年まで存在している。
陳王廷は1600年から1680年ごろの人なので、明と清にまたがって人生を送ったことになる。
「激動の時代だったんだろうな…」
この時代には、アメリカなんて、まだない。
陳王廷が生まれた西暦1600年は、日本では慶長5年。関ヶ原の戦いがあった年だ。
のちに徳川家康が江戸幕府を開き、大坂城は落城して、豊臣氏が滅亡した。日本も激動の時代だったのだ。
しかし、政権が豊臣氏から徳川家に変わったとしても、今でいえば政党が変わったようなもので、日本という国が変わったわけではない。
明王朝の前は元(げん)。モンゴル帝国だ。
現在の中華人民共和国より、ずっと広範囲の、東南アジアからヨーロッパまで支配していた。
蒙古民族に押され、漢民族は、隅っこの方でしゅんとなっていたことだろう。
その前は、金と南宋。その前が北宋。遡って、五代、唐、隋、南北朝、東晋と五胡十六国、西晋、そして三国志の魏、呉、蜀、その前が、後漢、前漢、そして、初代皇帝があらわれた秦。
秦のころから、今の中国の辺りは、シンとかチンとかシナとかチナとかチャイナとか呼ばれるようになったようだ。秦から音を取った呼び名で、「支那」は梵語の当て字らしい。
外からの呼び名は引き継がれても、内側では、統治者も民族も、入れ替わりつづけている。
そのたびに、多くの血が流れた事だろう。
初代皇帝が現れた秦のころ、百年ほどのズレはあるが、日本では初代天皇である神武天皇が即位している。
それ以前の日本の歴史は、神話の世界だ。
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が国を生み、天照大神(あまてらすおおみかみ)が引きこもりになって、須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、なんだかんだあって、山幸彦の孫が、大和で神武天皇になったと、古事記には書かれている。
一方、支那の方は、秦以前にも、王朝がいくつも入れ替わっている記録がある。
せわしないことこの上ないのが、支那の歴史だ。
そう考えると、支那では、一国家より、武術の方が、だんぜん歴史が長いといえる。
「なるほどなあ。新しい王様にとって、武術の家ってのは恐ろしい存在だったのかもしれないな」
太児は思わずつぶやいた。夢の中で見た照旭の姿が重なる。
武術には国をひっくり返すほどの力があることを、支配者は十分に知っており、武術家を恐れたのだ。
ノートに太児は書いた。
「日本=ずっと日本。アメリカ=300年。中国=めまぐるしい」
その横に、気づいたことを加えた。
「武術=国より長い」
書いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
国が滅びても、時代が変わっても、武術は受け継がれ、生き続けてきた。
武術家たちが命を賭けて守ったものを、いま自分も受け継ぎつつある。
太児はノート眺めて、深く息を吐いた。
「ぼくも…つながってるんだな」
第二十七話 太児、剣道を辞して 武の道へ踏み出すこと
「ところで太児は、最近太極拳をがんばっているようだが、もう剣道はいいのか?」
お父さんが唐突に尋ねてきた。
「え、いや、そんなわけじゃないんだけど…」
太児は口ごもる。
せっかくお母さんが勧めてくれたものを、やめてしまうのは悪い気がする。
「無理して続けなくてもいいんだぞ。本当にやりたいことが見つかったのなら、そちらを頑張ればいい。気の進まないものを続けて、犠牲者気分になるのは良くない」
「うん…。本当は剣道より太極拳の方が楽しい…。ぼくに合っているような気もするし…。でも、お父さんも剣道をやっていたんでしょう?」
「中学校の部活でな。親子剣士を目指すわけでなし、太極拳、いいじゃないか」
「お父さんは、太極拳を知っているの?」
「え、いや、少しくらいはな…深くは知らないが」
お父さんがなぜか口ごもる。
「まあ、気にせず、好きなことをやりなさい」
「うん、じゃあ、そうする」
剣道教室の退会は、太児が直接に先生に伝えた。太極拳をやるので…とは言いにくいように思ったが、素直に話した。
「そうか。残念だが、自分がやりたいと思うものをやったらいい。この頃のお前の動きが変わってきたと思ったら、そういうことだったんだな」
背が高く、髪も髭も真っ白な剣道教室の先生は、あっさりと退会を認めてくれた。
「それにしても、偉いぞ。太児。教室を辞めるなんて言いにくいことは、たいてい親が言ってくるもんだが、お前はちゃんと自分で言いに来たな。立派だ。手続きのことなんかは、あとでお母さんと、電話で話しておく。…きょうびは会社を辞めるのだって、本人じゃなく、親だとか、代行屋だとか、弁護士だったりする時代だ。日本男子がフニャフニャだ。お前は芯が通っている。これからも素直にまっすぐ、成長していけよ」
太児は、ちょっと涙が出てきた。
「太児、やめるのかよ。残念だな。この頃はお前と当たるのが楽しみになってたんだけどなあ。太極拳がんばれよ。たまには遊びに来いよな」
藤吉が声をかけてくれた。
太児はボロボロ泣けてきた。
2年くらいしかやってなかったが、運動不足で肥満体型だった太児を、少しでも鍛えてくれたのは、間違いなく剣道だ。叩かれて痛い思いもしたし、夏はバテるし、冬の冷たい床も辛かったし、防具を運ぶのも重かったし、そんなに好きでもなかった。でも、やってよかったと思う。
家に帰るとお父さんが褒めてくれた。
「一つ大人になったな。太児。言いにくいこと、怖いこと、恥ずかしいことから逃げたくなるのが人間だ。いい年して直面できない人は、いくらでもいる。自分で責任を持って乗り越えたんだ。自信を持っていいぞ」
太児は、また泣けてきた。
夜遅く、家族が寝静まったあと、お父さんはひとり芋焼酎をロックで飲みながら、物思いにふけっていた。
「太児の太極拳の教官は、庵天先生か…。なんというか、不思議なもんだなあ…」
数日前、湖畔の倉庫の暗闇の中で、庵天先生が息子達を救い出すのを、この目で見た。
信じられない速さ。
それは昔、混乱の中で見た動きと同じだった。
大学四年の春。
言語学の研究室で、教授から不意に声を掛けられた。
「中国語だけでなく、人間を読む訓練をしてみないか?」
それが、すべての始まりだった。
薄暗い建物。
防衛省の別棟と聞かされたが、出入りする者は皆、無言だった。
研修生という名目で集められた数名の中に、彼はいた。
「旧・陸軍中野学校の系譜」とささやかれる組織。
教育科目は、諜報・謀略・防諜・通信などの軍事学、政治・経済・思想・宗教・外国語・細菌学・薬物学・法医学・気象学・交通学・心理学・統計学など多岐にわたり、武器類の扱い、自動車や船舶の操縦、偽札や爆弾の製造、サイバー技術に、テーブルマナーや社交ダンスまで学んだ。
そして武術。
剣術・柔術・空手・合気道・忍術など、体育ではない実用的な武術をみっちり叩き込まれた。
日本武術だけでなく、ボクシングやレスリングの研究もあった。
武術講師のひとりが、中国武術の庵天先生だった。自分より少し年上くらいだ。
庵天先生の授業は異質だった。
授業が始まっても、先生が来ない。と思ったら、すぐ横にいる。ヘラヘラ笑っていて、まったく緊張感がない。
それでいて、手を合わせると、立ってさえいられない。すべての力を吸い取られるようだった。
「勝たなくいてもいいんだ。死ななきゃいいのさ」
その言葉が胸の奥で燃えた。
庵天先生の講義は、言葉も思想も武術も、すべてひとつの体系として繋がっていた。
彼は夢中で学び、エリート諜報員として頭角を現す。
やがて「文化交流官補佐」という肩書きで、米ソ冷戦下、中国へ渡る。
上海の空は、鉛色だった。
文化交流と称して入った先は、実質的な情報交換の最前線だった。
政治家、学者、軍人、記者、芸能人…誰が敵で誰が味方かもわからない。
ある晩、密会が露見した。
踏み込んだのは公安部隊。
逃げ場はないと思った瞬間、背後から声が聞こえた。
「伏せろ。」
その声を、彼は忘れたことがない。
庵天先生だった。
その同じ声を、数日前、倉庫の中で聞いた。
あの時も、闇から溶け出すように庵天先生は現れ、伏せろと言った。そして、わずか数分で救出に成功した。
上海での脱出の途中、庵天先生は一言だけ告げた。
「お前は環の中から出られないよ…」
その意味を問う間もなく、庵天先生は姿を消した。
それから数十年して、自分は結婚し、普通の家庭を持った。
サラリーマンとして働き、通勤電車に揺られ、子どもを育てた。
もう、あの環には戻らない。
そう信じていた。
だが、庵天先生が再び現れ、息子を救った。
血が凍るような感覚と同時に、胸の奥に何かが温かく灯る。
夜風が頬をなでる。
玄関の灯が、やわらかくゆらいだ。
彼は、静かに息を吐いた。
「庵天先生……。また助けてもらいましたねえ」
第二十八話 テツ、太極拳を疑い、単鞭にて転がること
日曜日。何もなかったかのように、湖畔のキャンプ場で、庵天先生の太極拳教室が開催された。
生徒は太児、拳二、美鈴、晶、テツの5人だ。
「ずいぶんメンバーも増えたなあ。テツさん、太極拳に興味があるのかい?」
「太極拳なんちゅうもんは、おばはんらの健康趣味やと思っとたけどな。なんかおもろそうや思ったんや」
「そりゃ、意外だなあ。なんでそう思った?」
「なんちゅうても、実戦的なところやな。派手に拳骨やら足を振り回すのって、あんがい使えんもんやけど、太極拳やったらヤクザ相手でも使える思たんや。あんたの技はすごかった」
「ほう。それは見る目があるねえ。さすが喧嘩に明け暮れた人生を送ってきただけのことはあるな…っていうか、この前のこと、覚えてたのか?」
「当たり前やんけ。あんなん見て忘れるかい」
庵天先生は、妻の記憶操作術の効果が不安になってきた。
「だけど、そんなに簡単に使えるようにはならんよ。地味でつまらない練習がほとんどだが、飽きずに続けられるかなあ?」
「ワシ、もともと強かったからな。ちょっとセンスをつかんだら、すぐ使えるようになると思うねん」
「ふふっ…まあ、いいか。子供たちと一緒にやってみたらいいよ」
庵天先生は、湖に向かって立ち、足を大きく広げて、右手を上げた。
「まずは前面纏絲功(ぜんめんてんしこう)から、双手側面纏絲功(そうしゅそくめんてんしこう)、撇身捶(へいしんすい)、雀地龍(じゃくちりゅう)とやっていこうか…」
体重を右左と載せ替え、片手をグルグル回していたと思ったら、両手で空を掻き分けるような動作に移り、逆回転して、さらに地面に張り付くような低さから、両拳をワニの口のように広げる動作に変わっていった。時間にして30分。
「先生、こんな練習おもろない。しんどいばっかりやし…何の意味があるんや」
「基礎トレーニングだよ。基礎がなければ、どんな技も動作も成立しない」
「ワシは基礎体力はできとる。なんか技を教えてくれ」
「テッちゃんの考えている基礎体力は、武術で使う体力とは違う。いくらムキムキキン肉マンになったところで、武術的な力にはならない」
「先生より、ワシの方が力はありそうやけどなあ。腕相撲やったら、ワシに勝たれへんやろ」
「じゃあ、試してみるか?」
これは面白いことになったと、子供たちは喜ぶ。
「おもろそうやん。先生、テツをぎゃふんといわしたってや!」
「晶! 父親を応援せんかい!」
庵天先生とテツがキャンプ場のテーブルを挟んで向かい合い、手を組んだ。
「レディー、ゴー!」
美鈴の号令で、テツが、ガッと力を籠める。
庵天先生は涼しい顔で、ニヤニヤ笑っている。
「テツさんよ、遠慮はいらない。全力でやってくださいよ」
「フンヌー!!」
テツが、顔を真っ赤にして、歯を食いしばり、鼻息を荒げる。
「それじゃあ、さっきやった撇身捶」
庵天先生が、フッと右腕を巻き込むと、テツはテーブルにつけた肘を軸に、体ごと一回転した。
庵天先生は、ほいっとテツを引き起こす。
「なんでや?? 力が入らへんようになった!」
「そう。それが太極拳だ」
「インチキやんけ!」
「まあ、武術はそんなもんだ。正々堂々力比べなら、俺がテッちゃんに勝てるわけがない。筋肉量が違うんだから」
「…むむむ、力の使い方ってわけか…」
「まあ、そうともいえる」
「ほんだら駆けっこやったらどうや! 100メートル競走や」
晶がケタケタ笑う。
「駆けっこて…。テツ、お母はんに負けて、それがキッカケで結婚したんやろ。おばあはんに聞いてるで」
「じゃかあしい! 昔の話や。先生よりワシの方がだいぶ若い。まけへんで」
湖岸の波打ち際の砂浜に、両者裸足で並ぶ。およそ100メートル先の流木がゴールだ。
テツがクラウチングスタートの体勢になり、庵天先生は突っ立ったままだ。
美鈴が号令をかける。
「よーい。ドン!」
砂を蹴ってテツが飛び出した。
前傾姿勢で弾丸のように、進んでいく。
上々のスタート!
ところが、テツが顔を上げ、姿勢を起こして見たものは、庵天先生の背中だった。棒立ちのまま、大股で歩くように滑るように進んでいる。
半分を過ぎたあたりから、テツの手足がばらつき始めたが、庵天先生は全くブレない。差がますます開く。
「ゴール!」
テツは、ゼイゼイハアハアいいながらゴールに飛び込んだが、庵天先生は息も乱れていない。
「ははは。裸足で走るのも、気持ちいいもんだ」
「ぐぬぬ、なんでや…。ええスタート切ったと思たのに…」
「これもまあ、体の使い方だな」
「ハーハー、次は相撲じゃ。ワシは子供相撲で横綱やったんじゃ」
「子供相撲って…、ますます勝ち目ないやん」
「こうなったら意地じゃ。とことん試したる」
拳二と太児が砂に土俵を描き、庵天先生とテツが向かい合った。
美鈴が号令をかける。
「見合って、見合って~、八卦良い!」
テツのぶちかましが、庵天先生にドーンとぶつかった。庵天先生は片足を少し引いたが、まっすぐな姿勢になり、テツを受け止めている。
「うおお~」
「のこーったのこーった!」と美鈴が力づける。
しかし、懸命に押そうとするたびに、テツの足は砂を掻きだすばかりで前に進まない。
庵天先生は直立したままだ。脚が砂に潜っていくように見える。
「もういいかな? 行きまっせ~」
そういって庵天先生は、片足をゆっくり上げ、半歩前に進んだ。
前に進めた足の裏が地面に着くと同時に、テツの体は土俵の外までゴロゴロと転がった。
砂まみれになったテツが、尋ねた。
「どういうことや。なんぼ力を入れようにも、力が入れへん…」
「そう。太極拳は、相手に力を出させない形を作るんだ。相手が力を出せないんだから、力に対抗する力は不要だ。相手の力に、がっつり対抗するような、雑で大きい力に対して、正しい形を作るための精密な力を、勁(けい)と呼んでいる。糸が螺旋状に巻くような筋肉の働きなので、糸が纏(まと)う勁と書いて、纏絲勁(てんしけい)というんだ。纏絲勁を養う訓練が、さっきやっていた基本功ってわけだ」
テツはぽかんとしている。
庵天先生がにっこり笑って言った。
「わかるかなあ~。わかんねえだろうなあ~。こういうのは体で感じるしかないんだよなあ」
「先生、最後にもうひとつ試してええか?」
「なんでもどうぞ」
いうなりテツは、砂を庵天先生の顔めがけてぶちまけ、同時に拳を振りかぶって、庵天先生に殴りかかった。
砂は庵天先生のいた場所を正確に通り過ぎたが、庵天先生は身を低くしてかわしていた。右掌を目の高さに上げて、砂を防いでいる。
テツの渾身の右拳は、庵天先生の頭の上をかすめ、勢い余ったテツが、庵天先生の肩の上にのしかかる形になった。
テツは止まらず、右膝を上げつつ、右肘を引き戻す。膝蹴りと、後頭部への肘打ちの同時攻撃だ。
あっ、(先生が)やられた! と拳二は思った。
あっ、(テツが)あぶない! と太児は思った。
あっ、(先生)手加減して! と晶は思った。
あっ、八卦よい! と美鈴は思った。
庵天先生は、斜めに傾けていた体を起こしつつ、目の前に上げていた右掌を、テツの肩口に広げる。上げてきたテツの右膝の内側には、軽く指を丸めた左掌が添えられている。 これで肘打ちも膝蹴りも勢いを殺された。
そして、庵天先生が、大きくなった。
足を広げ、すっくとまっすぐに立ち上がり、のびやかに広がった右掌と左鈎手。
単鞭だ。
テツは、クルクルと空中で二回転して、どさっと砂浜に落ちた。
「これか…。こないだ倉庫の中で見たのんは…」
「あのとおりじゃないけどな。まあ、原理は同じだ」
テツは砂浜に座りなおして、庵天先生を見上げていった。
「先生、参った。太極拳はすごい」
「テッちゃんの喧嘩殺法も大したもんだ。普通ならやられてるだろうよ」
「いや、ワシのんは自己流や。せいぜいそこらのチンピラ相手がええとこや。秘密組織のスパイやらなんやらに通用するもんとちゃうかったわ…」
「まあ、ここにいる間だけでも、やってみたらいいよ。健康にもいいし」
庵天先生もテツも砂をはたいて、一同、麦茶タイムとなった。
第二十九話 庵天、倉庫の秘密を明かし、侠眼が珠を憂うこと
麦茶を飲みながら庵天先生が、なんとなくオドオドしながら、声を出した。
「ところでお前たち、倉庫の出来事は覚えているのか…?」
太児と拳二は顔を見合わせて、それからまっすぐに庵天先生の目を見ながら、太児が口を開いた。
「思い出したよ…。大変な夜だった」
「うん、思い出したら、ドキドキする…」と拳二。
美鈴が叫ぶ。
「やっぱり何か隠してたわね!」
晶がぴしゃりと言った。
「うちら死ぬところを助けてもろたんや」
テツが叫ぶ。
「なに~! 渦巻映画村にいっとったんけ!」
三人が叫んだ。
「ちがう! そうじゃない!」
晶が言った。
「テツ! まだらボケには早いんとちゃうか? うちらがヤバい組織におびき出されて、殺されかけた時に先生に助けてもらった話や」
「ああ、その節はえらい世話になったなあ。ホンマに死んどったかもしれん」
テツが頭を下げる。
美鈴が言った。
「何があったのよ。私だけ仲間外れなんてひどいわ」
「本当に忘れてたんだよ」と拳二。
庵天先生が割って入った。
「記憶喪失の催眠術をかけておいたからな。責めてやらないでくれ。どうも催眠術の効き目が悪くて思い出したようだ。どこまで思い出した?」
「先生と奥さんが実は秘密組織のエージェントで、悪者をやっつけて、葬り去ったところまで全部だよ。悪者たちを、細切れにして証拠隠滅したんだよね」
「あちゃー。あれは冗談だ。しかるべき機関に搬送した。もちろん全員生きている。お前たちが秘密を知って、国際的な陰謀に巻き込まれないようにと隠していたんだが、そうもいくまい。ある程度話しておこう。美鈴ちゃんも、いっしょに馬に乗った仲だ。聞いておいてくれ」
庵天先生が語った。
陳家溝で修行して帰国した後、国際的な情報組織からスカウトされて、協力することになったこと。
特殊工作員として危険な任務をいくつもこなしてきたこと。
諜報員養成所で教官となったこと。
妻の春子は養成所の教え子だったこと。
それでいまだに先生と呼んでいること。
そして今、世界征服をもくろむ組織が、日本やその他の国々に静かに侵略して、平和を脅かしていることなど…。
「中国でも日本でも、よそ者扱いだった俺が、エージェントの仕事をすることで、居場所を見つけた感じだった。世界平和のために貢献する喜びを感じていたんだ。ただ、もう年だからな。このところは一線を退いて、後方支援に徹していた。太児に出会って、これからの人生は、武術を後世に伝える方で頑張りたいと思ったんだ」
あまりに壮大な話に、一同が絶句した。まさか現代の日本にそんな世界があったなんて。
「わかっていると思うが、口外無用だ。うっかり敵の組織の耳に入ったら、何をどう仕掛けられてくるかわかったもんじゃない。至る所に監視カメラや盗聴器が仕込まれている時代だからな。ここは安全だと確認できているから、話したんだ。家族にも話すなよ」
「そ、そ、そんな…。まるでマンガみたいな話…」と美鈴。
「うむ。いずれマンガ化したいと思うが、今のところ小説だ」と庵天先生が謎の言葉をつぶやく。
太児は、自分はお父さんに隠し通せるだろうかと、不安になった。
「今日の練習はお終い! また来週やるぞ。しっかり練習しておけよ」
包拳礼で挨拶をして、解散。
帰ろうとした庵天先生に、声を掛けてきた男がいた。
「庵天先生、ご無沙汰ですね」
「ん、誰だ?」
「あ、お父さん」
「あっ、太児のお父さんか。どうもお世話になっております…じゃなくて、太児君が太極拳を習いに来てくれて、楽しくやってます」
「どうもご挨拶が遅くなりまして…。太児、父さんは先生にご挨拶と、ちょっとお話があるので、先に帰っておいで」
「あ、う、うん。じゃあ帰っているね…」
庵天先生が自宅アパートに、お父さんを誘い、歩きながら話した。
「侠眼…こと柔侠太郎くん。夜の倉庫にいたのは君だな」
「やっぱりわかりましたか…」
「まさか君が、太児の父親だったとはなあ」
「いつからご存じだったのですか」
「太児に出会ったときに調べたよ。本人を見込んで、珠を託したんだが、君の子だったんでびっくりした。といって、こちらから迂闊に連絡を取るのもどうかと思ってな」
「そうでしたか…。先生には、親子ともども命を助けていただきましたね」
「君は、上海の失敗から始まって、何度か助けたなあ。シンガポールのアルカイダテロの時はマジで俺もヤバかった…」
侠太郎は深々と頭を下げた。
「今回は、いざとなったら君が動くつもりだったんだろう?」
「心配になってこっそりついていったんですが、まさか先生の技を見られるとは、思ってもいませんでしたよ。あいかわらず凄まじい」
「いや、もう老頭児(ロートル)だよ。君はあの後、「連環」は抜けたのか?」
「いちおう一般人に戻ったていですが、いまでも環の中にいますよ」
「そうだったのか。俺も組織の人員のことは知らないからなあ。…また君の出番が来るかもしれんよ」
「といいますと?」
「陳家溝に伝わる七珠伝承が現実味を帯びてきた。それを、C国政府が狙っているようだ…。その中心になるのは、おそらく太児に託した無記の珠だ。いま世界の混沌のど真ん中にいるのが太児ってことになるかもしれない」
侠太郎が「ええッ」という顔をする。
「俺の推測だが…七珠は、ただの象徴じゃない。七珠は戦乱と秩序の交差点に現れるんだ。マフィアの抗争、共産党の弾圧、革命、戦争など…。歴史の陰に、珠が関わっている…んじゃないかなあ」
庵天先生が自信なさそうに言った。
「そして、珠には過去と現代を行ったり来たりする力がある。もしかすると、未来も…。太児に渡ったのをキッカケに、珠が活動を再開させたのかもしれん」
アパートに着いた。
「お久しぶりです。白蓮…こと春子さん」
「侠眼! 倉庫にいたのはあなただったのね」
「なんとも、ひょんなご縁で」
「私と同期だったわね。あなたは優秀なエージェントだったわ。前線から退いちゃったのね」
「あのおかげで、今の人生が手に入りました」
「そう…。その方が幸せよね。私たちには子供もいないし…」
少し寂しそうに春子が言った。
庵天先生が言う。
「まあ、今は太児達が俺たちの子供みたいなもんだ」
「そうね…。あの子たちと話すのは楽しいわ。奥さんとはどこで?」
「妻と結婚したのは、連環を離れて一般人になってからです。私の裏の仕事のことは知りません。いい妻です。音大卒でピアノが上手ですよ。私はジャズマニアだったのですが、クラシック好きになりました。太児もピアノが上手です」
「うん。文化祭の時に聞かせてもらった。音楽の才能もあるなあ。文武両道だ。君は剣術がピカイチだったな」
「太児は剣道は苦手でしたが、太極拳が性に合ったようですね。不思議なものです」
庵天先生が、冷蔵庫から缶ビールを、金庫から布袋を取り出して、侠太郎に見せた。
「ま…ビールでも飲みながら…。さて、これが連中が狙っていた「義」の珠だ。晶ちゃんの父親が、たまたまチンピラから取り上げたらしい。なんで、そこらのチンピラが持っていたのかも謎だ」
「どこからか盗まれて流れたのかもしれませんね。出所を調べる必要がありそうです」
「伝説通りなら、他にまだ5つもあることになる」
「『勇』は共産党が管理しているという情報があります。陳発科から長男の陳照旭に託されたものが、革命時に押収されたとか」
「陳照旭が射殺された時だな。さぞかし無念だったろうな。陳発科は誰から託されたのだろう? 伝承と一緒に受け継がれたのだろうか?」
「そのような文献はないし、謎ですね。そもそも7つの珠の存在自体、怪しいですしねえ」
「俺が太児に託した珠も、そのうちの一つだと思っているんだが…。どう思う?」
庵天先生が、机の上に小さな木袋を置いたまま、腕を組んで目を閉じた。
「無記の珠…。記されず、定められず。空(くう)を象徴しているのかもしれん」
侠太郎がうなずいた。
「空ですか。仏教的ですね。」
「仏教だと色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。太極拳の極意は、無極から太極だ。無記の珠は、他の珠を導くのかもしれない」
「導く…?」
「そう。無記の珠が中心となり、珠が集まり混じり合う。まるで太極図のようにな。太児が持っているということは、彼自身が秩序と混沌の均衡点なのかもしれん」
侠太郎がしばし沈黙した。
窓の外では、秋の虫の声がかすかに響いていた。
「……先生。もし、太児が中心だとすれば、あの子を守らねばなりませんね」
「ああ。だが守るだけではダメだ。あの子自身が、源に立たないとな。手を出しすぎると、かえって環が乱れる」
庵天先生は、静かに笑って言った。
「…とはいっても、まだ小学生だ。我々が守らねば。…あのころの君は短気だったが、今はすっかり父親の顔だな」
「ええ。でも、父親の顔の下には、まだ剣士がいるつもりです。もし太児が巻き込まれるなら、私も動きます」
「もちろん、俺も動くよ。連環も動くだろう。珠と世界が連動していくだろうからな」
春子が、湯掻いた枝豆の皿をちゃぶ台に置いて、言った。
「太児君には、ちゃんと普通の明日を生きてほしいわ」
庵天先生が、静かに答えた。
「そうだな。普通の日常の中にこそ、武の心が宿る」
しばらく三人で話し、ビールも飲み干し、侠太郎は、深く一礼した。
「先生。ありがとうございました。今後もご指導お願いします。私は父親として、見守っていきます」
「ああ。俺たちの役目は、陰から世を支え、次の世代を照らすことだ…」
第三十話 太児、湖畔にて修行し 太極の足法を学ぶこと
「太児のパパと、庵天先生は知り合いだったの?」と美鈴が聞く。
「若い時にお世話になったって言ってた」と太児は答えるものの、なんとなく納得いかない。
「じゃあ、太児のパパも太極拳を習ったんじゃないか?」と拳二。
「ううん。お父さんは剣道部で、太極拳はあまり知らないように言ってたけどなあ」と答えつつ、そうかもしれないと思う。
「なんか、秘密があるんとちゃうか?」と晶。目をキラキラさせている。
「ところで、晶ちゃんのパパは、今日は来ないの?」と美鈴。
「仕事が見つかったんやて。神社の祭りのテキ屋や。こっちで仲良くなったおっちゃんの店を手伝うらしいわ。喧嘩せえへんかったらええけどな」
「晶ちゃんは行かなくていいの?」と不安そうに太児が聞く。
「テツが頼んできたら、手伝ってやらんこともないけどな。まあ自分で何とかするやろ」
日曜日、湖畔のキャンプ場にきている。
連休なので、テントを張って合宿だ。
盛り上がっているところに、庵天先生がやってきた。
「やあ、おはよう。今日はテツさんは休みか」
「祭りやから、神社でテキ屋やってるわ」
「ははは。似合ってるな。練習の後からでも、いってみようか」
「やったー! 俺、射的やりたい」「金魚すくい!」「型抜き!」「ウナギ釣り!」
みんな口々にやりたいものを言う。
聞きながら、庵天先生が笑った。
「いいねえ。技術を要するものばかりだ。くじ引きだとか、スマートボールより、センスがある。だけど、金は出さんぞ」
「そうか…先生にとっては大金だよね…」
「そうかあ、無職だもんね」
「お祭りなんかに使ったら、食べるのに困っちゃうよね…」
「いや、そこまででもないが…」
「月謝も払ってないのに、たかるのは良くないよな」
「ほんとよね。タダで教えてもらってるんだから、お祭りくらいご招待すべきよね」
「ヤキソバとか、おでんとか、お腹の足しになるところがいいよね」
「そういう話でもないんだが…」
「そうだよ。お金はお小遣いから出そうよ」
「お小遣いなんてもらってないけど」
「自分の親にせびろうね」
「うちは、テツが儲けてる分から出させるわ。うちが面倒見たってるんやから、当然や」
「…」
庵天先生が威厳を取り戻そうと、張り切った声を上げた。
「さて、気を取り直して練習を始めよう。前回までのところで、なにかわからないことはなかったか?」
拳二が手を上げた。
「太極拳に蹴りはないの?」
「前回までのところって言ったろ…。まあいい、蹴りについて今日は教えてやろう」
「蹴りも一応あるんだね」
「一応じゃない。太極拳の蹴りは、実に多彩だ」
「少林寺拳法より? 前蹴り、横蹴り、回し蹴り、飛び蹴り、後ろ回し蹴り、ローリングソバットとか、いっぱいあるよ」
「後ろの方は少林寺拳法のじゃないだろう…」
庵天先生が、拳二と向かい合い、右手を差し出した。拳二も右手を上げ、手の甲同士を合わせる。搭手の形だ。
右足を前に出して立っている拳二に向かって、庵天先生は左足を出した。拳二の足に被せるように交差させ、太腿(ふともも)同士が触れ合っている。
「この近い間合いが太極拳の間合いだ。ここから蹴りを出してみな」
拳二は右足を出そうとするが、庵天先生の足に封じられているので、上げられない。後ろの左足で蹴ろうとするが、上げようとするとバランスを変えられ、動かすことができない。
思い切って体重を後ろに下げ、前足で蹴り上げようとした途端、庵天先生の膝が向きを変え、拳二はバランスを失った。拳二の右足の太ももを、庵天先生の左足が掬い上げる形になっている。
「おっとっと…」
バランスを失い、よろよろしている拳二の軸足を、庵天先生が軽く足で押し込んだ。
拳二はボテッと尻もちだ。
「これが太極拳の足技だ」
「何かよくわからなかったよ」
「動きが小さくて地味」
「そんなの套路の型にあったっけ?」
庵天先生が説明をする。
「太極拳の歩く動作と、蹴る動作は同じだと考えるといい。套路では、大きく動かして練習するが、実際に使う時は、相手の目に触れないところでコンパクトに足を使う。歩いている足が、たまたま当たったり引っかかったり、ってかんじだな。套路の形と見た感じは違ってくるが、やってる感覚は同じだ」
「あまりカッコよくないな…」と拳二。
「見栄えより実用性だ」と庵天先生。
「花より団子っちゅうことやな」と晶。
「反則技じゃない?」と美鈴。
「武術に反則なんてない」と庵天先生。
太児は、いつか見に行った武術大会を思い出した。東山先生が言っていた花火拳ではない、本物の武術とは、こういうもんなんだ…。
庵天先生が、太極拳の蹴りを一通りやって見せた。
「これが蹬脚。歩くのと同じだろ。高くも低くも使える。擦脚は、擦り上げるように使える。外側に開くのが擺脚(はいきゃく)。高く振り上げても、地面を引っ掻くようにしても、擺脚だ。内側に巻き込むのは扣脚(こうきゃく)。相手の足を巻き込んで倒したりできる。里合腿や旋風脚といった名前がついている。伏せるようにして、地面スレスレにやるのは、ジャッキーチェンの映画でおなじみの掃腿だ」
「回し蹴りはないんだね」
「体を倒し込むような蹴りは使わない。至近距離で、抱き合うような間合いだからな。傾いたら投げられてしまう。太極拳はいつもまっすぐ立つんだ」
「位牌のように、だね」
「そうだ。位牌なんて、今どきの子にしては、よく知っていたな」
位牌大王とよばれた陳長興老師の話を、太児は思い出した。
「二人一組になって、色々試してみな。感覚を知ることが大事だ」
キャッキャと笑いながら、足を掛け合う晶と美鈴。
力が入ってズッコケる拳二、空振りしてあらぬ方向を見る太児。
楽しい時間が過ぎていった。
第三十一話 拳二、射的に敗れ、太児が堅実に取ること
夕暮れが湖面を朱に染め、やがて暗くなる。
太児たちは庵天先生と、神社の祭りに出かけた。
本殿がライトアップされ、屋台の明かりが並ぶ。焼きイカの匂い、綿菓子の甘い香り、発電機のうなり、太鼓の音に子供の声、屋台の呼び込み、賑やかさが広がっている。おでん屋では、法被を着たおじさんたちが、いい感じで赤くなっている。
「うわー、にぎやかだな!」と拳二が声を上げる。
「テツ、どこにおるんやろ」と晶がきょろきょろと辺りを見回していたら、「らっしゃーい!!」と、テツのデカい声が聞こえてきた。
鳥居のそばに、「射的」と書かれた赤い提灯がぶら下がったテントがあり、奥に鉢巻きを締めたテツが見えた。
テツは、声を張り上げながら、射的台と景品を並べた棚の間で行ったり来たりしている。
「お、晶か! お前らも来たんか! 撃っていけや! 6発500円、実弾は禁止やで!」
「俺、射的やりたい!」
拳二が目を爛々と輝かせる。
「勝負するか?」と庵天先生。
「いいの!?」
「ただし、自分の分は自分で払えよ」
「やっぱり…」
庵天先生と拳二が、まず射的台の前に立った。
テツがコルク弾の入った皿を、射的台に並べていく。
「やり方わかってんな! まずレバーを引いて、コルクを筒の先にしっかり詰めて、よう狙って、引き金を引くんや。指詰めんなや! 景品は倒れただけやったらあかん。台から落ちてゲットや。真ん中当てても倒れへんで! 角っこ狙えよ! ちなみにワシに当てたら、罰金やからな!」
拳二が、銃を片手で持ち、腕を伸ばして、片目をつぶり、体を倒し込んで、筒の先を目いっぱい的に近づけて、撃つ。
パン!と飛び出したコルク弾は、景品の上を通り過ぎて、むなしく壁に当たった。
「くっそー! こんなに近づけたのに」
「そんなデタラメな構えじゃ、当たるもんも当たらん」
そういって庵天先生が、ガチャッとレバーを引き、コルク弾を詰め、銃を構えた。
「太極拳は何にでも応用できる。虚霊頂勁、上下相随、三尖相照…」
そういいながら、足を広げ、銃の尻を肩に当て、顔の前に銃を構えた。
「ちゃんと照準器がついているだろう。先っちょのぽっちりと切り欠きを合わせるんだ。顔を傾けないで、両眼で見る。力は入れず、引き金を引くだけだ」
パン!
細長いボンタンアメの箱が、くるっと回って、台から落ちた。
ガチャッ、パン!
プリッツの箱が倒れて落ちた。
ガチャッ、パン!
積み重なったフーセンガムの箱が、バラバラと落ちていった。
ガチャ、パン! ガチャ、パン! ガチャ、パン!
ペコちゃんミルキーキャンディーは、当たっても倒れなかったが、3発で台の端っこまでズリズリズリと追いやられ、落ちていった。
「まあ、こんなもんだ」
拳二がポカンとしている。
「先生、大人げないなあ。こんな子供の遊びで…」とテツがあきれている。
「そうか…」と拳二は、銃を構えなおして、慎重に撃った。コルク弾は、やはり的の上を飛び越していく。
「ズレは、調整して狙えばいい」と庵天先生。
「そうか、少し下を狙えばいいんだな」
拳二は唇をかみ、照準をやや下に向け、3発目を撃った。
的の下を潜り抜けた。
「うーん、ちょっと下過ぎたか…」
4発目。
パン! とチョコボールの箱に当たり、箱はパタンと倒れた。
「当たった!」
「台から落ちへんかったらアカン」とテツ。
「くそう!」
ポン! 5発目はコアラのマーチの箱に当たったが、跳ね返され、全然動いていない。
「うう、ラストワン! ひとつくらいゲットせねば、気が済まぬ!」
拳二は、当たればすぐに倒れて落っこちそうなラムネの細長い筒を慎重に狙った。
スカッ。
あああっ! と拳二は天を仰いだ。
「力が入りすぎなんだよ。リラックスしないとなあ」と庵天先生。
次は太児だ。
太児は静かに構え、呼吸を整えた。庵天先生が後ろから助言する。
「頭は高く、重心を腹に落として、肩肘を下げて、引き金を引くんだ」
ポン!
見事にラムネを撃ち落とす。
「先生!アドバイスはペナルティやで! 2打罰や」
「うん? 二発多く打たせてくれるのか?」
「ちがうわい。2発引いて、あと3発!」
「悪いな、太児。弾を減らされてしまった」
「大丈夫、かえって集中できるよ」
ガシャッ、ポン、ガシャッ、ポン、ガシャッ、ポン。
都こんぶ、フーセンガム、ラムネを次々落としていった。
「堅実やなあ、太児は」と晶があきれたように言った。
「簡単なのばっかり狙うわね。男は冒険しないと」と美鈴。
次は女子二人だ。
「肘を台に乗せて狙うと安定するぞ」
庵天先生が言ってから、テツに振り向き
「まだエントリーしてないから、アドバイスはオッケーだ」と、にやりと笑う。
ふたりは、射撃台の前に立ち、腰を落とし、肘を台の上に載せ、銃を構えて、次々と撃ち、的に当てていった。
が、狙ったぬいぐるみは全然動かない。
「全然動かないじゃない!」
「インチキや、テツのイカサマ!」
拳二があきれていった。
「いや、無理でしょあれ、でかすぎるじゃん。見たらわかるだろ…」
テツが言った。
「ハイ、おしまい! まいどおおきに! また来たってやー!」
射的屋を後にして、太児が満足そうに言った。
「ああ、面白かった。たくさんゲットしたから、元取れたね!」
晶があきれたように答える。
「そんなわけないやろ。仕入れ原価なんてしれとる。ええカモやで。まあ、わかってても楽しめるのが、祭りのええとこやけどな」
湖面に映る提灯が、ゆらゆらと揺れながら夜は更けていく。
第三十二話 庵天、刀を持ち出し、林檎が二つに割れること
祭りの喧騒が遠のき、境内には提灯の明かりが目立つようになった。
屋台の片付けをしていたテツに、庵天先生が声をかけた。
「テッちゃん…うまくやってるな」
「食うために、何でもやるだけやで。ワシ難しいことはでけへんからな」
「いや、商売に簡単なもんもないだろう。俺にはできんよ」
「先生、まだ帰らんのか?」
「余韻に浸っている。祭りというのは、終わりの静けさがいいな」
「アフター・ザ・カーニバル、後の祭りっちゅうわけやな。ワシもこの時間は好きやな」
テツは少し黙ってから、先生を見た。
「先生、前に会うたこと、おましたかな?」
「倉庫で会ったじゃないか」
「いや、もっと前に」
「…いや? どうして?」
「なんとなく、会った気がすんのや。昔、港で密輸の売人と揉めた時に、先生みたいな人が止めに入ったことがあったんや」
「密輸? 心当たりがないでもないな…」
「麻薬がらみや。あれもC国マフィアやったと思うで」
「なんでそんなところにいたんだ?」
「ワシ、昔、港町の何でも屋やったんや。荷運びから始まって、あっちの筋の連中とも顔を合わせることがあった」
テツが淡々と語る。
「何でも屋っちゅうても、シャブなんか許したらあかん思っとってな。シャブを見つけて、売人ともども海に投げ捨てたろと、放り込もうとしたところを止められたんや」
「なるほどな」
「あやうく人殺すとこやったわ。あの日、止めに入った人の声、今でも耳に残っとるんや」
「…それが、俺の声に似てると?」
「似とる、っちゅうか…同じに聞こえる」
「まあ、俺だったかもな」
庵天先生がぽつりと言った。
「子供ら、みな熱心にやっとるな。先生みたいになりたいんやろな」
「男の子は、強くなりたいって気持ちに正直だ」
「晶も、強くなりたい言うてたわ。あいつ、すぐ手ぇ出すから危険やで」
「それも悪くない。犠牲者になるよりよっぽど健全だ」
テツはしばらく黙り、夜空を見上げた。
「やっぱり初めて会った気がせえへんのやなあ」
「縁とは、そういうものだろう」
二人は軽く笑い合い、夜風が静かに吹き抜けた。
その向こうでは、太児たちがりんご飴やら綿菓子やらの食べ歩きをしている。
月が高い。焼きトウモロコシの香りの向こうに、夜露の匂いがする。
「…縁とは、そういうものだ…」
ふたりの話し声を聞いて、父さんと庵天先生の縁も、こういうものだったのだろうか…と、太児は思った。
太鼓の音がいつの間にかしなくなっていた。
太児は立ち止まり、星空を見上げた。
翌朝の湖畔は、薄い霧が静かに漂っていた。
鳥の声だけが澄んで響き、風もない。
太児はひとり、少し早めに練習場へ来て、砂の上で歩法を繰り返していた。
「早いな、太児」
振り返ると、庵天先生がゴルフバッグのような袋を肩にかけて立っていた。
「おはようございます」
「おはよう。昨日はよく寝られたか?」
「…うん。遊び疲れたかも」
先生はいつもの穏やかな笑みを浮かべている。
やがて拳二と晶、美鈴が集まり、準備体操が始まる。
「先生、今日は何やるん?」
「今日は刀をやろう」
庵天先生がバッグを開けると、木刀が何本も入っていた。
机の上に並べられた木刀を見て、太児は驚いた。
剣道用で使う木刀もある。ただし、ちょっと短い。
柄が逆ぞりになっているものもある。
カンフー映画でおなじみの幅の広い刀もある。銀色にピカピカ光っていて、柄の先には、赤と緑のハンカチがついている。
「これ、本物!?」
「まさか。そんなもんを持ち歩いたら銃刀法違反で捕まっちまう。表演用のステンレス刀だ。派手な音が鳴って、カッコいいぞ」
先生が軽く突くと、刀身がしなって「シャキーン!」と澄んだ音が響いた。
「おおーっ! シャキーンって鳴った!」
拳二が目を輝かせた。
「映画みたいでカッコいいだろう。だが、これは鳴るように作ってあってな、軽く、薄く、柔らかいんだ。実際の戦闘で使えるようなもんじゃない。練習は木刀でする。本物の刀に比べると軽いが、お前たちにはちょうどいいだろう」
「でも、まだ、套路を全部やってないのに刀を覚えるの?」
「覚えるのはボチボチでいい。それより、刀で切る感覚を掴んでもらいたいんだ。太極拳の動作は、斬る感覚がないと良くわからない。拳術は、もともと武器を使うところから始まっているからな」
「えーっ、そうなの?」
「そうだ。農村の百姓が盗賊から身を守るための武術なんだから、いきなり素手で戦おうってはならない。鍬でも斧でも鉈でも鎌でも包丁でも、なんでも武器にしたろうよ。鉄砲があれば当然使っただろう。とりあえず、刀は一番使いやすい武器だ」
「前に大会で剣の舞を見たけど、違うの?」
「剣は、まっすぐで、両方が刃になっているものだ。扱いはけっこう難しい。優雅に見えるんで表演大会では人気だが、最初に練習するんなら、刀の方がいい。太極拳の型と同じ動きも多いからな。剣はベテラン向きだ。ま、リンゴ一つ切れなくったって、表演には出れるけどな」
そういって、庵天先生はリュックサックからリンゴを取り出した。
「お前たち、家で包丁を使ってるか?」
いや…という顔で、お互いを見る太児、拳二、美鈴。
晶がドヤ顔で言った。
「うちは、ホルモンでも、豚骨でも、キャベツでもバンバン切ってるで!」
「おお、いいねえ。晶ちゃんが一番上手かもな」
「木刀じゃ切れないから、こいつを使う」
庵天先生が中華包丁を取り出した。
「これも、銃刀法違反じゃ??」
「キャンプ場で料理に使う目的があるから大丈夫だ」
「そんなものなの…?」
「そんなものだ」
庵天先生が、まな板の上にリンゴを置いた
「どれ、このリンゴを切ってみな」
「私に任せて!」
トップバッターは、美鈴だった。
美鈴はおもむろに、左手でリンゴを持ち、右手に持った包丁で、皮を向き始めた。
「できるだけ細く、途中で切れないように最後まで剥くのよ」
「違う…そうじゃない…真っ二つにしてほしかったんだ…」
「ええーっ、上手く剥けてきているのに…」
「わかった、わかった、じゃあこのナイフで剝きな」
庵天先生が、果物ナイフをリュックから取り出し、美鈴の中華包丁と取り換えた。
「こっちの方が剥きやすいわ!」
「そりゃ、そうだろう…」
庵天先生は次のリンゴをまな板に載せた。
「真っ二つにするんだね」
次の挑戦者は太児。リンゴを左手で押さえ、包丁をリンゴに押し当て、前後に押したり引いたりする。
「ダーハッハッ!!」
拳二が大笑い。
「ノコギリじゃないんだからさあ。俺に任せろ!」
拳二が太児から包丁を取り上げると、大きく振りかぶった。
「うりゃー!」
ドン
中華包丁は、リンゴに斜めに刺さったが、リンゴは切れていない。包丁の角はまな板に刺さっている。
「あんたら、ほんまアカンタレやなあ。あっぶないし。そんなんできょうびの時代、生きていかれへんで」
晶が包丁を抜き、リンゴを置きなおした。
「こないすんねん、よう見とき」
晶は軽く包丁を振り上げ、トンと、リンゴの上から落とした。
リンゴはすっぱり左右に分かれた。包丁の刃はきれいにまな板に当たっている。
「おお、さすがだな、晶ちゃん。無駄な力が入っていない。道具の重みを活かした素晴らしい包丁さばきだ」
「ぐぬぬ…」と拳二。
「先生もやって見せてよ」と太児がリクエスト。
「そうだなあ。じゃあ、こんなかんじでどうだ」
庵天先生は、また次のリンゴを取り出して、ひょいと頭の高さに放り上げた。
落ちてくるところで、包丁を斜めに振り下ろしたが、リンゴは、何事もなく、すとんとまな板の上に落ちた。
「?」
「空振り?」
「カッコ悪…」
「まあ、つついてみろ」
太児が指でつついてみると、リンゴはパカッと二つに割れた。
「!」
「切れてる」
「カッコいい!」
長々とリンゴの皮をむいていた美鈴も手が止まっている。
「まあ、こんなもんだ。危ないからマネするなよ」
庵天先生は、二つになったリンゴを、さらに切り、美鈴がキレイに皮をむいたリンゴもカットして、爪楊枝をぷつぷつと刺した。
「1日1個のリンゴは医者を遠ざける、という英語のことわざがある。リンゴはビタミン豊富で消化もいい。朝飯に果物てのもいいもんだ。リンゴを食ったら練習しよう」
庵天先生の声が霧の中に溶けていった。
湖面の光がゆっくりと揺れ、子どもたちの影も、朝の光の中で揺れた。
第三十三話 庵天、太極刀を演じ、子らが水辺に遊ぶこと
庵天先生が切り分けたリンゴを、シャクシャクと、一同美味しくいただいた。
「とりあえず、刀の套路を見せる。なんとなくでいいから、イメージをつかんでみな」
庵天先生が、芝生の上にまっすぐ立った。
左手に持っている刀は刃先が上に向き、腕に載っている。
起勢。
普段練習している太極拳の套路と、始まりは同じだ。
両手が浮き上がり、左から右へと螺旋に動き、刀が振り下ろされ、右側の空間を切り裂いた。いつのまにか右手に持ち替わっている。
「これが抜刀」
刀を掻き上げ、左手を刀の峰に添えて構える。剣道の中段の構えに似ているが、小さくコンパクトな構えだ。
刃が左右に閃き、まっすぐ大きく突き込まれた。フェンシングの突きのようだ。
刀が頭の後ろで回転し、空間を上下に切り分ける。
飛び跳ねて背後の敵の心臓をえぐる鋭い突き。
周囲を回転するように大きく薙ぎ払い、草を刈るように、低くなる。
水平、垂直、刀は自由自在に動く。
刀で身を隠し、猿が飛び跳ねるかのように、左右に進む。
斜めに袈裟斬りの連続。高くなったり低くなったり目まぐるしい。水辺に舞い降りる鳥のようだ。
最後は力強く、一直線に一刀両断。刀を返してもとの左手に収まった。
時間にして1分もかからない。あっという間だ。
これまで練習してきた太極拳のゆっくりなイメージとからは、想像できない速さ。
「練習はゆっくりやるから安心してくれ。刀を持つ感覚を理解できれば、太極拳も変わる」
拳二が質問した。
「剣道とは全然違うんだね」
庵天先生がニヤッと笑って答える。
「現代の剣道とは全然違うようにみえるが、古い日本剣術と似ているところはあるぞ。陳氏では陰流(かげりゅう)の剣術を取り入れたと聞いたことがある。宮本武蔵の二天一流も研究されたそうだ。西洋のフェンシングや、アラビアの刀術も混じっている。支那事変の時は、陳氏の刀術は実際に日本軍と戦ったそうだからな。実戦的に作られているんだ」
一同、へええ…と驚いた顔をしている。
「刀は、経験の浅い兵士でも使いやすい武器なんだ。拳の技術も刀術からきているものは多い。刀をやらないことには、わからん動作がある。だから最初の武器は刀だ」
太児が聞いた。
「棍はどうなの?」
「棍は、ただの棒っきれだからな。手近にあって練習しやすい。刀がなければ棒で練習する。これは木刀だが、ただの棒でも練習はできる。棒は、剣だと思えば剣になるし、槍だと思えば槍だ。棍術は、それらの集大成だと言えるな。いろんな武器をやってからも練習しつづけるもんだ」
「へえ、棍ってすごいんだね」
「すごくもなるし、ショボくもなる。練習次第だ」
太児たちが木刀を一本ずつ持って、横に並んだ。
「剣道と違って、太極刀は片手で持つ。右手で鍔(つば)の際をしっかり握る」
庵天先生が見本を見せ、右の肩口から左下、左の肩口から右斜め下へと、ゆったり刀を振る。
「刃筋を意識して、切るつもりで振る。刀に振られるなよ」
4人はそれぞれ刀を振った。
「足は馬歩だ。土台がしっかりしていないと、ヨレヨレするぞ」
皆が真似を始める
拳二は力任せに振り下ろし、バランスを崩して尻もちをついた。
「うわっ!」
その拍子に木刀の先が砂を巻き上げ、美鈴の顔にパサッと砂が飛ぶ。
「ちょっとー!」
美鈴が目をこすりながら叫ぶ。
「力づくで振ると自分が危ない。焦るな。速く振ろうとするほど、体が遅くなるぞ
「だって、速く動かないと切れない気がして…」
「速さは結果だ。速くしようと思わなくていい」
庵天先生の木刀が描く軌跡に光が走る。
音はしないが、確かに切れたとわかる動きだった。
太児は息をのんだ。
「今の…風が切れたみたいだったよ」
「お、感じたな」
先生が笑う。
「敵を想像しなくていい。自分の動きを正しくするんだ」
拳二は、もう一度姿勢を正した。
美鈴も顔の砂を払って、勢いよく刀を振り下ろし、バランスを崩した。
「わっ!」
木刀の先が地面に当たって跳ね、太児の足元をかすめた
「うひゃっ!」と太児が飛び跳ねた。
「ごめん!太児、大丈夫?」
「うん、平気」
太児は笑って答えたが、心臓がドキドキしていた。
庵天先生は全員に言う。
「危なかったな。人がどんな動きをするのか予測するのは難しいが、いろんな可能性を考えて、自分の立ち位置を考えるといい。恐れることはないが、気を抜くと危ない。油断大敵だ」
切る練習の後は突く練習だ。
切るのは得意だった晶も、突くとなるとうまくいかない
「手だけで扱うんじゃない。全身を使うんだ。刀は体の一部、延長だ。手を放して飛ばすなよ」
拳二が質問した。
「敵のどこを切ったり突いたりするの?」
「使い方はまだ意識しなくていい。拳もそうだが、正しい形を体に覚え込ませれば、使い方なんて、その場その場で閃くようになる。イメージするとしたら、敵は案外近くにいるってことだな」
そう言って庵天先生が、刀を構えて拳二に歩み寄った。
「わあ、こんなに近いと、当たるじゃん」
「やってみな」
拳二が庵天先生を突こうとしたが、庵天先生の刀はスルスルと拳二の刀を滑り抜け、撫で上げ、拳二の首筋でピタッと止まった。
「こんなかんじだ」
「…怖え~」
「そうだなあ、刀と刀をひっつけて、隙間を見つけて相手を切るゲームをやってみよう。危ないからゆっくりやるんだぞ」
太児と拳二、晶と美鈴が組み、刀で押し合いへし合いを始める。
「おーい、刀なんだぞ。それじゃ自分を切ってるぞ」
強引に押そうとして、ひっくり返る拳二。ちょんちょんと恐る恐るの美鈴。
「なんだか推手に似てるね」と太児。
「そうだ。武器があろうとなかろうと、同じ感覚だってことに気づけば、上達は早い」
「これで、包丁振り回したら敵なしやな」
「それはやめとこうね、晶ちゃん…」
「あんたらも料理しいや」
「お母さんのお手伝いもする!」
賑やかで楽しい刀術の練習になった。
練習もひと段落。
水辺にしゃがんだ美鈴が、湖の水をすくって顔にかけた。
「気持ちいい!」
拳二は水を跳ね返し、晶が仕返しで桶いっぱいに水をすくってかける。
太児は笑いながらそれを見ていた
夕陽が湖面を金色に染め、木刀の影が長く伸びる
湖の向こうで、鳥の群れが一斉に飛び立った。
刀が空を切る音のようだった。
第三十四話 太児、戦場の夢を見て 武術の本義を知ること
夜、家の布団の中で、太児は考えていた。
武術の練習は楽しい。
だけど、刀は本来、人を殺すための道具だ。剣道では、そんなことを考えたことはなかった。
でも、庵天先生の刀術は、本当に人を斬ってしまうようなすごみがあった。
昔の戦争で、陳家の武術家が、日本軍と戦った話も聞いた。陳家にとって日本人は敵だったのだろうか?
太児がうとうととしたとき、珠が青白い光に包まれた。
馬が嘶いている。
夜明け前の薄暗い空。
埃っぽい風。
血の匂い。
ドカッドカッと馬が走る。
太児は馬にまたがっていた。甲冑をつけて、手には大きく反った細身の刀を持っている。
「えっ?? ここはどこ? 私は誰??」
太児の前にも馬が走っている。やはり甲冑をつけ、刀を持った兵士が乗っている。
「太児! ワシから離れるな! ついて来い!」
振り返った男は、いかつい顔で顎髭が長い男。
「だ、誰?」
「見覚えがあろうが!」
見覚えはなかったが、ニヤリと笑う声に聞き覚えがあった。
「陳王廷老師? 若い!?」
「前に言ったろうが…ワシは時を自在に操れるのじゃ」
「ここはいったい?」
「この時代、中華の世は乱れておる。戦乱が起きて、平和で豊かだった明も、もう終わりじゃ。万里の長城が破られて、蒙古から女真族が入ってきた。次の世は満州人が支配する清の時代になる。秘密結社が反清復明を唱え、血みどろの争いの世になるのじゃ。ドサクサ紛れに盗賊が横行しておるから、ワシは防衛隊長として温県全域を守っておる」
「なぜかぼく、刀を持ってるんですけど…」
「庵天から習ったろう。刀は猛虎の如く、剣は飛ぶ鳳凰の如く。虎だ! お前は虎になるのだ! ガオーーッ!!」
陳王廷の向かう先には、十人ほどの馬に乗った野蛮な感じの集団がいる。
彼らは陳王廷を見ると、恐怖に満ちた顔色で、弓に矢をつがえた。
ピュン、ピュン、ピュピュン
矢が次々と飛んでくる。
「ははは。なんじゃそりゃ、箸でも投げておるのか!」
陳王廷が刀を振るうと、飛んでくる矢が、スパスパと真っ二つになり、上下左右に分かれて散らばっていく。
「太児! ワシの真後ろにおれば、矢は当たらん。ついてまいれ!」
陳王廷はたちまち集団の中に突っ込んだ
太児は、陳王廷の後を必死でついていくと、前から飛沫が飛んでくる。
赤い。
血!?
後ろを振り返ると、次々と、盗賊たちは馬から落ちていくのが見えた。
「殺したの?」
「大丈夫じゃ。苦しんではおらん」
「…」
一群の間を通り抜けると、陳王廷は、馬の頭を返して、再び盗賊どもに向かい合った。まだ馬に乗っている盗賊の人数は、さっきの半分だ。
「どうじゃ、太児、奴らの相手をやってみるか?」
「ええーーっ、そんな、無理無理無理無理!!!!」
「ほい、ひとりきたぞ」
必死の形相の盗賊の一人が、猛スピードで、太児に向かって迫ってきた。頭上に大きく振りかぶった刀を、力任せに、太児の頭めがけて振り下ろす!
「太児、風巻残花(フォンジュアンツァンホア)だ!」
太児は思わず、刀を頭上に上げた。
振り下ろされた盗賊の刀は、すべるように後ろに流れた。
その勢いのまま、太児が刀を横に薙ぎ払う。
重い手応えがあった。
「太児、目を閉じるな。まだ来るぞ!」
すれ違いざま、盗賊はすぐに振り向く。盗賊は肩から血を流していたが、刀を左手に持ち替えた。
そして再び猛然と太児に突進し、左手に持った刀を太児に突きだした。
刺された! と思った瞬間、目の前をキラリと光った刃が下から上へと通り抜けた。
ドーンと音がして、盗賊の馬が倒れる。
「危なかったのう。太児」
陳王廷の馬が、盗賊の馬に体当たりしたのだ。
ザクッ。
刀が地面に刺さった。刀の柄は盗賊の左手が握ったままだ。太児の危機一髪のところで、陳王廷が、盗賊の腕をスッパリと切り落としたのだ。
「ああっ!!」と叫ぶ太児。
だが、盗賊の男は声も上げない。
残った盗賊どもは、観念したのか、遠ざかっていく。
逃げる盗賊どもに目をやりながら、陳王廷が言った。
「痛みは、瞬きする程度の間じゃ。首も一緒に刎ねたからな。苦しむ間もない。どちらかといえば、お前の斬りつけた肩の方が痛かったろうよ」
「こ、こ、殺したの?」
「殺さねば、殺されるからの。それが戦じゃ。生き延びるための術が武術じゃ」
「武術は生き延びるための術…」
「精神修養とか、健康増進とか、のちの時代になればいろんなオマケがつけ足されるじゃろうが、そもそも武術とはそんなもの。ゆめゆめ忘れるべからずじゃ」
太児は、気が遠くなるような気がした。
朝の光が障子を透かして、太児のまぶたを照らした。
鳥の声。
遠くで母の話し声。
夢だったのか――。
第三十五話 太児、人を斬りて悩み、父が戦の理を語ること
太児はしばらく起きられなかった。
人が死んだ!
殺してしまった!
いや、殺したのはぼくじゃない。
でも、人を斬った!
でも、じっとしていたら、斬られて死んでいたのはぼくだ!
でも、あれでよかったのか!?
ていうか、あれは夢だ。現実じゃない!
悪夢を振り払おうとしたが、右手が痺れている。
鼻の奥に血の匂いが残っている。
夢じゃない。
400年前の世界にタイムリープして、人を斬ったんだ…
太児は、布団から出てヨロヨロと立ち上がった。
「太児、朝ごはんよ。どうしたの、なんだか元気がないわよ」
「えっ、ううん。元気だよ」
「今日も練習に行くんでしょ」
「うん…どうしようかな…いや、いくよ」
「どうした太児、嫌な夢でも見たのかい?」
「ううん、なんでもないよ…」
人を斬ったなんて、言えない…
お父さんが読んでいる新聞には、いつも戦争のことが書いてある。
ロシア、ウクライナ、イスラエル、パレスチナ、イラン、アメリカ、中国、台湾などなど…
「お父さん、戦争になると人が死ぬのはしょうがないと思う?」
「なんだい、突然」
「戦争って殺し合いのことなのかなあ」
「うーん。経済戦争や情報戦争もあるけどね。武力行使になると死人が出るよ。軍人同士の戦いが国際ルールだが、最終的には民間人の殺戮になるな」
「戦争は悲惨ね。何があっても、してはいけないわ」とお母さんが言った。
「そりゃあな。平和的な話し合いで解決するのが一番だね。でも、攻撃されてるのに戦わなけりゃ一方的に殺されるだけだよ。」
「一方的に虐殺なんて大昔の話じゃない? 今の時代にそんなひどいことをする国はないでしょう?」
「そんなことはない。最近のロシアとウクライナの戦争でも、民間人が大勢殺されているよ。日本と仲良しのアメリカだって、前の戦争の時は、日本中を丸焼きにして、とどめに原爆を二発も落として、何百万人もの民間人を殺したんだ。戦争になったら正義も秩序も吹っ飛ぶよ。国際法なんて、あってないようなもんだ」
「そういえばそうね」
「自分を守るために敵を殺すのは仕方がない?」
「敵を殺さず、自分を守るに越したことはないけど、そんなミラクルは、圧倒的な力の差がなければ、難しいだろうね。たいていは、攻めてくる方が強いもんだ。抵抗したらどちらも死ぬ。抵抗しなければこっちだけが死ぬ」
「戦争で人を殺したらどうなるの?」
「軍人同士なら犯罪にならないけど、民間人を殺したら戦争犯罪だよ。裁判で裁かれる。でも、戦争中に警察が犯人を捕まえることもないからね。勝ったもんが正義さ。負けたら悪にされる。日本やドイツは負けたから悪になった。もしアメリカが負けていたら、アメリカはジェノサイド国家っていわれてただろうね」
「そうかあ…相手が軍人じゃなくて盗賊だったら?」
「平時は、強盗にも人権があるからなあ。正当防衛っていう権利もあるけど、殺したらやりすぎになる。でも、戦時下のドサクサの強盗は、どうなるんだろうなあ。お父さんにもよくわからないよ。軍人だか民間人だか強盗だかゲリラなんだかスパイなんだか、しっちゃかめっちゃかになっているだろうしね。前の戦争の時は、日本には治安維持のための特高警察ってあったけど、強盗じゃなくて、思想犯ばかり捕まえていたみたいだ」
「戦争のない世の中になってほしいわ」
「争いの種なんかいくらでもあるからね。世の中の全部の問題を、賢く、平和的に話し合って解決できればいいけど、こっちが話し合うつもりでも、拒否されれば、どうにもならないね。相手が弱いと見れば、力づくで奪おうって連中が世の中多いんだよ」
「強ければ、戦争にならない?」
「自分からケンカを仕掛けて痛い目に見たくないからね。強い国同士は戦争になりにくい。弱い方が襲われるのが世の常だ。弱い国は強い国に襲われないように、ペコペコしてないといけない。それでも、強い国の気分一つで、いつでも襲われるよ」
「弱いと襲われる…」
「国同士のいじめだね。学校だったら先生が止めてくれるかもしれないが、国を止められる人はいない。自分の国を強く鍛えて、襲われないように備えておくのが現実的だよ」
「そうか…強くならないといけないんだね…」
「どこの国より、圧倒的に強ければ襲われないよ。でも、徳のない政治家が、力と権力を持つと、今度は襲う側になるからねえ。はじめは理想に燃えたいい人だったのが、偉くなったら傍若無人になるなんて、珍しくもない。力と徳のバランスが難しいよ」
「トク?」
「バーゲンセールでお得の得じゃないよ。やさしさや、人を助ける気持ち、礼儀正しさ、信用などを大事にするってことさ。仁義礼智信の五常の徳なんていわれる」
「徳があれば戦争にならない?」
「そりゃわからないよ。こっちに徳があっても、あっちになければ争いになるしね。それに、自分には徳がある、相手に徳がないと罵り合うのも、よくある話だ」
「人殺しには徳がない?」
「さあなあ。戦争で手柄を立てた将軍にも、徳のある人はいるしなあ。なんともわからないね。そもそも徳があるとかないとかも、宇宙の真理じゃない。人間が言葉で作っている価値観さ」
「そうなんだあ」
太児は朝ご飯を食べかけていたが、気分が悪くなってきて、またベッドに戻った。
やがて、太児はまた青い光に包まれた。
第三十六話 陳王廷、逃亡兵を制し、村に平和戻ること
粗末な小屋の中に、太児は座っていた。
顎から長い白髭を垂らした老人が、土間に置かれた低い椅子に腰かけ、低い机に向かって筆を走らせている。
窓の扉は開けられ、部屋にはやわらかな光が差し込んでいた。外からはニワトリや羊の鳴き声、さらには川の流れる音まで聞こえてくる。
老人は、時折筆を置いて拳を握り、ゆっくりと空中に漂わせたり、ふいに立ち上がったりしていた。
「……陳王廷老師?」
「さよう」
「さっきは若かったのに、おじいさんになってる!?」
「時間を自由に操れると言ったじゃろう」
「何をしてるんですか?」
「拳譜を作っておる」
「ケンプ?」
「拳術のテキストじゃよ。口伝だけでは忘れ去られてしまうこともある。後世の修行者が参考にできるよう、わしが研究したことを書き残しておるのじゃ。続く者がまた磨いてくれればよい」
「今は平和なんですか?」
「まだ世の中が安定したとは言えんが、わしはもう引退した。武将になりはしたが、殺し合いは虚しい。ひどい時には部隊が壊滅し、一人で敵軍を相手にしたこともある。謀略に巻き込まれ、何度も死にかけた。五体満足で故郷に戻れたのは奇跡じゃ」
陳王廷が振り向いて、ニッコリ笑って言った。
「今は晴れた日は農耕に励み、雨の日は書を書いたり、村の子供たちに武術を教えたりして、穏やかに暮らしておる。争う気持ちもなくなったわい」
静かな時間が流れ、影が伸び、空は赤く染まりはじめていた。
そこへ突然、犬が激しく吠え、人の怒鳴り声が響いた。
「どうしたのかの?」
陳王廷と太児が外に出ると、村の入り口に鎧を着て武器を持った男が三人、怒声を上げていた。
村の老人が話し合おうとしているが、逆に罵声を浴び、槍や刀を振り上げられて脅されている。
「どうしたのじゃ」
「あっ、王廷老師。逃亡兵が入り込んだようで……武装したまま、食料や女を差し出せと要求しているんです」
「取り押さえりゃよいじゃろ」
「それが威勢のいい若い衆はみんな外へ出ていて、村長だけでは手こずりそうで……」
「ふむ。ならば、わしも行くか」
「お願いします」
陳王廷は、とことこと歩いて近づき、淡々と言った。
「お前たち、逃亡兵だな。武器をそこへ置け。食料ぐらい分けてやる。大人しく出ていけ」
逃亡兵の一人が怒鳴った。
「なんだと、この死にぞこないのジジイが! まずはお前から血祭りにしてやる!」
言うが早いか、男は陳王廷に向かって槍を突き出した。
しかし陳王廷は「やれやれ」とでも言いたげに、槍の先をふわりと撫でた。
途端に男は叫び声を上げ、すっ飛んで畑へと逆さまに落ちた。
「このジジイ、何を――!」
二人目の兵士が刀を振り上げる。
陳王廷は、振り下ろされた刃の下へすっと潜り込み、兵士の手首と肘を軽く撫でた。
次の瞬間、兵士は地面にぐしゃりとへばりついた。
予想外の出来事に、三人目は硬直して動けない。
陳王廷と目が合った瞬間、その場に崩れ落ちて気を失った。
「老師がいて助かったよ。まったく、相変わらずの達人ぶりじゃ」
村長が言い、周囲に声をかける。
「おーい、子供たち。この者どもをヒモで縛り上げて馬小屋に放り込んでおけ。気がついたら飯でも食わせてやれ」
わらわらと子供たちが現れ、手際よく兵士たちを縛って運んでいった。
「どうするね、村長」
「逃亡兵は見つかれば死刑じゃ。軍に突き返すか、武器を捨てて民間人として出ていくか、本人たちに選ばせよう」
「それがよかろう」
「しかし、ここが陳家溝とも知らずに押し入ってくるとは、間抜けなやつらじゃ」
「まあ、かえって命拾いしたかもしれんぞ」
「違いない、はっはっは」
「ははは」
太児は胸を打たれていた。これが「圧倒的な武力の差」というものなのか。
逃亡兵たちはおそらく誰一人ケガすらしていない。村にも被害はない。
村は今日も、平和な一日を終えようとしている。
第三十七話 太児、湖畔にて怪しき武人に会い 暗器のことを知ること
「太児、大丈夫?」
お母さんに声をかけられて、太児は目を覚ました。
起き上がって時計を見ると、ベッドに戻ってからまだ10分も経っていない。
「うん、だいじょうぶ」
さきほどは、頭がどんよりと重く、吐き気がしたように思ったが、今はスッキリしている。
食べかけていた朝ご飯も、まださめていない。続きを食べて、太児は湖の公園に出かけた。
波は穏やかだ。
太児は湖に向かって、ぼんやりと立った。
夢で見た陳王廷は、まさに徳を備えた人だった。
でも、戦場での陳王廷は、どのくらいの人を殺めてきたのだろう。
生きることと死ぬことは表裏一体、それは自分も相手も同じだ。生き延びれば人生は続き、徳のある人にもなれる。
死ねば、そこで終わりだ。
人生が、途中で、急に終わるって、どういうことなんだろう。
武術は、生き延びるための術…。最後まで生き抜くための術なのか…。
いつもの練習場所から、少し離れた、松の木の下に、見慣れない男がいるのを見つけた。
何か両手に持って小さく回している。
武術の練習?
浅黒い顔で、頭は丸坊主、ダボッとしたカーゴパンツを履き、足元はブーツだ。
ひゅっと腕を振ると、シャキンと小さく音が鳴り、棒が長くなった。
くるっと回すと、また小さくなり、手に隠れて見えなくなる。
「…なんだろう?? 手品??」
しかし、手品師にしてはいかついスタイルだ。
ぼんやり眺めていると、振り向いた男と目が合った。
男は太児に向かって、笑いかけた。いかつい顔だと思ったが、あんがい人懐こそうな目をしている。
「おじさん、何をしているんですか?」
「君は庵天の生徒だな?」
「えっ、先生の知り合いですか?」
「ここに来ればいるかと思ってやってきたが、姿が見えないな」
「さあ…来るかもしれないし、来ないかもしれないです」
「あいかわらず気ままだな」
「それは、なんですか」
「君は武器もやるのか?」
「えっ、まあ、刀を習っていますけど…。それは武器なんですか?」
「刀は、持ち歩けないじゃないか」
「えっ、本当に使うわけではないので…」
「使わないものを練習したってしょうがない」
太児は、自分も前までそう思っていたことを思い出した。刀は、使うために練習しているわけじゃないと言いたくなったが、自分は本当に人を斬ってしまった。
「棍も習ってるけど…その武器は、使えるんですか?」
「棒はいいよな。でもいつも持ち歩けるわけでもない。こいつは隠し持てる」
男が、ピュッと手を振ると、鉛色の棒が30センチほど伸びた。
「これは俺が自作した武器だ。警棒を改造した。名付けて、ステルストンファだ。持っているように見えなかっただろう。こういうのを暗器というんだ」
男がまた手を振ると、黒い小さなものが、松の木にサクッと刺さった。
男が手首を返すと、黒いとがったものが、戻ってきて、手のひらにすっぽり収まった。
「紐がついているんだ。忍者が使った苦無を参考に自作した。名付けて流星苦無だ」
「ええっ、忍術なんですか?」
「ヒロ式なんでも武器術だ。俺がネーミングした。ヒロってのは俺のコードネームだ。本当は空手家だけど。ヒロさんとでも呼んでくれ」
「ヒーローさん」
「おう、なんだ。ヒーローって呼んでくれるのか、嬉しいねえ」
「この武器で人を殺すんですか?」
「おおっ、物騒だなお前。…その気になったら殺せないこともないだろうが…。まあ、護身用だな。本来の暗器は、暗殺に使うもので、毒を塗って刺したりするんだが、そんなことはしないよ」
「隠し武器なんですね」
「そうだ」
「ぼくに見せたら隠している意味がないじゃないですか?」
「趣味だからな。人に見せて自慢してこその趣味だ」
ヒーローさんは、つかみどころのない変な人だなあと、太児は思った。
第三十八話 ヒロ、暗器を繰り出し、庵天がこれをいなすこと
「ヒロ…きてたのか」
低く落ち着いた声が、松林の奥から響いた。
太児とヒロが振り向くと、庵天先生が涼しい顔で立っていた。
「先生!」
太児はぱっと表情を明るくしたが、ヒロはニヤリと口元を上げた。
「よう、庵天。相変わらず気配を消すのがうまいな」
「別に消してないが…。ヒロ、また妙な武器を持ち歩いてるのか。俺の弟子に変なことを教えるなよ」
庵天先生はため息をつきながらも、どこか楽しげだ。
二人は、旧知の仲らしい。
「先生、ヒーローさん、暗器とか作ってて、すごいんだよ!」
太児が言うと、庵天先生は「ふむ」とうなずいた。
「暗器は確かに面白いが、太児にはまだ早いよ。修行には順番がある」
「まあ、最終兵器ってところだな」
ヒロが挑発するように肩をすくめた。
「どうだ、庵天。軽く手合わせでも…」
その瞬間、松の枝がふわりと揺れた。
風はほとんど吹いていない。
二人が立つ間合いの空気が、ピンと張り詰めた。
太児は息をのむ。
庵天先生が、一歩、歩み寄る。
ヒロも、一歩。
どちらも構えていない。
だが、すでに始まっている。
言葉ではなく、気配の応酬…。
ヒロが、指を伸ばした。
黒い苦無が、まっすぐに飛ぶ。
スッ。
庵天先生の体がわずかに横に揺れ、苦無は庵天先生の脇の下をすり抜ける。
苦無が地面に落ちそうになったところで、ヒロが指を返す。
紐がピンと張り、苦無が、地面スレスレに、庵天先生の足をめがけて鋭く引き返した。
庵天先生は片足を上げやり過ごす。
苦無はヒロの手に戻った。
「ちっ、やっぱり反応が早いな」
「お前も子どものころから変わらんな。表情でわかる」
二人は目を合わせ、ふっ、と同時に笑った。
「さて。せっかくだから、少し見ていろ」
庵天先生は太児に向かって言った。
「庵天、お前に見せたいものがいっぱいあるんだよ」
ヒロが、不気味にニヤッと笑った。
その笑みの裏には、子どものようなワクワクした気配があった。
「また新作でも作ったのか?」
庵天先生が苦笑いをしている。
「まあまあ、見て驚けよ!」
ヒロはカーゴパンツのポケットに手を突っ込み、カチャカチャッと金属が触れ合う音を鳴らしながら、奇妙な形の器具を取り出した。
「これはな、現代の科学技術を使った三節棍だ!」
ぱんっ、と軽く振ると、三本の棒が「パチン!」と連結し、ロボットが変形するように伸びた。
「おう? これは……」
庵天先生が少しだけ目を見開く。
ヒロが近寄りながら、ブンと振り回した。
スッ。
庵天先生は、ふわりと足を運び、金属の棍の軌跡を外した。
「やはり避けるのか。反応が速すぎるぞ」
「ただの棒じゃないか」
「ふっ、これはどうかな?」
バチン!と音が鳴り、棒が3つに分かれ、大きく伸びた。棒と棒の間は鎖でつながってる。
ヒロが、真ん中の棒を持つと、左右の二本の棒が、別々に自由自在に動いた。
「ふはは、ワンタッチで分割するんだよ。これはよけきれまい!」
しかし、庵天先生は、踏み込んで近寄り、一方を踏みつけ、一方をつかんでしまった。
「むむ、よくよけたな!」
「三節棍だって、先にバラすからだ」
「足をどけろよ。曲がるじゃないか」
「ヤワな武器だなあ」
ヒロが、棍から手を離すやいなや、
「次はコレだ!」
パッと手を広げると、黒いカードのような物体が三枚並んだ。
「……トランプ?」
太児がつい声をあげる。
「花札だ! 猪鹿蝶攻撃!」
ヒロがカードを弾くと、3枚が横に広がって飛び、そのうち一枚が、プツッと、庵天先生の服の袖に刺さった。
太児は息を飲む。
「ほほっ。蝶が当たったぞ!」
「ふむ…この距離から飛び道具か。意表を突くいい攻撃だ。当たってないけどな」
庵天先生は袖を振ると、カードが縦に回転し、ヒロの股を通り抜けて、地面に突き刺さった。
ヒロは、おおっと、飛び跳ねて、後ろに下がった。
「…狙ったな」
「…外したんだよ」
ヒロは手首に巻かれたバンドを引くと、細いワイヤーが前方の上空に向かってヒュッと伸びた。先端には小さな鈎(かぎ)がついている。
鈎が木の枝に引っかかった瞬間、ヒロが飛び上がった。
「これは画期的だぞ。瞬間移動で後ろに回り込んで攻撃できる…あれっ?」
ヒロが飛んだ先に庵天先生はいない。ワイヤーを引っ掛けた木の上にいた。
ヒロが前に飛ぶのと同時に、庵天先生は真上に飛び上がったのだ。
「ルパンやコナンも使う古典的な道具だな」
庵天先生が、ワイヤーを引っ張るとヒロが宙ぶらりんになる。
「いっててて! 腕がとれる!」
庵天先生は手を放して言った。
「敵に利用されるようではなあ…」
ヒロはワイヤーを巻き直しながら、大きくうなずく。
「さすがだな、庵天。どれも初見のはずなのに、全部いなしてくるとは……」
「流れと意図が読めれば十分だ」
淡々と話す庵天先生が、誇らしげに思えた。
ヒロは、まっすぐに立ち、頭をかきながら笑った。
「参ったね。まったく歯が立たん。これで何連敗だか」
「400戦無敗だ」
「お前に教わる弟子はラッキーだよ」
ヒロが太児の方を、チラッと見て、ニッコリ笑った。
「まあな」
庵天先生もニヤリと笑う。
太児はこの一言を聞いて、嬉しくなった。
第三十九話 ヒロ、黒歴史をさらし、庵天がこれを転がすこと
「まあ、休憩としようぜ」
ヒロがバッグから小さな金属部品を取り出して、カチャカチャと広げ、黄色いボンベにつなげて岩の上においた。
「それも武器?」
「これは、市販のキャンプ用コンロだ。サバイバルでも役に立つぞ」
コンロにポットを載せ、火をつけ、湯が沸いた。
「太児は、コーヒーはいけるのか? 紅茶、緑茶、ウーロン茶、ジャスミンティー、ルイボスティー他、各種ティーバッグがあるぞ」
「そういうところも凝るよなあ」
「人の喜びが我が喜びだ」
「ぼくもコーヒーをいただきます」
「おっ、通だねえ」
ブラックコーヒーは、苦かったが、大人の仲間入りをした気分になった。
「そういえばよ、太児」
トヨが、松の木に寄りかかってニヤッと笑った。
「俺と庵天が初めて会ったときのこと、聞きたいか?」
「えっ、先生の子どもの頃!?」
太児の目がキラキラした。
庵天先生は、ぼそっと言った。
「余計なことを話すなよ、トヨ」
「いやいや、弟子としては知っとくべきだろう? 師匠の黒歴史を」
「黒歴史じゃない」
ふたりの会話は、なんだかテンポがいい。
「俺は子供の頃、空手道場に通っていたんだよ。フルコンタクト空手の極真会館だ。知ってるか? 空手バカ一代」
「…知らない…」
「俺たちの世代にはバイブルだったんだがなあ…」
「俺のバイブルは拳児で、アイドルは、ブルースリーとジャッキーチェンとリーリンチェイだった」と庵天先生が言った。
「わかるかなあ。わかんねぇだろうナア。お前もマニアだよなあ」
「俺たちのは古すぎるが、子供が武術に憧れる動機って、そんなもんだろう。生まれた時から武術の里で暮らしていたなんて奴はそうはいないよ」
ヒロが、コーヒーをちびちび飲みながら話を続ける。
「太児が武術を始めた動機はなんだ?」
「えっ、お母さんに言われたから…」
「アイドルは?」
「えっ、とくにいないかも…」
「つまんない奴だなあ。さてはマジメ君だな。俺はイタズラ大好きな、怖れ知らずの悪ガキだった。道場の師範が油断してるところを、後ろからカンチョーしたことがある。えらいおこられて、巻き藁付きを100本やらされた。そんなことばっかりやってたから、拳はボコボコだ」
ヒロが見せた拳骨は、拳面が盛り上がって平らになっている。
「殴られたら痛そう…」
「瓦を9枚でも割れるぞ。苦を割るって縁起担ぎで、友達の結婚披露宴でよくやったもんだ」
「へー。すごい!」
「失敗して手を切って血まみれになったことがあったが、紅白で目出度いとか言ってごまかした」
「…」
「いかにも、青春だろう」
「…」
「庵天に出会ったのは中学生の頃だ。空手仲間と、カンフー狩りをやってたんだ」
「カンフー狩りって?」
「当時はよく口ばっかりのへなちょこ中国拳法マニアが、公園であーだこーだと蘊蓄を語ってたんだよ。うっとうしいから懲らしめに回ってたんだ。それがカンフー狩り」
「…近寄らなければ、うっとうしくなかったんじゃ…」
「小学生が正論を言うなよ…。まあ、腕試しみたいなもんだ。だけど、余りにへなちょこな連中ばっかりで、練習にもならなかった。ところが…」
「これって、お前の黒歴史だろ」と庵天先生が口を挟む。
「まあ、いいってことよ。俺は連戦連勝で調子に乗ってたんだが、初めてカンフー野郎の反撃にあった」
「それが、庵天先生ってこと?」
「そうだ。それまでの連中とは全然違っていた。他の連中は目立つところで、これ見よがしにやっていたんだが、そこらは全部成敗したもんだから、森の奥の方まで成敗に行ったんだ。そしたら、ひとりで黙々と地味な動きをやっている奴を見つけた」
「あの時は、八極拳のまねごとをしていたかな。覚えられなくて、ヘタなのが恥ずかしかったから、隠れてやってたんだ」
「中国拳法なんて舐めてかかっていたから、つかつかと寄っていって、成敗!って叫びながらローキックをかまそうとしたんだ。そしたら、いきなり全然違う動きだ。ふわっと近寄られたと思ったら、俺は宙を浮いてた」
「いきなり、なにすんだと思ったよ」
「ビックリして、正拳突きの猛ラッシュをしたんだが、当たっても手ごたえがない。それどころか、ふんわり抑えられて、地面に転がされた」
「マンガで読んだ、かっこいい突き蹴りに憧れて、八極拳を練習していたんだが、いざとなったら、そんなめんどくさいことはやってられない。日頃習ってた太極拳が出た。当時、東山先生に推手を習ってたんだ。太児は前に会ったろう?」
華やかな表演の舞台から離れた小さい部屋で、東山先生の手ほどきを受けた事を思い出した。
「空手の突き蹴りは強烈だからな。付け焼刃でマトモに打ち合いなんかしたら、とても敵わない。だが、推手で防ぐことができた。それで、八極拳はやっぱりやめて、太極拳に専念することにしたんだ。ま、太極拳の方が合ってたんだな」
「先生はそんな昔から太極拳をやってたんですね」
「とはいっても、東山先生オリジナルの太極拳だ。当時の日本に伝統的太極拳を学べる環境はなかった。東山先生は、苦労していろんな先生に習いにいったり、合気道や少林寺拳法も研究して、太極拳を追求していた。俺の太極拳のスタートは東山先生だ」
「そうだったんだ…。ヒーローさんは子供の頃から空手なの?」
「ああ。空手バカ一代で知った大山倍達総裁が、実は朝鮮出身だと知って、親しみを覚えたんだ。俺も韓国籍なんでな。韓国語はできないけど」
「えっ? ヒーローさんは外国人なの?」
「外国人のような日本人のような…。特別永住者なんだよ」
「特別永住者??」
第四十話 ヒロ、異郷の身の上を語り、太児が人を斬りしことを告げること
「特別永住者って?」
「戦前から日本に住んでた朝鮮人と台湾人、その子や孫のことだ。前の戦争中は、朝鮮も台湾も日本が統治してたもんで、朝鮮人も台湾人も日本国民だったんだな。ところが日本が戦争に負けて、朝鮮半島や台湾は日本の領土ではなくなった。在日朝鮮人も在日台湾人も日本国籍じゃなくなってしまったわけだ」
「勝手に国籍が変わってしまったんだね」
「でも、既に日本で暮らしていた人たちだからな。それで永住が許可されて、特別永住者ってことになったんだ」
「じゃあ、ヒーローさんは日本人ではないんですか?」
「外国人なのか日本人なのか?って聞かれると、ちょっと困るよなあ。名前は、韓国名と日本名があるよ。だけど、俺のじいさんばあさんの代から、日本で暮らしてるし、俺は日本語しか話せないし、和食が好きだし、香取大明神を拝む大和魂だ。北朝鮮にも韓国にも行ったことがない。でも国籍は韓国だ」
ヒロは肩をすくめた。
「地元には同じような韓国籍の人が、たくさん住んでいたんだ。上の世代は、朝鮮風の生活をしていたから、まわりの地域とはちょっと違った独特の文化風習があった。いわゆるコリアンタウンだな。通りに出れば、屋台のおばちゃんがトッポキをくれたり、肉屋の怖いおっちゃんが、誕生日に焼肉セットくれたりしてな…」
ヒロの顔が、子どものような笑顔になった。
「祭りの日は最高だった。太鼓と歌と屋台の匂いで、町全体が楽しかった。俺の中で、あそこは世界でいちばん楽しい場所だったんだ」
遠い目をしていたヒロが、ニヤッと笑った。
「俺の子供の頃は、悪ガキが多かったよ。自転車で商店街を爆走して色々ひっくり返したり、学校のプールで夜中に勝手に泳いだり…」
「ぼくの友達にも、そんなのがいるよ」
太児がクラスメートの悪ガキを想像しながら言う。
「そんなうちは可愛いもんだったが、中学に入る頃には、町の兄ちゃん連中のグループに出入りするようになった。ケンカは強い方だったし、生意気だから、よく可愛がられたな」
ヒロは苦笑いした。
「最初はただの悪ガキ集団だった。タバコを吸って、夜の公園で意味なく集まり、在日の誇りを守るんだとか言いながら空回りしていた。そのうち、別のグループとトラブルを起こして、口ゲンカからぶつかり合いになって、本格的な抗争になっちまった」
ヒロの声が沈む。
「ナイフを持つヤバイ奴もいた。俺も強がって、仲間の後ろにくっついて走り回ってた」
庵天先生が目を向ける。
「ヒロ、無理に話さなくてもいいぞ」
「大丈夫だ。…もう向き合い終わったことだからな…その抗争の中で、乱闘になった。バットやら木刀やらナイフやらチェーンやら、しっちゃかめっちゃかだ。仲間には斬られた奴もいた。俺も、鉄パイプをぶん回していた。刺されて死にたくないからな。だけど、当たった奴の当たり所が悪かったらしい」
太児が息をのむ。
「…」
ヒロは小さく頷いた。
「そうだ。俺の世界は全部ひっくり返った」
しばらくの静寂があった。
「俺は逮捕されて、少年院に入った。辛い日々だったが、自分がどう生きるかを考える場所でもあった」
ヒロの目が遠くを見る。
「武術って何だ、暴力ってなんだって、色々考えた。もし当時の俺が、庵天みたいにもっと強かったら、鉄パイプなんか使わなかったかもしれない。強がっていたけど、自信がなかったんだ」
庵天先生が静かに言った。
「俺だってその場にいたらどうしてたかわからんよ…」
「そうだ。どうすりゃ良かったのか、いまだにわからんよ」
ヒロは、コーヒーをすすった。
太児の脳裏に、別の光景が戻った。
馬に乗って、刀を振り上げて迫る盗賊の男。
頭の上で受け流して、真横に斬った。重い手ごたえ。
目の前で倒れる馬と盗賊。
血飛沫。
「…」
音が遠のいた気がして、太児は震える手を握りしめる。
「太児…どうした?」
庵天先生が、ゆっくりと太児の肩に手を置いた。
「…向こうの世界で何かあったんだな」
太児は、震える声でようやく言った。
「…ぼくは…人を斬った…」
ヒロは驚きながらも、太児の目をまっすぐ見つめた。そのまなざしは、責めるものではなく、静かな深さを湛えていた。
「ぼくは…戦うつもりもなかったんだけど、馬で突っ込んでくる盗賊が刀を振りかぶって…気づいたら、刀を振って…」
言葉は途切れ、呼吸が乱れそうになる。
「そうか…。太児。戦場で生きるか死ぬかの場に立たされた者が、冷静でいられるはずがない」
優しい声だった。
ヒロが、そっと太児の前に身体を傾ける。
「俺だって、当時は目が回るようでさ。怖いのに強がって、訳もわからず走り回って…後になってから全部押し寄せるんだよな」
太児の指が震える。ヒロは続けた。
「太児、お前は今、その重さをちゃんと感じてる。それは…逃げてないってことだ」
ヒロの声が胸にしみこんでくる。
庵天先生がゆっくりと太児の横に腰を下ろす。
「お前は自分の命を守ったんだ」
太児は小さく瞬き、わずかに頷く。
「それでいいんだ」
庵天先生は優しく言った。
「自分を守れる者は、誰かを守ることができる」
太児の呼吸が、少し落ち着く。
「俺もな、後悔は消えない。でも、それが生き方を決めた。太児、お前もその先を見ればいい。何があったか、よくわからんけど」
「ありがとう、ヒロさん…先生」
第四十一話 ヒロ、武器の怖さを語り、太児が強くならんと願うこと
2杯目のコーヒーを飲みながら、ヒロが語る。
「太児が行った昔の世界では、盗賊を殺してもお咎めなしだろう。俺の現実世界では、俺は逮捕され、牢屋に入れられた。社会も法律も全然違うんだな。正しいとか間違っているとか、善とか悪とか、状況や環境で変わるものだよ。そんな中でも、変わらない信念を持つんだ」
ヒロが太児に言った。
「俺には信念なんかなかった。あの鉄格子の中で、ずっと後悔してた。でも、死んだら後悔もできない。俺に殴られた奴は、意識朦朧の中で後悔したかもしれないが」
ヒロは、空を見上げて続けた。
「庵天はさ…何度も面会に来てくれたよ」
「友達だからな」
「シャバに出ても、世間の目は冷たかったが、武術をもう一度学び直そうと思った。庵天のおかげだ」
ヒロは、小さく息を吐きながら続けた。
「…あの抗争のあと、武器ってものが、どうしようもなく怖くなったんだ。刃物も、鉄の棒も…誰かを傷つける感触が、手に残ってる気がした…」
ヒロは、わざとらしく笑った。
「気づいたら…俺、変な趣味に走ってた。使い物にならないアルミ板の短剣とか、竹でできた仕込み杖とか、おもちゃみたいな暗器ばっかり集めだしたんだ。観光地の土産物のほうがマシだな。自分でもずいぶん作ってみた」
ヒロは、指先で自分のマグカップを軽く弾いた。
マグカップの把手の上部が外れ、ぷしゅーッと蒸気が噴き出す。
「これは、コーヒーを飲んでリラックスしていると思わせて、目くらましをする武器だ」
重苦しかった空気が和らいだ。
「そんな使えない武器コレクターになって、ようやく気づいたんだよ」
ヒロは肩をすくめて笑った。
「俺は武器が怖いけど、武器に負けたくなかったんだなってな」
太児は、思い出していた。刃の重さ。刀と刀が当たった時の感触。肉を斬った手応え。
「太児」
ヒロが柔らかく言った。
「お前が怖がってるのは、斬った相手でも、武器でもなくて、自分が乱暴な人間なんじゃないかって不安だろ?」
太児はぎゅっと拳を握った。
そうなのかもしれない。
庵天先生が言った。
「太児。怖さを知っている者ほど、力の使い方を間違えない」
ヒロが少しだけ声を低くする。
「俺は、あの頃の自分に言ってやりたいよ。怖がっていいってな。強がるよりよっぽど大人だって」
太児は、顔を上げて言った。
「…ぼくは…強くなりたい…」
庵天先生は頷いた。
「それでいい。強がりじゃない、怖さ弱さを知ってこそ、本当に強くなれる」
しばらくの沈黙の後、ヒロが口を開いた。
「俺はそれから、介護や福祉の仕事をしながら、自分ちを道場にして、子供向けに、遊びみたいな武術を教え始めた。殺伐とした雰囲気じゃなくて、楽しい武術にしたかった。忍者みたいな武器も、子供たちに喜んでもらいたくて思いついたんだ。そんなんでも、練習していれば、いざという時は護身のための体の使い方が養われる」
「子供に教えているの?」
「あんがい人気なんだぜ。高校生になっても続ける子は、あんまりいないけどな。武術を続けたい子には、俺が通っていた空手道場を紹介してる。俺も空手はずっと続けている」
ヒロが庵天先生をチラッと見て言った。
「庵天はより本格的な修行をするために、中国に渡った」
「お前ももう大丈夫だと思ったしな。10年、陳家溝にいた」
「帰国するたびに俺を訪ねてくれたよ。年に一度は帰ってきてたか?」
「向こうで金が尽きたら、帰ってきて、一月ほどアルバイトして、一年分の資金を作って、またあっち、っていったり来たりしていたんだ」
「えっ、そんなので海外で暮らせるの?」
「師匠の家に住み込みで、生活にさほど金も要らなかったし、当時の日本と中国では物価が全然違っていたんだ」
「世界で一番の金持ち国だったんだよ。日本は」
「えええーっ!」
「戦争で負けて、世界最貧国に落ちぶれた日本だったが、40年かそこらで経済大国に返り咲いた。だけど、ここ30年で経済も軍事力も中国の方が強くなってしまった。俺は中国で修行させてもらったが、日本には強く豊かであってほしいと思うよ」
「韓国人には反日感情を持つ者もいるが、俺はやっぱり日本が強く豊かであってほしいなあ。でないと、おもちゃの武器で遊んでいられない」
「余裕がなくなると、殺伐となるからな。豊かでないと、徳も育まれにくい」
「太児も、武術ばっかりじゃなくて、社会で稼げるように、ちゃんと勉強もするんだぞ。俺が言うのもなんだけど、武術じゃ食っていけないからな。武術を極めるにも、生活に余裕があってこそだ」
「まあ、金儲けできるかどうかはともかく、武術バカじゃなくて、どこでも通用して重用される人間になれってことだな」
「はい、わかりました…」
第四十二話 侠太郎、正義の移ろいを語り、柔太児が信念を知ること
夕食の時間、太児は父の侠太郎に聞いてみた。
「お父さん、正義って何? 国や時代で変わるものなの?」
「太児、ずいぶん、深いことを考えているんだな…」
「法律を守ることが正義で、法律違反が悪じゃない?」とお母さんが言った。
「その法律が、曲者だな。法律も時代や国によって変わるものだよ。今の日本では、人を殴ったり傷つけるのは悪だし、罪だよね。でも、殴って従わせることが普通だった場面もあったんだよ。人権なんて言葉すらなかった時代もあるし、未だに人権がないような国もある」
「つまり……正しさって、変わる?」
「変わる。日本だけ見ても、道徳は何度も変わってきたよ。人権、平和、倫理、全部が時代の産物だね」
「人権がない国なんてあるの?」
「弱ければ踏みつけられるみたいな国もあるよ。人間が多いと、全員が大事にはされない。都市では法治が進んでるけど、田舎ではまだ情理が正義だったりする国もある。だだっぴろい国だと隅々まで制度が行き渡らない。ある都市では盗賊を殴れば罪なのに、ある村では盗賊を縛り首が正義だったりする」
「…」
「嘘をついたり隠し事をしたり盗んだりは、普通に考えれば悪いことだろう? だけど国のために情報操作したり、隠ぺい工作をしたり、秘密を盗んだりすることは、正義だ。拉致や暗殺だって、やってしまう」
「え……じゃあ、何が正しいの?」
侠太郎が、太児の目をまっすぐ見つめる。
「太児。正義は誰が決めると思う?」
お母さんが言った。
「神様じゃなさそうね」
太児が答える。
「…偉い人? 政治家とか…?」
「そうだ。独裁社会だと、独裁者が決めるし、民主主義なら多数決の合意で決まる。だから正義は変わる。国家が変われば、法律が変われば、戦争になれば、平和になれば…正義は、いくらでも書き換えられる」
太児は呟いた。
「誰かが決めた正義を、信じていたらダメなのかな…」
「人の取り決めにしたがっておけば、考えなくていいし、罪にならないから、楽だよ。だけど、法律さえ守っていれば、いいかどうかは、わからないね。人間が作った決まり事より、もっと大きな真理があるかもしれない。それこそ神様が作ったものだな」
侠太郎は一度言葉を切り、箸を置いた
「太児。法律や正義は、人が人を縛るための道具でもある。必要だからあるし、守らなきゃいけない。だけどな……」
太児は息をのんで、父の次の言葉を待った。
「妄信すると考えなくなる。命令だった、決まりだった、みんなやってた、って言えば、考えなくて済んでしまう。その方が楽なんだ。自分の心に向き合わなくてすむからな」
お母さんが、少し心配そうに太児を見て言った。
「でも、いちいち自分で判断して決めるのも、苦しいわよ」
「うん。だからこそ大事なのは――」
侠太郎は、太児の胸のあたりを、指で軽く指した。
「自分の中にある、ここは守りたいって線だ。それを、信念って呼ぶんだと思う」
「信念…」
「国が変わっても、法律が変わっても、これはやる、これはやらないって、自分で選び続けることだな。自分はどうありたいか、ってことかもしれない」
太児の脳裏に、あの光景がよぎる。
馬のいななき。血の匂い。倒れた盗賊。
自分は正しかったのか。仕方なかったのか
「……もし、その信念が間違ってたら?」
侠太郎は、少し困ったように笑った。
「間違うこともあるさ。人間だもんな。でもな、考えて選んだ間違いと、何も考えずに従った正しさは、同じじゃない」
庵天先生の声が、太児の胸に重なる。
…正義は変わるが、信念は自分で選ぶ。
「太児」
侠太郎は、穏やかな声で続けた。
「誰かが決めた正義が悪いわけじゃない。でも、丸呑みにするな。本当にそれでいいのかって、自分の心に聞け」
太児は、ゆっくりとうなずいた。
「…自分で考えないといけないんだね」
「そうだ。怖いし、面倒だし、答えが出ないことも多い。でも、それをやめたら人は、簡単に人を傷つけられる。だから、いつでも問いの中に生きるんだ」
「問いの中に生きる…」
「それが達人だ」
夕食の湯気の向こうで、太児は静かに拳を握った。
第四十三話 堤先生、正義と平和を問うて、命を産むと決すること
黒板に、チョークで書かれた大きな文字。
「正義・平和・命」
道徳の時間。今日は堤先生の授業だ。おっとりした口調なのに、言葉にはいつも芯がある。
教室は、昼休み明けの眠気も吹き飛ぶような空気で満ちていた。
「みんな、正義ってなんだと思う?」
美鈴が手を上げた。今日も元気だ。
「困ってる人を助けるのが正義だと思いまーす。いじめを見たら止めるとか!」
堤先生はにっこり微笑んだ。
「素敵ですね。じゃあ…困ってる人が、悪いことをしていたらどうしますかー?」
美鈴が困った顔になった。
「うーん…それでも助ける、かな。まず話を聞いてから」
「なるほど、悪人の言い分もよく聞く。それも一つの正義ですね」
「オレは、悪いやつはぶっ飛ばすな!」と拳二が机から前のめりに口を挟む。
「平和は力で作る。力なき正義は無力だ!」
クラス中がクスクス笑った。
「ぶっ飛ばしたら、またぶっ飛ばされるやん」と晶。
「それより、ホルモンでも一緒に食うとったほうが、仲良くなるで」
「平和はコミュニケーションからってことね。素晴らしいわ」と堤先生。
なるほどなあ、でも襲い掛かってくる敵にホルモン焼きを差し出して、おとなしくなるかなあと太児は考えた。
堤先生がさらに問いかける。
「ほかに正義についてなにか、アイデアのある人は?」
クラスメイト達が、次々と手を挙げる。
「信号無視をしないことです!」
「ポイ捨てもしない」
「立ちションしない」
「寄り道しない」
「買い食いしない」
みんな口々に発言する。
「それって、みんなルール違反や、マナー違反をしないってことよね。というか、寄り道や買い食いは、校則違反ではあるけれど、正義に反するってことはないと思うんだけど…」
「そうや。寄り道や買い食いは、経済を回して、国を豊かにするんや。それは正義や!」
晶が力強く主張した。
後ろの方の席で、目を閉じて静かに座っていた恰幅のいい少年が、静かに手を挙げた。
「はい。伊東道戒くん」
「殺生しない。盗まない。嘘をつかない。酒を飲まない。不倫しない」
「さすがお寺の子…。五戒ね。不倫ってなんだか知ってるの?」
「はい。私の父が、檀家の奥さんと…」
「いえ、もういいわ。ごめんなさい。次の人」
太児が手を挙げた。
「正義って、状況や環境、見方や立場で変わると思うよ。絶対真理の正義って、わからないです」
「深いわね。太児君。悪の代表みたいに思える戦争も、正義と正義のぶつかり合いだしね…。愛の在り方も、その立場によって、正しかったり間違えていたり…。正義なんていってるのは、人間だけかもしれないわ。クマが人を襲うのは、正義でも悪でもないわね」
うーんといって、みんな考え込んでしまった。
「次に聞くけど、平和って何だと思う?」
次々と手が上がる。
「戦争がないこと」
「豊かなこと」
「自由に生きられること」
晶が答える。
「順子(シュンツ)で両面(リャンメン)待ち」
「それは麻雀の役のピンフね。クラスのみんなにはわからないわ」
美鈴が答えた。
「平和って、子供が伸び伸びと育つ世界のことじゃないかなあ?」
堤先生が、一瞬黙ったのち、目を泳がしながら同意した。
「そ、そうね。子供を育てられないような世界は平和じゃないかもしれないね…」
「はい」
「伊東道戒くん」
「仏の教えでは、外の世界がどうであれ、心が安らかであることが真の平和だと説きます。これを涅槃といいます」
「そうなのね…」
「状況や環境は関係ないのです」
堤先生は、黒板にもう一つ、問いを書いた。
「命を選ぶとき、あなたならどうする?」
晶が聞いた。
「子供を産むか産めへんか、選ぶってこと?」
「えっ、いきなりそこ…?」
堤先生がなぜか動揺する。
「そうじゃなくて、たとえばよ、もし、自分の命と友だちの命、どちらか一つしか救えないとしたら…とか、そんな質問よ?」
誰もすぐには答えない。
「はい」
「伊東道戒くん」
「仏の教えでは無我、自他の区別は幻想ですから、どちらかを選べという問い自体が執着となります」
「そうなの…」
「赤子は胎内に宿った瞬間から命ですので、生まないことは殺生となります」
「そ、そ、そうなの…」
「どう選ぼうと御仏は責めません。苦しみに寄り添う慈悲を重んじます」
「そうなのね…」
堤先生が黙りこくってしまった。
晶が、大きな声で発言した。
「私は自分優先やな。自分の命には責任があるもん」
「俺も。人の命よりわが命。余裕があったら、人も助けてやらないこともないかな」
と拳二。
太児が答えた。
「…どちらか選ばなきゃいけない時ってあるかもしれないけど…。でも、誰かを見捨てたら苦しいと思う」
美鈴も発言する。
「私は、自分の命を犠牲にはしたくないわ。でも、人を見捨てたくないって思う」
しばらく教室に静かな時間が流れた。
伊東道戒が静かに口を開いた。
「真摯な懺悔と慈悲の実践が、新たな因果を生みます。過去を消せなくても、今をどう生きるかが大切です。これを菩薩行といいます。ご供養ならうちのお寺でどうぞ」
堤先生が言った。
「今日、みんなの話を聞いて思いました。正義に絶対ってないんだって。平和は、努力が要るんだなあって思います。そしてすべての命は大切なもの。私たちは簡単にどちらかを選ぶって言えないね」
堤先生が、きゅっと口を結んだ。
「…私、産むわ」
晶が後ろにひっくり返り、美鈴は飛び上がった。
「ええっ、先生、結婚してたの?」
「おめでとう! 先生」
「ハッピーバースデー!」
「こんにちは、赤ちゃん♪」
教室が祝福の言葉で騒然となる中、チャイムが鳴る。
その喜びの中に、命を想う静かな決意があった。
第四十四話 太児、刃を持つ狂人に遭い 友と力を合わせて人を守ること
それは、突然だった。
校舎の廊下に、怒号と、金属を引きずるような音が響いた。
「お前ら、ぶち殺したるううう!!!!!」
窓が割れる。
男が刃物を振り回している。
通り魔だった。
焦点の合っていない目が、きゃろきょろを左右を見渡し、ゾンビのように廊下を歩いてくる。
「わー!!!」
「キャー!!!!」
男の侵入してきた廊下の端っこの教室は、ドアを閉めて、机でバリケードを築いたが、外への逃げ場がない。
入ってこられたら終わりだ。
男はサバイバルナイフを逆手に持ち、ドアに突き刺し、ガンガンと蹴とばす。
担任の男性教諭がドアの内側に押し付けた机で、必死に押し返す。
「皆殺しじゃー!! 俺も死んだる!!!」
眼はうつろ、口からは涎を垂らし、歯をむき出している。ズボンのチャックは開いたままだ。
太児たちの教室は、廊下の奥にある。
「みんな、机の下に……!」
堤先生の声が震える。
「地震とちゃうんやから、机に下にもぐってもしゃあないで」
「あ、晶ちゃん、冷静ね…」
「ホルモン屋で酔っ払って暴れる奴はしょっちゅうやったからな。でも、アイツは完全におかしいで」
拳二が提案する。
「なんか、エサでもやったら大人しくなるんじゃないか?」
美鈴がリンゴを投げた。
リンゴは、ゴンと、通り魔の頭に当たった。
「お前かあ!!!!!!」
ドアに刺さったナイフを引っこ抜き、通り魔は太児たちの教室に向かって、よろよろと歩いてくる。
「きゃー、こっちへ来たわ!!」
「あんたが刺激したからや」
「いやあ!! 私のおなかには赤ちゃんがいるのよ!」
「とりあえず、先生と女子は避難! 男子は机と椅子を廊下に滑らせて、奴にぶつけろ!」
拳二がテキパキと指示する。
教室の近くには階段がある。
「美鈴! 晶!女子を誘導して、階段を降りろ! 低学年も連れて体育館や! 走れ!」
「了解!」
男子たちが慌てふためきながら、机や椅子を男に向かって滑らす中、伊東道戒は静かに非常ベルを押した。
ジャーーーーン!!!!!
「色不異空空不異色色即是空空即是色…これで警察も駆けつけてくるでしょう」
通り魔がこちらに向かってきた隙に、バリケードを築いていた教室のドアが開き、中から生徒たちが出てきて、向こう側の階段に走っていく。
通り魔は、あいたドアから出てくる生徒達を見て振り向いた。
「お前らからじゃあーーー!!!」
ナイフを振り上げる。
「やばいぞ!」
拳二が、廊下に飛び出し、机の間をすり抜け、飛んだ。
「チェストーーー!!」
拳二の飛び蹴りが、男の後頭部に見事にヒット!
男は、つんのめって、ひっくり返ったが、すぐに起き上がって、ナイフを拳二に向けて身構えた。
その間に、生徒たちは次々と階段を下りていく。
「拳二、あぶない!さがって!」
太児が掃除道具入れに入っていたモップを斜めに構えて、拳二の横に立った。
「おっ、いい武器だな。おーい!俺にも何か投げよこしてくれ!」
拳二がクラスメートに声をかけると、箒と塵取りが飛んできた。
「こんなんで盾になるかなあ」
といいつつ、右手に箒、左手に塵取りを持って構える拳二。
「みんな! ぼくと拳二が時間を稼ぐ。こっちの教室のみんなも避難して!」
「太児!?」
拳二はともかくとして、日頃どんくさい太児がこんなに堂々としているのが、クラスメートたちには意外だった。
真ん中の教室の生徒達も、後ろのドアから階段に避難していく。
「このガキどもがあ!!!!」
太児は、男のナイフを見て、陳王廷が斬り殺した盗賊が持っていた刀より、ずいぶん小さいなと思った。
過去の世界、刀、血の匂いがよぎる。
拳二がささやく。
「太児…相手は刃物だぞ」
「こっちの方が、長い分有利だよ。ぼくは脚を引っ掛けに行くから、拳二は箒であいつの顔をワサワサやって目くらましをしてよ。ひっくり返して逃げよう」
男が突進してくる。
拳二が箒を突き出し、太児はモップを床を滑らせるように動く。
濡れたモップの重さと遠心力が、暴走する男の足元をすくい、バランスを崩させた。
しかし、よろめきながらも、男は箒の柄をつかんで、ひっぱった。
「うわあ、こいつムチャクチャ力が強ええ!」
そして、右手に持ったナイフを拳二に突き立てる!
ガスッ!
盾にしたステンレス製の塵取りに、ナイフの根元まで刺さった。
拳二は、箒を塵取りも離して、後ろに転がる。
「うわあ、やべえ。普通の力じゃないぞ」
太児が足元のモップを、グイッと引き上げ、男の股間に打ち付ける。
「決まった、急所攻撃!」
だが、男はお構いなしに向かってくる。
「うわー、効かない。ゾンビか??」
通り魔が道をふさぐ木製の椅子を蹴り上げると、椅子は跳ね上がって、天井にぶつかった。
「逃げよう」
男は、モップを両手に掴み、バキッを二つ折りにし、太児と拳二に投げつけた。
二人を反れたモップは、廊下の壁に突き刺さった。
「どうなってんだ?」
廊下から、階段に辿り着いたが、なんということだ。防火ドアが閉まっている。
「なんで~、俺たちがまだ残ってるのに~」
「グアハハハハ、もう逃げられんぞ、バラバラにしてやる!!!」
塵取りから抜いたナイフを逆手に持って、よだれを垂らしながら、通り魔が迫ってくる。もう3メートルも離れていない。
絶体絶命だ!
その瞬間だった。
通り魔男の背後の廊下の窓から、黒いコスチュームの男が、滑り込んできた。
ゴン。
「いてっ! なんで廊下に机があるんだ」
通り魔が後ろを振り向く。黒い男が、通り魔に向かって、右掌をあげ、ニヤッと笑った。
バシュッ!!
男の掌から、白いものが噴出され、飛び広がり、通り魔を包み込んだ。
漁師の網のようだが、白くネバネバして、暴れる通り魔に絡みつく。
男が、右手首のボタンを操作すると、白い網は、シュッと縮まり、芋虫の繭のようになって、通り魔を小さく丸め込み、床にゴロンと転がした。
「太児!新兵器だぞ!!」
黒い戦闘服に、山盛りリュックを担いだ、どう見ても怪しいおじさんが大笑いしながら叫んだ。
「ヒーローさん……!」
「クモの巣型・万能拘束ネット。素材は洗濯ネットとスライムだ。危なかったな! 間に合ってよかった」
「外から上がってきたの?」
「瞬間移動ワイヤーを使ったんだ。軽いもんよ」
拳二が叫ぶ。
「ええっ何者? 不法侵入者が二人?」
数分後――
ヒロは男と一緒に、両腕を掴まれていた。
「ちょ、ちょっと待て! 俺はヒーロー側だ!」
警官が言った。
「どう見ても怪しい」
太児が一歩前に出る。
「その人、ぼくを助けてくれました。危ない人じゃありません」
「……ほんとか?」
ヒロは胸を張る。
「俺はガラクタ武器コレクター。法律には違反してねえ」
「いや…いろいろおかしい」
その後、通り魔は拘束されたまま護送車で連れていかれ、ヒロは参考人扱いでパトカーに乗せられたが、太児達の証言と、防犯カメラと、洗濯ネットの平和的性能により、解放された。
校庭はパトカーやら報道陣やらでごった返していた。
「いや〜、新兵器、キレイに決まったぜ」
太児は、ヒロを見上げた。
「……どうして、ここに?」
ヒロはニヤリと笑う。
「見せびらかしに来たに決まってるだろ。そしたら、なんか異常な雰囲気だったからな。ヒーローに変身したんだ」
太児は、静かに頷いた。
(おもちゃでも、ガラクタでも、守る意思があれば、力になる)
校舎は立ち入り禁止。保護者達が駆け付け、子どもたちのざわめきと、安堵の声が聞こえた。
「ヒーローは正体を隠すもんだからな。俺は消えるよ。お前もテレビのインタビューなんか受けるなよ。めんどくさいことになるから。さっさと家に帰るんだ」
ヒロは去り際に言った。
「じゃあな、また新兵器を開発して見せびらかしに来るよ」
夕焼けの中、太児は笑った。
第四十五話 太児、凶刃の後を思いて 守る覚悟を知ること
通り魔学校侵入事件は、大きなニュースになり、学校の安全対策については、社会問題になった。
死傷者が出なかったことは幸いだったが、出てもおかしくない状態だった。精神に異常をきたした者が刃物を振り回したとの報道があり、差別につながるのではないかとの懸念の声もあがった。
ふたりの小学生が対抗したことや、犯人を網でからめとった謎の男については、いかにも視聴率が上がりそうなネタではあったが、報道されなかった。
本人も周囲の者も取材に応じなかったからだ。
狭太郎が庵天先生宅を訪問していた。
「いやあ、危ないところでした。太児と拳二君が無茶して、結果オーライでしたが、一つ間違えていたら死人が出ていましたね」
「友達のヒロが、たまたま太児に会いに行って、現場に遭遇したらしい。ラッキーだったよ」
「本当に助かりました。ヒロさんにはまたお礼に伺います」
「ヒロは酒を飲まないから、手土産には旨いコーヒーがいいだろう」
「そうします。ところで、通り魔について、C国がらみで気になることが…」
「C国は関係ないんじゃないか? 犯人は、頭のイカレた日本人だったとの報道だったが?」
「それが、太児に聞いた話や、警察での取り調べ内容を探ったところ、不審に思える点がでてきたのです」
「ほう? 単なる精神疾患じゃなかったと?」
「最近、新手のドラッグがアメリカで流行っているのをご存じですか?」
「ああ、ゾンビみたいになって、スラム街で変なポーズで立ちっぱなしになるやつか?」
「それです。あれはC国が、アメリカに意図的に流し、治安を乱す実験をしているとの噂があるのです。C国では、さらに、狂暴性を加わるような薬物を開発しているとの情報もあります」
「なんと!」
「いわゆるゾンビドラッグにはいろいろありますが、C国が開発した新薬を使うと、極めて攻撃的になり、痛みを感じず、見境なく人を襲い続けるようです。脳神経が異常になり、自己防衛本能もなくなり、力の抑制がなくなります。熊より始末が悪いかも…」
「おそろしいな…。次はそれをばら撒くと? 日本にも入ってきたのか?」
「先日の通り魔がそうだとは言い切れませんが、気を付けた方がいいかもしれません。警察官のピストルくらいでは止められないでしょう」
「日本の警官が犯人の頭を撃ち抜くことはできないからな。殴り合いや関節技は、まるで効かないだろう。ヒロみたいに網でからめとるか、高いところから落とすか、川に流すとかになるな。つかみ合いなんかになったらアウトだ。猛獣以上に厄介だ」
日曜日。湖のキャンプ場近くの青空道場にて、いつものメンバーが集まった。
庵天先生が言った。
「この前は、お前たちは大活躍だったな。勇気、判断力、実行力、チームワーク、素晴らしかった。誰も怪我なく避難できたのは、お前たちの働きのおかげだ。しかし、ラッキーもあったことは覚えておくように。ヒロが来ていなかったら、拳二と太児は危なかっただろう」
「他のクラスみたいに怖がって引っ込んでいたら、みんなやられていたよ」と拳二がいう。
「たしかにな。専守防衛じゃ間に合わん。太児、ナイフを目の前にしてどう思った」
「…怖かったけど…モップの方が有利だと思った。モップを折られて、びっくりしたけど」
拳二が言った。
「あいつは、人間って気がしなかったよ。ヤバすぎ」
「そんな中で、落ち着いて行動できたのは、とても素晴らしい。だが結局、防火扉が閉まって逃げられなくなったわけだが、ヒロが来なかったらどうしていた?」
「窓から脱出かなあ」と拳二。
「身軽なお前なら脱出できただろうな。太児は?」と庵天先生。
「太児が逃げられへん言うて、美鈴はベソかいてたんやで」と晶が口を挟む。
「ベソなんかかいていないもん!」と美鈴。
しばらく黙っていた太児がポツリと言った。
「ぼくは…窓から落とそうと思ってた」
「えっ、あいつを??」
拳二がビックリして、太児を見た。
庵天先生が、じっと太児を見つめて言った。
「できたと思うか?」
「わからない。ナイフで刺されるかもしれないから…。でも、机を蹴っ飛ばしているのを見た時、落とせると思った」
「そうか…」
庵天先生はそれ以上は言わなかったが、その口元が少し緩んだ。
第四十六話 太児、兵法の要を聞き套路の名を学ぶこと
「たいていの武術は、対人間用に作られている。マサイ族はライオン相手に戦うそうだが、我々の武術はライオンや熊を想定していないし、ゾンビも想定していない」
庵天先生が皆に言った。
「だから、ゾンビに出会っても、戦おうなんて思わないことだ。ただ、今回のように、どうしても対処せざるを得ない場合があるかもしれない。そうなったら必要なのは、武術じゃなくて兵法だ。テクニックじゃなくて作戦。戦術、戦略だな。個人プレイじゃなくて、チームワーク。肉体より頭脳。目的はゾンビに勝つことじゃない。生き延びることだ。智力、体力、時の運すべて総動員して、生き延びるんだ」
一同、真剣な顔になる。
「どないしたら、戦略の勉強なんかできるん?」と晶。
「囲碁や将棋、チェスなんかは、戦略を練るためのゲームだった」と庵天先生。
「コンピューターゲームもあるよ。三国志とか信長の野望とか」と拳二。
「やったことある」と太児。
「可愛いのがいいわ」と美鈴。
「今どきは、いろいろあるかもしれないな。そういったゲームで、戦略を立てる感覚を養っておくといいよ。友達同士や家族で楽しくやるのもいいだろう」
「イエーイ! 堂々とゲームができる!」
「ゲームしてりゃいいってもんでもないけどな…」
庵天先生は苦笑い。
「さて、太極拳は武術ではあるが、ただの殴り合いじゃない。知力、体力、時の運、相手の力や地球の力もすべて使う。戦術、戦略も含まれているんだ。それを表しているのが套路だ」
「套路って、型のことだよね」と拳二が聞く。
「そうだが、その組み合わせ、流れが戦術になっている。はじめはわからんかも知らんが、体が勝手に動くほど練り込んでいけば、その意味に気づいて感動するぞ」
「へえ! すごいのね!」
「どのくらいでわかるようになるん?」
「ま、早くて10年ってとこか」
「ええーっ!」
「マジメに取り組まないと、何十年やってもわからん」
「えええーっ!」
「この業界、わからん人がほとんどだ」
「ええええーーーーっ!」
「お前たちにはわかるように教えるから安心しろ」
「ほんとにぃ?」
「素直に練習すれば、10年もかからんかもな」
太児は、10年後どのくらい太極拳を知ることができるのだろうと想像して、嬉しいような、怖いような気がした。
「套路ってひとつだけなん?」と晶が聞いた。
「たくさんあるが、まずは基本的な、長いのを一つ、徹底的にやる。武術的な体の使い方は、この第一路でだいたい養える」
「長いって、どのくらい?」
「72の動作がつながっているのを15分くらいかけてやる」
「72もあるの!?」
「長い!」
「繰り返しの動作もあるし、どの動作も太極拳の原理に基づいているから、思っているほど複雑でもないよ」
「刀の套路もあったよね」
「ああ、武器の套路もやっていく」
「武器!」と拳二が目を輝かせる。
「棍、大刀、剣、槍、など、いろいろあるが、どれも太極の原理に基づいている。これも戦略的に練習していく」
「戦術、戦略…練習にも頭を使うんだね」と太児がつぶやいた。
庵天先生がにっこりと笑った。
「その通り。太極拳は、体を使って、心を整え、頭を働かせる。拳術や武器が上手になるだけじゃないし、強くなるだけでもじゃない。生き方そのものが変わってくる。太極門の生き方だ」
「太極門って?」
「宇宙の中で自然に従って生きることだ。套路は宇宙の物語でもある。ま、とりあえず練習だ」
庵天先生が、落ち葉の重なる芝生の上で、4人に背中を向けて立ち、4人は庵天先生の背中を見て、まっすぐに立った。
「まずは起勢(きせい)から金剛搗碓(こんごうとうたい)」
一同、静かに動き始めた。
湖面に反射する朝の光がキラキラ光っている。
套路が始まってから、およそ20分。
「…収勢。これでおしまい」
庵天先生が手を下ろし、足を揃えた。
一同姿勢を崩す。
「全然わからへんかった!」と晶。
「俺も。どっち向いてるのか分かんなくなった!」と拳二。
「ついていけなーい」と美鈴。
「同じ動作が何度もあった?」と太児。
「とりあえず最初から最後まで通してみた。わからなくても、覚えられなくても、あせらなくていい。体になじませていくんだ」
しばらく、手足をほぐす体操をする。
「体で覚えるとは言ったが、頭でもわかったほうがいい。次は、それぞれの動作の名前の意味を説明しながらやってみるぞ」
庵天先生がまっすぐに立った。
「まずは準備式(じゅんびしき)。中国語の発音だと、ジュンベイシー(zhǔn bèi shì)。何気なく足を広げるんじゃない。ここからすでに武術だ」
「起勢(きせい/qǐ shì )は、物語の始まり」
「金剛搗碓(こんごうとうたい/jīn gāng dǎo duì )。金剛神が碓(うす)を搗(つ)く」
「懶扎衣(らんさつい/lǎn zā yī )。衣を巻き上げている形だ」
「六封四閉(ろくふうしへい/liù fēng sì bì )。六を封じて、四を閉じる。相手を完全に封じ込めるってことだ」
「単鞭(たんべん/dān biān)家畜を追い回すときに使う一本の棒。ここまでは前に説明したな」
「白鵝亮翅(はくがりょうし/bái é liàng chì )は白いガチョウが羽を広げて日光浴している様子だ
「斜行(しゃこう/xié xíng )は名前の通り、斜めに進む」
「搂膝(ろうしつ/lōu xī )。膝をたくしあげる」
「拗歩(ようほ/ào bù )。手足が互い違いに進む」
「掩手肱拳(えんしゅこうけん/yǎn shǒu gōng quán )。肱(ひじ)と拳を、手で掩って隠している、この形のことだ」
「撇身捶(へいしんすい/piē shēn chuí )。撇は払う。捶は打つ意味」
「青龍出水(せいりゅうしゅっすい/qīng lóng chū shuǐ )。龍には烏龍、青龍、黄龍があるが、青龍は、激しい動きをする龍だ。水面から飛び出して襲ってくる青龍と戦っている形だ」
「双推手(そうすいしゅ/shuāng tuī shǒu )。両手で推す。 これはそのままだな」
「肘底看拳(ちゅうていかんけん/zhǒu dǐ kān quán )。肘の底に拳が見える」
「倒巻肱(とうでんこう/dào juǎn gōng)後ろに下がる動作だが、倒は逆になるって意味。逆さまに巻き込むって意味だ」
「閃通背(せんつうはい/shǎn tōng bèi )。素早く後ろに向き直る」
「雲手(うんしゅ/yún shǒu )。フワフワ流れる雲のよう」
「高探馬(こうたんま/gāo tàn mǎ)。は、暗闇で馬を手探りしてるようすで、擦脚(さっきゃく/cā jiǎo )は、馬に乗る動作。蹴りにも使える。乗馬は軍事訓練だったんだ」
「蹬一跟(とうきゃく/dēng yī gēn )。蹬はペダルを漕ぐ意味。跟(かかと)で押し込むように蹴る」
「前趟拗歩(ぜんしょうようほ/qián tāng ào bù)。趟は大またで歩くこと」
「撃地捶(げきちすい/jī dì chuí)。地面を打ち叩く」
「踢二起(てきにき/tī èr qǐ)。飛び上がって2回蹴る。「二起脚」(にききゃく/èr qǐ jiǎo)ともいう」
「護心拳(ごしんけん/hù xīn quán )。拳で心臓を護る」
「旋風脚(せんぷうきゃく/xuàn fēng jiǎo)。 旋風(つむじかぜ)のように足を振る」
「小擒打(しょうきんだ/xiǎo qín dǎ )。小さく捕まえて打つ」
「抱頭推山(ほうとうついざん/bào tóu tuī shān )。この形は頭を抱えているように見えるだろう。このあと、山を推す」
「前招(ぜんしょう/qián zhāo)。前に招くと書くが「招」は「招く」意味ではなくて、「技」とか「方法」といったニュアンスだ。左右の手を入れ替えると、後招(こうしょう/hòu zhāo)」
「野馬分鬃(のまぶんそう/yě mǎ fēn zōng )。野生の馬が鬣(たてがみ)を分けて靡かせて走るようす。鬣を分けるのは風や雨なんだが、風と水は風水、つまり自然を表している」
「玉女穿梭(ぎょくじょせんさ/yù nǚ chuān suō )。玉女が機を織る。玉女は年頃の娘のことで、天女や仙女が行き交うイメージだな」
「うちらみたいなガールズってこと?」と晶が聞く。
「お前らは幼女だ」 と庵天先生が鼻で笑う。
「失礼ね!」と美鈴。
「擺脚(はいきゃく/bǎi jiǎo )は足を外に振り動かす」
「跌岔(てっさ/diē chà )。跌は、つまずくとか転ぶイメージで、 岔は分かれるとか、 そらすってニュアンスだ。地面すれすれまで低く沈み込む」
「金鶏独立(きんけいどくりつ/jīn jī dú lì )。金の鶏が片足で立つ。金鶏は尾っぽの長い金色の鳥だ。動物園にいるぞ」
「十字手(じゅうじしゅ/shí zì shǒu )。十字は交差していることだ。腕を交差させるのが十字手で、手と足を交差させると、十字脚(じゅうじきゃく/shí zì jiǎo )」
「指襠捶(しとうすい/zhǐ dāng chuí )。股を指して打ち落とす」
「痛そうだな…」と拳二。
「そうなの?」と美鈴。
「いや、男子の急所を打つと限ったわけでもない。そして、打ち落とした後は打ち上げる動作につなげる。猿猴探果(えんほうたんか/yuán hóu tàn guǒ )は、猿が果物を探すようす」
「雀地龍(じゃくちりゅう/què dì lóng )孔雀が羽を広げているような、龍が地を這うような」
「上歩七星(じょうほしちせい/shàng bù qī xīng )。上歩は前に進むこと。七星は北斗七星のことだ。頭、肩、肘、拳、胯、膝、脚の七つで敵を打つ」
「下歩跨虎(かほここ/xià bù kuà hǔ )。後ろに下がって虎をまたぐ」
「當頭砲(とうとうほう/dāng tóu pào )。砲は大砲とか爆竹のことだ。頭の前で爆発するってかんじかな?」
「収勢(しゅうせい/shōu shì)。勢いを収める。これでおしまい」
一同、手足をプラプラさせて体をほぐす。
「なんだかファンタジーな名前をつけたんだね。昔の人は」と拳二。
「そうだ。何をどうすると表さず、イメージを名前にしたものが多いな。ふんわりしたイメージだと、動作は無限に応用がきくが、名前で動作を限定してしまうと、応用がききづらい」
「名前って大事なんだね」と太児
「たかが名前だと思うかもしれないが、けっこう重要だ。練習するとき、ガチョウとか馬とか猿とか龍とかを、思い浮かべるといいよ」
晶「ガーガー」
太児「ヒヒーン」
拳二「ウッキッキ」
美鈴「ゴホッホグアラグアラ」
「最後のは何だ?」と庵天先生が聞く。
「龍の声…」
「そうか…ユニークだな…」
太陽が南にあがるまで、一同、套路を何度も繰り返したが、もう汗だくになるような気候でもない。気持ちのいい時間だった。
第四十七話 太児、功夫の修行を受け太極の基を鍛うること
キャンプ場でのランチは、庵天先生の手作りだ。
水餃子と陳家溝家庭式白菜炒、そして鷄蛋麺。
「どうだ。なかなか凝っているだろう」
「キャンプ料理とは思えないけど…」
「でも、おいしい!」
「武術の上達を望むなら、料理もできないとな。太極拳なら中華料理だ。武術を知るには、文化を丸ごと知らないと、本当のところはわからない。当然、中国語も必要だ」
「ええーーーっ。大変!」
「ま、ボチボチでいい」
ランチを楽しく食べて、しばし休憩。そして午後の練習。
「午前に套路を一通りやったが、次は、もっと極端に大きくやってみるぞ。低くなるところは極端に低くやるし、ジャンプもする。陳家溝に伝わる、子供向けの練習方法だ」
庵天先生が金剛搗碓の見本を見せる。
午前にやっていた金剛搗碓とは、とても同じ動作とは思えない。
お尻は地面スレスレにまで沈み、伸びあがるところでは、天に届くばかりに高くなる。
「ええーーーっ。大変!」
「骨の柔らかい子供のうちに、体中の骨の可動域を広げる訓練をしておくんだ。実際に戦う時、こんな動きをするわけじゃないが、将来の上達度合いが断然違ってくる。お前たちが大変に思う以上に、中年の俺の方が大変なんだぞ」
ひんやりと冷たい空気が湖面から吹いてくるが、みんな汗をかき、息も上がる。
「日本の子供たちに太極拳が流行らないのは、ゆっくり過ぎて、楽に思えて、つまらないからだと思うんだ。本当に面白いところは、子供の感性では、なかなかわからないかもなあ。だけど、ここまできつくやると、面白くなってくるだろう?」
「いえ、前から面白かったです…」と太児。足腰が痛くて、辛い顔になってきている。
「俺はこのくらいの方がやり甲斐があるぜ! 少林寺拳法よりキツイんじゃないか?」と拳二。鼻息は荒く威勢がいい。
「女の子もやんなきゃいけないの?」と美鈴。
庵天先生が答える。
「やんなきゃいけないことなんて、ないさ。さっきの普通のやり方でもいいよ」
晶が言う。
「うちはやるで。やるんなら、とことん、全部やりたい!」
「晶ちゃん、いいね~。がんばれがんばれ。そんじょそこらのナンチャッテ太極拳教室なんかとは、比べ物にならないほど実力がつくからな!」
太陽は西に。湖の向こう側の山に沈む。湖面にも、真っ赤な太陽が映って消えていく。
「もう、立てない…」
「足がパンパンだ~」
太児がへたり込み、拳二も落ち葉の上に寝転がる。女子二人も同様だ。
「みんな、よくがんばったな! こんな練習は、中学生くらいまでだ。いまどきこんなことをする教室は、もうない。だけど、本物の太極拳を身につけるための近道なんだ。これをやっておくと、次の段階には、簡単に進めるようになる。理屈じゃない。功夫なんだ」
そうか、これがカンフーってことなんだ…と太児は思った。
拳二が言った。
「腹減った~」
「よし。じゃあ夜はバーベキューだ」
「えっ、マジで!? やったーっ!」
庵天先生の奥さんの春子さんが、いつの間にか来ていて、バーベキューの用意をしてくれていた。
「中華もいいけど、焼き肉サイコー!」
「先生、大盤振る舞いやんか! どないしたん!?」
「お前たちの大活躍と、頑張りにご褒美だ」
「みんな、がんばったわねー。たくさん食べてね」
「満腹になって、家に帰って、風呂で良くあったまるんだぞ」
夜はひんやりと冷えてきたが、焼き肉パーティーで、幸せ気分の一同だった。
第四十八話 太児、狂人の裁きを聞き身を守る理を知ること
「この前の通り魔は、どうやら心神喪失ということで、無罪らしい」
お父さんが新聞を読みながら言った。
「心神喪失って…?」
太児が沢庵をかじりながら聞く。
「心神喪失っていうのは、精神的な病気などが原因で、妄想・幻覚に取りつかれて、現実が認識できなくなって、錯乱状態になってることをいうんだ。刑法第39条では「心神喪失者の行為は、罰しない」となっている。刑事責任能力がないってことだな」
「あの通り魔の人は、牢屋に入らないってこと?
「そういうことになるな。当然、強制入院とかで世間とは隔離されるだろうが、死刑とか懲役にはならないってことだ」
「もし人を殺していても…ってこと?」とお母さんが聞いた。
「そうだ」
「だれも責任を負わないってことなの?」
「親とか家族とか、監督義務者がいれば、そちらに訴えることもできるだろうが、本人には賠償責任もない。そもそも責任を取る能力がないからな」
「じゃあ、殺され損ってことだね…」と太児。
「おいおい、損得の問題でもない。殺され得ってことはないわなあ。たとえ相手が責任能力のある大金持ちでも、殺されて得することなんてない。殴られたり、奪われたりで、死ななかったとしても、賠償請求できたとしても、やられて得なんてないんだよ」
「それは、そうよねえ」
「誰も怪我しなくて良かった…」
「それはすごいことだよ。お前たちがちゃんと動いたからだな。お父さんはお前を誇りに思うよ」
「えへへ…」
「でも、無茶は禁物だ。怪我したり死んだりする恐れはあったんだからな」
「そうよ。お母さん、心臓が止まる程ビックリしたんだから。もう無茶しないでね」
「気をつけます…
「とはいえ、自分は自分で守らないといけない。相手が有罪だろうが無罪だろうが、こっちには関係ない。悪いのは相手でも、死ぬのは自分だ。どっちが正しいとか間違ってるとかは、後からの話だ。死んでからピーピーわめいて、権利や補償を主張したってしょうがないんだよ。まずは強くなければ」
「うん…僕もそう思う」
「わかりやすい暴力の話だけじゃないぞ」
「えっ、どういうこと?」
「詐欺に騙される、みたいな話もそうだ。犯人が捕まって、訴えることができたとしたって、得なんかない。損のうちのいくらかチョコッと返ってくるくらいのもんだ」
「騙す方が悪いと言ったところで、痛い思いをするのは騙される方よね」
「交通事故や火事でもそうだぞ。保険でお金は補償されるかもしれないが、怪我をしたり、大切なものが失われたら、元に戻らない」
「そうかあ…」
「もっといえば、食品や薬のような、社会的に信頼されているものだって、わからんぞ。得体のしれないワクチンをバンバン体に入れて、とんでもないことになったって、補償なんて期待できない。そういうのは、社会問題になって、集団訴訟になって、そこらじゅうでプラカードを掲げてデモ行進が行われたりするが、元には戻らない」
「怖いわねえ」
「無知は弱さだ。だから勉強も必要なんだ」
「べ、勉強するよ…」
「学校の勉強だけじゃだめだぞ。広く世の中のことを知らないとな。といって、新聞やテレビも、嘘や煽りが多い。本当のことは、隠されている。それを知ることがインテリジェンスだ」
「インテリ…?」
「ま、まだそこまでわからなくてもいいけど、なんでもかんでも鵜呑みにしちゃいけないってことだ。教科書に書いてあることであってもだ」
「えーっ、何を信じたらいいの?」
「そんな話もある。こんなことを言う人もいる。昔からそのように言われてきた…。そういうことは知っておくのは大切だ。テストに出るからな。だけど、本当は間違っているかもしれないと、心の片隅ででも、思っておくことだ。物事、なんにでも表と裏がある。正しいか間違いかなんて、時の移ろいとともに変わる。絶対ってことはない。難しいかもしれないけどな…」
「なんとなく、わかったよ」
「それでいい。でも、学校の先生には、あまり突っ込まない方がいいぞ。内申書に響く」
「うん、思うだけにする。じゃあ、行ってきまーす」
そう言って、太児が学校に出かけた。
第四十九話 太児、五常の徳を聞き勇義の心を知ること
学校は厳重に警戒されていた。校門の前に先生が立ち、生徒を見守り、不審者が入らないようにチェックしている。
「今さら襲ってくる人もいないと思うけどなあ…」と太児が言うと、美鈴が「模倣犯が現れないようにってことよ」と答える。
校門の脇で、警察官に止められている男がいた。
「あっ、誰かお巡りに捕まってんでー」と晶。
「あっ、ヒロさんだ。こんなところに来るなんて、アホだな」と拳二。
登校してきた太児達を見て、ヒロが大声を上げた。
「おおーい! 太児! お前を待ってたんだよー!!」
「…知らんふりしようか」
「そんな、かわいそうだよ」
太児達の知り合いだということと、身元が照会できたということで、ヒロは警察官から解放された。
「何しに来たの?」
「これだよこれ。お前たちに渡しておこうと思ってな。新兵器だ。こないだ俺が使った、スパイダーネットの簡易版だ」
「えっ、そんな名前だったの?」
「今、思いついた。これは、クラッカーを改造したものだ。ひもを引っ張れば、パン!と音が鳴ってネットが半径3mの円状に飛び出して、敵にからみつく。身動きを封じたら、逃げるもボコるも自由自在だ。お前たちにやる。また、凶悪犯に出会ったときに使え」
「こんなん、銃刀法違反とか軽犯罪にならへんの?」
「銃でも刀でもないじゃんか。パーティー用のクラッカーだ。そうだ、君たち勇敢なガールズにも、あげよう」
ヒロはリュックから、ザラザラとクラッカーを取り出し、4人に3つづつ手渡した。
「うちらガールズやて」
「ヒロさん、話せる人ねえ」
「俺は女性に敬意を持っているからな。子供でもおばあちゃんでも、いたわる精神が必要だ。弱きを助け強きを挫くのが俺のモットーだぜ」
「ヒロさん、ステキ!」
「ふふっ。頼りにしてくれよ。ちなみにそのスパイダーネット・フォー・キッズの不発率は30%だからな。3つのうちひとつはヒモが抜けるだけだ。ハズレだとわかったら、おちついて、すぐに2発目3発目を撃つんだぞ」
「…あ、ありがとう」
ヒロは手を振り、かっこよく徒歩で去っていった。
堤先生の道徳の授業だった。
「この前は怖かったわねえ。でも、みんなの落ち着いた行動と、勇敢さと智慧のおかげで、誰一人怪我無く、無事でした。すばらしかったです」
クラスのみんなが、拳二と太児の方を見て、拍手をした。
「今日は、五常の徳のお話をするわ。孔子や孟子といった、昔の中国の思想家が、人として大事なことだと教えたものよ」
堤先生が黒板に書いた。
仁…ほどこしの心、やさしさ
義…人助けの心、義侠心
礼…礼儀、礼節の心
智…真実を理解できる智恵
信…信頼されるような人になること。言葉と行動が一致すること。人をあざむかぬこと。ウソをつかないこと。
「この5つを五常の徳というの。これにあと二つつけ足して、七徳ということもあるわ」
堤先生が黒板に書き加える。
忠…まごころを尽くすこと
孝…親孝行や兄弟への思いやり
厳…自らを厳しく戒めること
勇…正しいことを貫く勇気、人を守る勇気
「全部足したら九徳やん」と晶がつっこむ。
「このうちから二つ選んで足して、七徳というのよ」
拳二が嬉しそうに言った。
「そんなの知ってるよ。少林寺拳法の練習の前に、みんなで暗唱するもんね」
「へえ。どんなの?」
拳二は深く息を吸ってから、一息に声を出した。
「道は天より生じ、人の共に由る所とするものなり、その道を得れば、以て進むべく、以て守るべく、その道を失すれば、即ち迷離す、故に道は、須臾(しゅゆ)も離るべからずと、いう所以なり。人生れて世にある時、人道を尽すを貴ぶ、まさに人道に於て、はずる処なかれば、天地の間に立つべし」
息継ぎして、ちょっと考えてから再び声を出す。
「若し人あり、仁、義、忠、孝、礼の事を尽さざれば、身世に在りと雖も、心は既に死せるなり、生を偸(ぬす)むものと云うべし。凡そ人心は、即ち神なり仏なり、神仏即ち霊なり、心にはずる処なければ、神仏にもはずる処なし。故に一動一静、総て神仏の監察する処、報応昭々として、毫厘(ごうりん)も赦さざるなり」
流れるように続ける拳二。
「故に天地を敬い、神仏に礼し、祖先を奉じ、双親に孝に、国法を守り、師を重んじ、兄弟を愛し、朋友を信じ、宗族相睦み、郷党相結び、夫婦相和し、人の難を救い、急を援け、訓を垂れて人を導き、心を至して道に向い、過を改めて自ら新にし、悪念を断ちて、一切の善事を信心に奉行すれば、人見ずと雖も、神仏既に早く知りて、福を加え、寿を増し、子孫を益し、病い減り、過患侵さず、ダーマの加護を得られるべし。どうだいっ!」
クラスは拍手喝采だ。
「拳二くんすごいわねえ。よくそんな長いのを覚えられたわね。武士道と教育勅語の精神がモリモリってかんじだけど、意味は分かるの?」
「わかんない!」と拳二は胸を張る。
「わからんと言うとるんかーい!」と突っ込む晶。
堤先生が言う。
「むかし、江戸時代の寺子屋では、論語を、声に出して暗唱する勉強をしていたのよ。素読っていってね。意味は分からなくても、繰り返すことで考え方や価値観が、無意識のうちに身についたのね。大事なことよ」
太児は、少林寺拳法クラスではそんなことをしていたのか、剣道クラスではそんなのなかったなあと、思い出していた。
後ろの席の少年が手を挙げた。
「はい。伊東道戒くん」
「私も小さい頃から、毎日意味も分からず、般若心経その他のお経を唱えておりました。声そのものが仏行です。声に出して読むことで功徳(くどく)が積まれるのであります。今は、お経の意味が少しはわかるようになりましたが、よくわからないこともありますし、いつも新しい気づきがあります。生涯かけて学び深めていくものだと思います」
「そうね。五常の徳も七徳も九徳も、生きている限り大切にしていくものよ。今日は、このことについて、みんなでディスカッションしていきましょう」
この日の道徳の授業は、いつになく活発に盛り上がった。堤先生も、ふっきれたような清々しい笑顔でディスカッションに参加していた。
第五十話 侠太郎、義の珠の由来を語り、煉魂計画の影あらわること
庵天先生のアパート。
窓から見える湖面に星明りが映る。
太児の父、侠太郎がきていた。
アパートには他の住人もいるはずだが、ひっそりしていている。
「…義の珠に関わる経緯が、かなり判明してきました」
「おお、早いな。聞かせてくれ」
庵天先生が、棚から木箱を出し、蓋を開けた。「義」の文字が黒々と太く書かれた木の玉が入っている。
「テツさんが、商店街で諍いを起こしたチンピラ売人に制裁を加え、所持品を没収したら、カバンの中に珠が混じっていた、と話していましたが…その売人、やはり本物の薬物ディーラーだったようです」
「テツさん、勝手に制裁を加えちゃうのね」
春子が驚く。
「驚くべきことに、その薬…C国が開発していた例のゾンビ化薬物だったんです」
庵天先生が目を見開いた。
「…太児たちの学校に現れた、あのゾンビ男か?」
「彼が使った可能性が高いです。もしかすると違う売人から買ったのかもしれませんが、出どころは同じかと」
「テッちゃんは、薬物は没収しなかったのか?」
「商品は売人がさばき切った後だったようです。手元に残っていなかったそうで。我々の組織の方で売人の動向を探って突き留めました」
「テッちゃんが危ない薬に触れなくて良かった」
「ただ、売人が持っていた義の珠を見て、骨董品として値打ちあるかも…と、いただいちゃったようで…」
「それで、C国の特務機関に狙われたわけか…」
庵天先生が苦笑い。
「ええ。この薬物、C国の国家プロジェクトの産物です。本来は、忠誠心を操作する薬を開発する計画だったようです。プロジェクト名は煉魂(れんこん)計画。薬は「黒義素」(ヘイイースー)と名付けられていました」
春子が眉をひそめた。
「そんな薬を…研究してたの?」
「時間をかけて洗脳するより、薬でてっとりばやく忠誠心を植え付けようとしたのでしょう。ところが実験に失敗して、被験者の脳が破壊され、暴走・ゾンビ化するという副作用が発生しました」
「おおお??」
「それでも計画は中止されず、むしろ混乱を起こせる武器として、他国や辺境での実験に利用されていたようです」
庵天先生があきれたようにつぶやく。
「狂ってるな……」
「さらに問題なのは、義の珠がその研究所に保管されていた点です。古代中国の徳気を帯びた神秘物質として、オカルト的な側面から研究対象になっていたらしいです」
「あいつら、共産主義の癖にオカルト好きだからな。始末が悪い」
「その研究チームに他国のスパイが紛れていて、珠をすり替え、密輸用の薬物の中に紛れ込ませて国外に持ち出したようなのです」
「C国の研究所に…他国のスパイ? 日本じゃないだろうな」
侠太郎が軽く笑った。
「日本にそんな行動力があれば、逆に見直しますが…おそらくロシアかインド。確証はありませんが。結果的に、珠は密輸品と一緒にルートに乗り、日本のチンピラ売人に流れてしまった。それにC国が気づき、極秘に回収工作を開始。そこに、テツさんが偶然に割り込んでしまった、という構図です」
庵天先生がしばし黙考して、口を開いた。
「…なるほどな。運命ってやつかもしれん」
庵天先生が机の上に置いた珠を見つめながら言った。
「ところで、この義の珠の不思議な力…本当にあるのかな?」
「伝承では、赤く光り、持つ者を守る、と言われているそうです。ただ、確かな記録は残っていません。ですが、テツさんが工作員に殺されかけた時に、珠が一瞬、赤く発光したと、思い出したように言ってました」
「聞いたのか?」
「それとなく」
庵天先生は、またしばらく黙る。
「…そういえば、暗闇の中で、ぼやっと赤い光を俺も見た気がする。何かのランプかと気に留めてなかった。俺も衰えてきたかなあ」
庵天先生が目を閉じて言った。
「……義を貫く者を、珠が選んだのかもしれんな」
第五十一話 侠太郎、智の珠を持ち帰り、七徳探索はじまること
「この義の珠、どうします?」と、侠太郎が庵天先生に聞いた。
しばらくして、庵天先生が答える。
「珠が選んだ者が持つのがいいような気もするが、テッちゃんに持たせておくのも不安だ」
「骨董屋に売り飛ばしかねないものね」と春子。
「連環の組織で管理しておくのが安全だろうが、太児の持つ珠との反応も見てみたい。しばらく俺が預かっておこう。なに、ボロアパートに見えて、ここもセキュリティは万全だ」
「存じておりますよ」といって、侠太郎がニヤッと笑った。
「知ってたの?」と、春子が笑う。
「これでも、連環の諜報員の端くれ、侠眼と呼ばれた私ですよ。このアパートの地下がシェルターと武器庫と秘密通路になっていることは承知しております。他の住民達がカモフラージュであることも」
「さすがだな。でも、俺たちが貧乏なのはホントだぞ」
「それも、承知しております…」
やや渋い顔をした庵天先生が話を戻す。
「七徳伝承が本当なら、他にも珠があるってことだ。ひきつづき情報を集めてくれ」
侠太郎が笑顔を見せる。
「はい。実は智の珠も発見しました」
「おおお、さすが侠眼。仕事が早い!」
「東京の民間大学教授のもとにありました。賀流源伯人(かるげんはくと)という古代中国語の研究者に、奇妙なことが起こっていたのです。読めなかった言語が急に読めるようになり、センセーショナルな論文を発表したとか」
「読めない言葉が、珠の力で読めるようになった?」
「教授は、そのちょっと前に、智の珠を入手して、研究室に祀っていたようなのです。そこから、不眠不休で研究が進んだらしいですね。ただ、本人の精神状態もだいぶおかしくなっていたようで、夜な夜な幻視や頭痛に苦しんでいたらしいです」
「智の珠の副作用かな? 知恵は光にもなるが、悪知恵は身を亡ぼすからなあ」
「論文発表後、得体のしれない電話やメールが来たり、監視されている気配にも悩まされていたそうで」
「C国がらみかな?」
「おそらく…。それからは珠を肌身離さず持ち歩くようになったようですが、気の毒なことになる前に、私の方で引き上げさせていただきました」
「よくC国の工作員を出し抜けたな」
「これでも連環の一員ですから…これが、智の珠です」
侠太郎が懐から布に包まれた小箱を取り出し、両手で差し出した。
庵天先生が、箱を開けると、黒々と「智」と筆書きされた木の玉が現れた。
「これか…やっぱり光るのかな?」
「研究室の窓から、金色の光が漏れてくることがあったと、学生の証言がありました」「金色か…。ゴージャスだな。金色の光は仏の智慧や慈悲の象徴だもんな」
「今後、教授の研究が止まるようなら、珠の力が関係していたことになりますね」
「そうだな。そちらも追跡しておいてくれ」
「教授が論文を書けなくなって、おちぶれちゃったらかわいそうだけど…珠が彼を選んだのかしら?」
「わからんなあ。珠に試されたのかもしれないな…」
「ちょっと怖いわね…」
「これも、ここで保管しておこう。全部揃ったらどうなるのやら」
「私は次の珠を追います。「信」の気配が、台湾から届いています」
「よし頼んだ。だが…急がず、惑わされずにな。うっかりすると、お前自身が珠に試されるかもしれないぞ」
侠太郎は深くうなずき、庵天先生のアパートを後にした。
第五十二話 太児、書初めにて徳を記し文武の理を知ること
学校では、お習字の時間。
新年を迎えて、書初めだ。
教室には静けさが流れ、みんなが硯に向かって墨をすっている。
「……あっ!」
太児が手元を滑らせ、机に墨をこぼしてしまった。真っ黒な水たまりが広がる。
「落ち着いて…。心を鎮めてね…」
堤先生が優しく声をかける。
晶が手を挙げて聞いた。
「先生、墨汁使ったらあかんの?」
堤先生がニッコリ笑って言う。
「墨をすることにも意味があるのよ。この時間が、心を整える禅のような時間になるの。精神を集中させて、硯に向き合うのよ」
しばらく教室には、墨をする音だけが響いていた。
拳二が筆を取り、「拳禅一如」と大きく書く。
「拳二くんは少林寺拳法ね。武芸十八般に書道は入っていないけど、文武両道は武士のたしなみ。宮本武蔵も剣だけじゃなく、書や絵もたしなんだのよ」
太児はその言葉を聞いて、楊露禅から聞いた琴と太極拳の話を思い出した。
「書って、太極拳のリズムにも似てるのかも…」と、心の中でつぶやいた。
「書は、絵に似ているとも言えるわ。空間の使い方、縦横の構成、止め・はね・払いの動き。音楽のリズムとも通じるところがあるの」
堤先生の言葉に、真剣な気持ちになる。
「それに、書は人の性格も映し出すのよ。几帳面な人、大胆な人、雑な人、うっかりさん、きちんと後始末をする人…心と向き合って書いてみてね」
太児は一枚目に「仁義」と書いた。
「いいわねえ、太児くん。思いやりと正義の心。でも、仁義だけだと、なんだか…おひかえなすって!ってかんじね」
堤先生が、おひかえなすって! といいながら、ガニ股に脚を広げ、右掌を腰の前に差し出す。
小学生の太児には、何のパロディなのかよくわからない。
「紙が小さくて、七文字は書けないんです…」と太児。
「何枚使ってもいいわよ…」
二枚目に字を小さくして「礼智信義勇」と続けた。
「筆で小さい字を書くのは難しいな…」
隣を見ると、伊東道戒がさらに小さな字で、何やらびっしりと書いている。
「それは?」
「般若心経です」
その達筆ぶりに、みんな思わず見入った。
一方、美鈴の紙には「八方美人」の文字。
「どうしてこれを?」と堤先生が聞くと、
「どこから見ても、美しい人になりたいからです!」
「……ちょっと意味が違うかもね」
晶の書いた作品は「確定申告」
「なんでまた……?」
「脱税は重罪やで」
「立派よ、晶ちゃん…」
堤先生は思わず涙ぐみながら、筆を取った。
「私も、心を込めて書いてみようかしら」
半紙に書いた文字は「勇人」
「女の子なら智恵っていうのもいいわね…」
堤先生の表情に、不安と幸福が混じった色が浮かぶ。
「ええやん、先生! チエって、なんか懐かしい響きやわ」
生徒たちは次々に、自分の想いを込めた言葉を半紙に綴っていく。
「努力」「勝利」「友情」「全集中」「笑止千万」「生殺与奪」「猪突猛進」「悪鬼滅殺」「夜露死苦」「愛羅武勇」「天上天下唯我独尊」…
堤先生が最後に言った。
「最近は、年賀状も書かなくなって、筆を持つ機会が減ってきているわね。でも、書道は日本の大切な文化。おうちでも、ぜひ筆で字を書いてみてね」
放課後の公園で。
太児の作品「仁義礼智信義勇」を見て、公園に来ていた庵天先生がぽつりとつぶやいた。
「なんでまたこの字を選んだものか…。運命なのかなあ」
「えっ、学校の授業で習ったんだよ」
「そうか。うん。いい筆の流れだ。…書ってのは、ただ字を書くだけじゃない。呼吸と心と、動きの型が合わさった芸術だ」
太児がうなずく。
「太極拳にも通じるんだね」
庵天先生は、笑って言った。
「まさにそうだ。太極拳は、呼吸に合わせてゆっくり動くだろう。ゆるやかな動きの中に芯がある。書も同じだ。ゆったりと筆を運ぶ中に重心と勢いのコントロールがある。濃淡は剛柔だし、空間の使い方は、戦術だ」
庵天先生が、文字を空間に書くように手を振る。
掌が鈎手に変化する。
「…俺は昔から筆が苦手でなあ。ちゃんと習っときゃよかったって、今ごろ後悔してるよ。太極拳の名人は、書も上手じゃないと、カッコがつかん」
少し寂しげに笑った。
「若いころは、字なんて読めりゃいいと思ってたけどな、年を重ねてわかったよ。筆ってのは、心を写す鏡だってな」
庵天先生が小枝を拾い、少し迷ったあとに、一文字、砂に書いた。
「静」
「……こんな字が、自然に書ける人間になりたいもんだ」
第五十三話 太児、台湾に迷い込み、杜毓澤が忽雷架を演ずること
太児の父の侠太郎は、海外出張とのことで、家を空けていた。
会社の取引のために台湾へ行くとのことだった。
これまでも一週間や二週間、お父さんが海外出張に出かけることはよくあった。
出張先から、その国らしい絵葉書が届くのは、ちょっとした楽しみだった。
お土産はもっと楽しみだ。
だけど、今回は絵葉書も電子メールも、送られて来ない。
「お父さんはまだ帰ってこないの?」
「今回は長いわねえ。忙しいんじゃない?」
お母さんは心配している風でもないし、太児もいつものことだとは思うのだが、今回に限って、なんだか気がおちつかない。
お父さんは、庵天先生を昔から知っていた。
庵天先生は、日本を守るための秘密組織の人だった。ただの武術の達人じゃなかった。
お父さんの本当の仕事って何だろう。
お母さんは知らないのかな?
お父さんとお母さんって、どうやって知り合ったんだろう?
心を静めようと、ピアノに向かった。
「月の光」を弾く。今夜は美しい満月だ。
ピアノの上に置いていた木の玉が、青く光った。
夜明けだった。
美しい満月が見えていたはずだが、なんとなく、空気が粉っぽい。
どうやら、都会の街中のようだ。
ビルの谷間から、太陽が顔を出し、明るくなってきたが、なんだかモヤッとしている。
マスクで口を覆った人たちが、スクーターに乗って、交差点を行きかう。
排気ガスをモクモクはきながら、古いスタイルの自動車が走る。
クルマは道路の右側を走っていて、ハンドルは左側についている。
赤煉瓦が敷き詰められた歩道が、びっしりこびりついた赤い点々で汚されている。
信号待ちのトラックの運転手が、窓から赤いつばを吐いた。
「血を吐いてる??」
公園には、社交ダンスをしている人たち、ラジカセのカラオケに合わせて歌っている人たちが大勢いる、朝市の準備も忙しそうだ。
そして、太極拳をしている人たち。公園の中心広場で20人ほどの人が円を作っていた。
輪の真ん中で、ジーパンにスニーカー、紺の長袖Tシャツ、ハンチング帽をかぶったオシャレな老人が、套路を演じていた。
歳は…東山先生くらいだろうか?
周りの人たちは、老人の動作に合わせて太極拳をする人、おしゃべりしている人、猫と遊んでいる人など、さまざまだ。
「ぼくの習った太極拳と、なんとなく似ているけど…、ちょっと違うような…」
太児が老人を遠巻きに眺めていると、輪の中からおばさんが、声をかけてきた。
「ぼうや、興味あるんなら、私たちと一緒にやりなさいよ」
「え、ええ? でも、ぼくの知っているのと違うみたいだし…」
「おや、あなた太極拳ができるの? 違ってたっていいのよ。楽しくやればいいんだから」
「そうそう、日の出とともに太極拳。健康の秘訣よ!」
おばさん達に引っ張られて、太児は、輪の中に入れられてしまった。
「おや、見慣れない子じゃな。子供は歓迎じゃよ! 一緒にやったらいい!」と老人が、太児に笑いかけた。
スラッと背が高く、姿勢がいい。今までタイムスリップした時代の老人たちと違い、髭もない。
「杜毓澤(と・いくたく)先生は、90歳なのよ! こんなに元気なのは、太極拳のおかげなのね!」
「えええっ、90歳??」
「ははは。おかげさまで、いい時代まで長生きできたよ。戒厳令も解除されたしのう」
太児がやってきたのは1987年の台湾だった。
「ええっ、戒厳令って…今まで戦争だったの? それで道が血まみれだったのか…」
「馬鹿ねえ、あの赤いのは檳榔(ビンロウ)を嚼んで吐き捨てた跡よ。紙タバコみたいなものね。マナーのない人たちがそこらじゅうでペッペやるのよ。いやよねえ」
「ビンロウを知らんとは、ぼうやは他所から来たのかね?」
「う、うん…。日本から…」
「ほう、日本から? そうかそうか、日本人は友達だ。歓迎するよ」
勢いに押されて、みんなと一緒に套路をやってみる。
「ぼうや、なんだかサマになってるじゃない。日本で習ってたの?」
「う、うん、ちょっとだけ…」
「なんだか私たちの太極拳とは、ちょっと違うわね」
「ほんと、ちょっと見せてちょうだいよ」
「見せて、見せて~」
パチパチパチ。
拍手に押されて、引っ込みがつかない太児。輪の真ん中に押し出されてしまった。
しかたなく、庵天先生から習っている太極拳の套路を、やってみた。
起勢、金剛搗碓、懶扎衣、六封四閉、単鞭…。
ゆっくり、丁寧に…。
「あら、上手じゃない!」
「小さいのに堂々としているわね!」
「ちょっと地味な感じだけど!」
長老みたいなおじいさんの前で、恥ずかしいなと思いながら、杜毓澤と呼ばれた老人をチラッと見てみると、老人は、静かに涙を流していた。
「えっ」と戸惑う太児。
周りのおばさん達も、戸惑っている。
老人が静かに口を開いた。
「それは陳家溝の老架式じゃないか…。わしが若い頃、陳延熙老師に教わったものじゃ…」
杜毓澤老人が、休憩を宣言し、昔話を語ってくれた。
…皆も知っとろうが、ワシは大陸出身じゃ。陳家溝からも近い河南省博愛県の、わりとええとこの家柄のボンボンとして生まれてのう。父親の杜嚴は清朝の進士じゃった。進士というのは、科挙に合格した官僚じゃ。つまり、エリートだったわけ。
当時の名家では、護衛に武術家を雇っていたそうだ。ワシの家では、かの有名な陳発科の父親の陳延熙を雇っていたのじゃ。そんでワシは18歳の頃に、陳延熙老師より太極拳を学ぶことができた。それが、いま、坊やがやって見せた套路じゃ。太極拳の里、陳家溝で行われていたオーソドックスなスタイルじゃな。
生粋の陳氏なら、家ごとに伝承された型をやるもんじゃったが、うちは陳氏じゃないのでの。陳家溝の隣村で流行っていた忽雷架や炮捶などの一風変わった型も、興味の向くまま習うことができた。
師父の子息の陳発科は、ワシより10歳年上だったもんで、ワシは発科兄さんと呼んでおった。発科兄さんは、陳氏太極拳の指導者として北京に呼ばれて、太極拳の普及に努められた。
ワシは、大学で機械工学を専攻しとった流れから、兵器製造の技術者として国民党軍に入ったのじゃが、革命ゲリラの共産党との国共内戦があってのう。国民党は共産党に押されて、大陸から追われ、ここ台湾に逃げてきたのじゃ。40年ほど前のことじゃ。ワシもその時に故郷を離れ、ここに移住してきた。
それ以来、縁あって台湾で武術普及に尽力させてもらってきたわけ。こちらでは忽雷太極拳を教えておる。すっかり忘れておったが、若かりし頃に学んだ老架式を久しぶりに見て、懐かしく、感動してしまったのじゃよ…。
「ぼうや、名前は?」
「柔太児です」
「ほほっ、名前の通りじゃ。まだ太極拳を学び始めで、柔ばかりやっているいところじゃな。太児君にはまだ早いが、老架式を演じてもらったお礼に、太極拳の剛の面も披露させてもらおうかの」
「きゃあ、久しぶりに先生のパワフルバージョンを見れるわ!
おばさんたちが歓声を上げた。
杜毓澤老人が、輪の真ん中に立ち、緩やかに起勢を始めた。
緩やかに始まったかと思ったとたん、
フンッ! パシッ!
震脚が激しく鳴り響き、気合のような息遣いが迸る。
動作の順番こそ同じようだが、同じ太極拳とは思えないほど、鋭く激しい。地面を滑り、回転し、跳躍し、激しく震える。目で追えないほど早く、とても90歳とは思えない。
「…けっこう疲れるんでの。普段はあんまりやらんのじゃ」
套路を終えた杜毓澤老人だが、息ひとつ乱れてはいない。
「す、すごいです…」
「面白いじゃろう? 最近は日本でも太極拳が盛んになっているそうじゃが、大陸の新政府が制定した、ゆっくり健康体操ばかりで、伝統的な太極拳は伝わっていないと聞く。太児君は、どこで習ったのじゃね?」
「ぼくの先生が、陳家溝村で修行したと言ってました」
「ほう、大陸の先生かの?」
「いえ、日本人です」
「ほう、物好きな日本人もおるのじゃなあ。そういえば、この台湾に学びに来た日本人もおったの。台湾は武術の宝庫ということで、蟷螂拳やら八極拳やら八卦掌やら、片っ端から勉強しとったらしい。太極拳は、ワシの弟子の徐紀が教えとったそうじゃが…。太児君は知っとる?」
「もしかして、マンガの作者の人では…?」
(※伝説的武術漫画「拳児」が少年サンデーで発表されたのは1988年。太児がタイムスリップして来た年の翌年ですね)
「ほう、武術マンガかね? 面白そうじゃな。日本の漫画は台湾でも人気じゃ。ドラえもん(小叮噹)やらブラックジャック(怪醫黑傑克)は、ワシも好きで、読んどるよ。タイムマシンがあれば、革命前の大陸に戻ってみたいもんじゃなあ」
タイムマシンと聞いて、太児はドキッとする。
中共(中国)も民国(台湾)も、お互い相手の政府を認めとらんから、行き来できんのじゃよ。行き来してるのはスパイくらいかの? ワシの知っとる人たちは、もうあらかた亡くなっておるじゃろう。昔に帰って話したり、手合わせして楽しみたいものじゃ」
杜毓澤老人が遠い目をする。
「…発科兄さんの子供たちなら、もしかしたらまだ生きとるかもしれんのう。生きてりゃ80歳くらいか? 次男の照旭は文化大革命の時に命を落としたと聞くが…。不幸な時代だったよ…。台湾は自由で民主的になってきておるが、大陸はどうなんじゃろうの。ワシが今さら戻ることもあるまいが、気にはなっとるんじゃよ…」
第五十四話 杜毓澤、信の珠を語り、故宮に宝の眠ること
「ところであなた、台湾には観光旅行に来たの?」
輪の中の年配の女性が、太児ににこやかに話しかけてきた。
「え、ええ。まあ…」
「台湾に来たのなら、故宮博物館には絶対に行かなくちゃ。もう行った?」
「え、まだです…」
「じゃあ、ぜひご家族と行ってね!」
「あ、は、はい…。ところで、故宮博物館って?」
太児の問いに、おばさんの一人が身を乗り出し、目を輝かせながら語り出した。
「大陸の歴代皇帝たちが集めた宝物が、何千点も展示されているのよ。北京にも同じ名前の博物館があるけれど、台湾の方がすごいって言われてるの。一日じゃ回りきれないわ」
「そうそう! 特に翠玉白菜っていう翡翠でできた白菜の彫刻は絶対に見なきゃダメよ。小さいのに、葉っぱのひとひらひとひらが本物みたいに繊細なの。キリギリスがちょこんと止まってるのまで、ちゃんと彫ってあるのよ」
「へえ…白菜が彫刻に?」
「そうよ。白菜はね、清廉潔白の象徴とされていて、お嫁入りのときの縁起物なの」
もう一人が楽しげに付け加えた。
「それにね、肉形石っていう、豚の角煮そっくりの石もあるの。お腹がすいちゃうくらいリアルでね、まるで本物の煮込み肉みたいなのよ」
「行くなら朝早くがいいわよ。最近は外国人観光客も多くて、混むのよ〜」
太児は、おばさんたちの熱意に圧倒されて、思わずうなずいた。
「なるほど……行ってみます。ありがとうございます」
「それでいいのよ〜。観光に来たなら、文化にも触れなくちゃね!」
少し考え込んだ太児が、ふと首をかしげて尋ねた。
「でも…どうして、大陸の宝物が、台湾にたくさんあるんですか?」
途端に、おばさんたちの表情が少し真剣なものに変わった。一人が静かに口を開く。
「それはね…さっき、杜毓澤先生もおっしゃっていたように、国民党と共産党の争いがあったの」
別のおばさんが続けた。
「1949年、共産党が中国本土を支配するようになったとき、国民党は台湾に逃れてきたの。そのとき、北京の故宮博物院から、たくさんの文化財を命がけで運び出したのよ。ただの移送じゃなくて、保護だったの。泥棒じゃないのよ」
「へえ…そんな歴史が…」
「そう、あの時代、多くの人が文化財と一緒に台湾に渡ってきたのよ」
杜毓澤がゆっくりと口を開いた。
「あの頃の革命ゲリラどもに、古い伝統や文化を敬う気持ちなんかなかった。ぶっ壊すことと、ぶっ殺すことしか知らん奴らじゃった。だから、北京から文物を守るため、ひそかに移送したんじゃ。3年かけてな」
彼は声を少しひそめた。
「太児君が興味を持ちそうな話でいえばな…太極拳にまつわる宝も、武術家達と一緒に避難してきたのじゃ。陳家溝に伝わる七つの珠のうちの一つ、信の珠。それを、ワシが預かった。軍属のエリートじゃったゆえ、信頼されたのじゃろう」
「七つの珠…?」
「そうじゃ。七珠はそれぞれ、仁・義・礼・智・信・厳・勇の徳を象徴しとる。陳王廷の木剣から削り出したと言われる珠じゃ。それが代々、陳家溝の守り神のように伝えられておった」
杜毓澤は、懐かしむような表情で続けた。
「ワシが預かった信の珠は、人と人とのつながり、信頼、誠実さを象徴しとる珠じゃった。だが、共産主義者にとっては、そんなのは迷信、見つかれば燃やされるにきまっとる。だから七つの珠は、それぞれ別々の者に預けられた。リスク分散じゃな。ワシが信を受け持ったのは、偶然か、あるいは何かの縁かもしれん」
「その信の珠も、故宮博物館に?」
「そうじゃ。非公開の保管庫にある。展示するような美術品ではないからの。だが、その珠は、ただの宝ではない。ワシら軍人達の命を救った、特別なものじゃ」
杜毓澤は一拍おいて、静かに語り始めた。
「四川の雪山を越える過酷な道中、吹雪に閉ざされ、前にも後にも進めぬ中、日が暮れた。絶望的な状況じゃ」
太児はゴクリとつばを飲み込む。
「台湾生まれの淑女諸君には、雪山はなじみがないかのう?」
「あら、冬の玉山に登ったことがあるわよ」
「私もツアーで登ったわよ。日本の富士山より高いのよ~」
太児も富士山には登ったことがあるが、夏だった。
「観光で行く分には安全に配慮もあろうが、その時は隠密行動だったのじゃ。真っ暗けで身動きも取れん。暖房もない。死を覚悟したが、しかし、宝物と珠はなんとしても守らねばならん。千年もの歴史を守る使命じゃ。期待と信頼を裏切るわけにはいかん。死んでもミッションを遂行せねば」
太児もおばさん達もゴクリとつばを飲み込む。
「その時、珠が緑色に光り出したのじゃ」
太児は目を見開いた。
「…光る?」
「そう。周りを照らすほどではないが、希望の光に見えた。なぜか、助かるっちゅう確信が湧いて、光に導かれるように進んだ。そして、山中の古い廟にたどり着いたのじゃ。そこで吹雪が治まるまで生き延びることができた。信の珠は、信じる力を呼び覚ます宝なのかもしれん」
太児は、胸が熱くなった。
「陳家溝には、7つの珠が揃ったとき、腐敗した政権や歴史は亡び、新しい世界が始まるとの伝説があった。天命も下されておらぬ共産ゲリラどもが大陸を支配している今の異常事態が、永遠に続くはずもない。10年後か、あるいは100年後かわからんが…。その時、珠の不思議な力が働くかもしれぬ。ま、ワシが見届けることあるまいがの。若者達を信じて、未来を託すとするわい…」
第五十五話 庵天、台湾へ発たんとし、太児が図説を託さるること
太児が目を覚ますと、ベッドの上だった。
「太児、起きた? あなた昨日、ピアノを弾いているうちに寝ちゃったのよ。もう、すっかり重くなっちゃって、ベッドまで運ぶのが大変だったわ」
「えっ、そうだったの? ごめんなさい…」
太児は、起き上がって、ピアノの上に置いていた木の珠の入った袋を、首にかけた。
「お父さんからはまだ何も連絡はないの?」
「まだないわねえ」
「…故宮博物館に行ったんじゃないかなあ…と思う」
「あら、どうして?」
「なんとなく…」
「故宮博物館なんて、良く知ってたわねえ。あなたが生まれる前に、お父さんと二人で行ったことがあるわ。一日で全部は回り切れなくて、お父さんは残念がっていたの。もしかしたら、お仕事のついでに、寄るかもね」
その日、ポストに故宮博物館の絵葉書が届いていた。お父さんからだ。
裏面は博物館のイラストだった。
表にはお父さんの字。
「拝啓 台湾は旧正月でにぎわっています。日本より暖かで過ごしやすいです。久しぶりに訪れた故宮博物館を堪能しました。探しものは見つからず。まだ当分こちらかな。風邪ひかないように健康でお過ごしください」
消印は「台北」の文字と、旧正月の日付スタンプが押されていた。
太児は絵葉書をじっと見つめた。描かれた博物館の建物のシルエット、その後ろに見える山の影。
「やっぱり、故宮博物館だったんだね…」
「太児、当たったわね」
お母さんが笑った。
「探しものは見つからずって、何を探してるんだろう…」
太児は、首にかけた木の珠を袋の上から握りしめた。
この珠は、庵天先生から託されたものだ。たしか、7つある珠の一つだと言っていた。
この珠に導かれ、昔の台湾に行き、杜毓澤に出会った。
七珠はそれぞれ、仁・義・礼・智・信・厳・勇の徳を象徴していて、杜毓澤は信の珠を預かって、今は故宮博物館にあると言っていた。
もしかして、お父さんは信の珠を探しに行ったのでは?
でも、なぜ?
庵天先生は、知っている?
晶ゃんのお父さんが、うっかり手に入れて、外国のスパイに狙われたものって、なんだったんだろう?
春子さんが没収したみたいだったけど、あれも7つの珠の一つだったとか?
わからない。
でも、いろいろ繋がってくる。
どうなってるの??
「あら、太児君、いらっしゃい」
春子が、迎え入れてくれた。
「寒かったでしょう。雪が降ってきたわね」
「先生は…?」
「ちょっと今、でかけているわ」
「えっ、それは、なにかの任務で? お父さんと関係あるの?」
「ええっ…」
ちょっと言葉を詰まらせた春子。
「もうすぐ帰ってくると思うから、おはいりなさい。お茶漬けでもどう?」
「えっ、それは、歓迎されていない意味の暗号では?」
「バカねえ。京都人じゃないわ。ちょうどご飯が焚けたし、永谷園のお茶漬けの元があるのよ。なんなら、柴漬けもあるわよ」
「ありがとうございます…」
寒い中を歩いてきたので、温かいお茶漬けが五臓六腑に染み渡る。
「お父さん、出張に行ったきりなのね」
「そうなんです。絵ハガキが届いたけど…。これです」
絵葉書を春子に見せる。
「故宮博物館ね…なるほどねえ」
春子がなんだか納得している。
アパートの駐車場に、クルマの止まる音がした。
バンのハッチバックを開ける音、荷物を下ろす音がして、玄関のドアが開いた。
「おっ、太児、きてたのか」
「こんにちは、先生…って、それは!?」
「うん、イノシシだ。猟のシーズンだからな。猟師から買い取ってきた。今から解体するけど、手伝ってくれるか?」
「げげげ」
「もう死んでるし、血抜きもしてある。解体して冷凍保存しておくんだ。またバーベキューできるぞ。春子、とりあえず、俺にも茶漬けをくれ。山は寒かったよ」
三人で軽い昼食の後、作業服に着替えて、解体作業にかかった。
以前、昔の陳家溝で羊の解体を見たことがあったが、夢でない現実のイノシシの解体は、さらにグロテスクだ。
庵天先生と春子さんは、慣れた手つきでテキパキ要領よく、イノシシを捌いていく。
太児もナイフを使わせてもらって、イノシシの足をおそるおそるバラしていった。
「太児、お父さんのことだけどな…」
「はい」
イノシシが、あらかたバラバラになり、ナイフを使う作業も終わったところで、庵天先生が話し出した。
「お前のお父さんは、俺の生徒だったんだ」
「ええっ、太極拳の?」
「いや。日本を守るための秘密機関で俺が教官をしていて、お父さんが訓練生だった。卒業してからは、同士だな。いろんな作戦を一緒に遂行した」
「え…そんな…お父さんが…スパイだったの?」
太児の声は、驚きと戸惑いに満ちていた。
庵天先生は、静かにうなずいた。
「スパイっていうのと、ちょっと違うかもしれないが、情報を集めたり、邦人や文化財を保護したり、それから国際的な交渉の裏側に関わる特殊な仕事だ。武器を持って戦うのとは違うが…命を懸ける場面もあった。お前のお父さんは優秀だった。先の見えない作戦でも、信じる力を持っていた」
「じゃあ…やっぱり、お父さんは信の珠を探しに台湾に…?」
「ん? なんで信の珠だと思った?」
「昔の台湾で、杜毓澤先生の話を聞いたよ」
「えっ、そうなの? その話、教えてくれ」
「いいけど…なんで、珠を探してるのかも、教えて欲しいです」
少しの沈黙の後、春子が口を挟んだ。
「陳氏の宝だった7つの珠が揃ったとき、何かが起こるって…古い記録がでてきたのよ」
「何かって…?」
「歴史を変えるような、大きな力が目覚めると書かれていた。けど、悪用すれば、世界のバランスが崩れる…」
庵天先生が、じっと太児の目を見つめた。
「お前に渡した珠、テツさんがもってた義の珠、お前のお父さんが探し出した智の珠、いま三つの珠がこちらにある。そして、信の珠が台湾にあるらしいとわかって、お父さんが探しに行ったんだ」
「まだ見つかってないってこと?」
「帰ってこないところを見ると、何か手がかりをつかんで、追いかけているんだと思う。まったく当て外れなら、とっとと帰ってきているだろうしな」
太児は、握りしめた珠の温もりを感じながら、少し唇をかんだ。
「連絡は取れてないの?」
「暗号の無線でやり取りはしているが、スパイひしめく真っただ中だからな。そんなに頻繁には連絡していない」
「お父さん…ひとりで、危ない目にあってないかな…」
庵天先生が、しばらく黙っていたが、ゆっくり言った。
「お父さんは何か情報をつかんだようだが、その直後から連絡が取れなくなっている。C国と台湾、二つの国の行く末に関わる力に触れているんだ。最大限に用心しているはずだ」
庵天先生の言葉を、春子が遮るように続けた。
「心配しないで。ヘマはしないわ。お父さんは強い信念を持っているプロフェッショナルよ」
太児は、ゆっくり言った。
「ぼく、行きます」
「どこへ?」
「台湾へ。お父さんを探しに…」
庵天先生は、ゆっくり首を振った。
「気持ちはわかるが、ダメだ。俺が行く。しばらく行ったきりになるかもしれん」
「えっ、そんな…」
「お前は、お母さんを心配させるな。それから、太極拳をしっかり練習しておけ。きっとのちのち役に立つ。今のお前に教えられることは、全部教えた。俺がいない間、春子が力になる。何でも相談しろ。ヒロもかまってくれるだろう」
太児は黙りこくった。
「拳二や美鈴ちゃん、晶ちゃんには、お前が教えてあげるんだ。東山先生にも伝えておく。きっと力になってくれる」
太児が頷いた。
「このイノシシ、冷凍しておくからな。みんなでバーベキューしたらいい。何回分くらいあるかな…。食べきるまでには、きっと帰ってくる」
イノシシを小分けにして、包んで冷凍したあと、ぼたん鍋の夕食になった。
太児は、タイムスリップした台湾で見聞きしたことを庵天先生に伝えた。
「俺は明日、出発する。太児には太極拳の秘伝の書も渡しておこう。今見たってわからないかもしれないが、行き詰った時に開くといい」
太児は、年季の入った革表紙に「陳氏太極拳図説」と筆書きされた分厚い冊子を受け取り、リュックサックに入れた。
第五十六話 太児、雪中にて師と套路を打ち別れること
「あまり遅くなると、お母さんに心配をかけるからな。そろそろ帰るか? お土産は猪肉だ。自分で解体したと自慢したらいい」
「ええ~。ビックリするかも」
そういって、肉の詰まったジップロックをリュックサックに入れる。
「…お母さんには、お父さんのことは話さない方がいいのかなあ
「お父さんが話してないのなら、話さない方がいいだろう。帰ってくるまで知らんふりしておこう。心苦しいかもしれないけどな…。少しの我慢だ」
アパートの玄関を開けると、雪が積もっていた。
「雪だな。車で送ってやるよ。その前に、一度、そこで套路を通してみろ。一緒にやろう
「ええ? 雪の上で? 滑らない?」
「そもそも太極拳は、足元の悪い環境で発達したんだ。ヌカルミとか草むらとかな。昔の名人は、雪の上で足跡をつけずに套路をやったらしいぞ。しらんけど」
玄関前の雪の積もった駐車場で、二人並んで套路を打つ。
太児の足元はツルツル滑るが、庵天先生はピタッと雪に吸い付いているようだ
ゆっくりの動きだが、雪の中でも体が温まってくる。
庵天先生は、教えられるところまでは教えたと言っていたが、まだ套路の順番もアヤフヤで、ちゃんとできている自信はない。
色々不安もよぎる。
およそ15分。套路を通した。頭からホカホカと、湯気が上がっている。
「よし。体が冷えないうちに送ろう」
庵天先生の運転する、おんぼろのバンの助手席に乗り、太児の家に向かう。車だとすぐだ。
「お母さんや、拳二たちにもよろしくな。ま、二週間かそこらで戻るだろう」
庵天先生は、車の窓から手を振って帰っていった。
太児は、玄関の前で、去っていく車に向かって、包拳礼をした。
- 第一話 太児、試合に敗れて雨だれを奏で 弱き心に武の志を起こすこと
- 第二話 太児、弱さに悩みて奇夢を見て 湖畔の縁を待つこと
- 第三話 太児、湖畔にて太極の人に会い 新たなる道を知ること
- 第四話 太児、木玉に導かれて祖師に会い 太極の門に入ること
- 第五話 太児、陳家溝に至り童子に敗れて 己が未熟を悟ること
- 第六話 太児、太極の理を知りて剣を改め 武の形を新たにすること
- 第七話 太児、肉体改造を受けて基礎を築き 武の根を養うこと
- 第八話 太児、再び陳家溝に至り 太極の気を知ること
- 第九話 太児、庵天に従いて套路を学び 太極の形を整えること
- 第十話 太児、東山に会いて推手を習い 太極の理を悟ること
- 第十一話 太児、庵天に問いて老子の道を聞き 無為の理を知ること
- 第十二話 太児、再び陳家溝に赴き 擖手大会に出ること
- 第十三話 太児、庵天に従いて撇身捶を習い 太極の拳を得ること
- 第十四話 太児、夢にて楊露禅の琴を聞き 武と音の理を知ること
- 第十五話 晶、学園祭に乱入し、太児が月を奏でること
- 第十六話 晶、太極拳に加わり、四人が推手を学ぶこと
- 第十七話 庵天、木玉の由来を語り、六人が陳家溝へ行くこと
- 第十八話 陳王廷、馬上の剣を教え、太児が横座りすること
- 第十九話 太児、命をいただき 骨の理を知ること
- 第二十話 庵天、金剛搗碓を教え、太児が芯を得ること
- 第二十一話 太児、親子喧嘩をいなし、晶が味噌汁をすすること
- 第二十二話 晶、父を責め問い、黒服どもが現るること
- 第二十三話 庵天、倉庫に影を落とし、いばら姫が珠を奪うこと
- 第二十四話 庵天、義の珠を語り、美鈴が怪しむこと
- 第二十五話 太児、発科に出会い、紅衛兵が珠を奪うこと
- 第二十六話 太児、武は国より長きことを知り 歴史を学ぶこと
- 第二十七話 太児、剣道を辞して 武の道へ踏み出すこと
- 第二十八話 テツ、太極拳を疑い、単鞭にて転がること
- 第二十九話 庵天、倉庫の秘密を明かし、侠眼が珠を憂うこと
- 第三十話 太児、湖畔にて修行し 太極の足法を学ぶこと
- 第三十一話 拳二、射的に敗れ、太児が堅実に取ること
- 第三十二話 庵天、刀を持ち出し、林檎が二つに割れること
- 第三十三話 庵天、太極刀を演じ、子らが水辺に遊ぶこと
- 第三十四話 太児、戦場の夢を見て 武術の本義を知ること
- 第三十五話 太児、人を斬りて悩み、父が戦の理を語ること
- 第三十六話 陳王廷、逃亡兵を制し、村に平和戻ること
- 第三十七話 太児、湖畔にて怪しき武人に会い 暗器のことを知ること
- 第三十八話 ヒロ、暗器を繰り出し、庵天がこれをいなすこと
- 第三十九話 ヒロ、黒歴史をさらし、庵天がこれを転がすこと
- 第四十話 ヒロ、異郷の身の上を語り、太児が人を斬りしことを告げること
- 第四十一話 ヒロ、武器の怖さを語り、太児が強くならんと願うこと
- 第四十二話 侠太郎、正義の移ろいを語り、柔太児が信念を知ること
- 第四十三話 堤先生、正義と平和を問うて、命を産むと決すること
- 第四十四話 太児、刃を持つ狂人に遭い 友と力を合わせて人を守ること
- 第四十五話 太児、凶刃の後を思いて 守る覚悟を知ること
- 第四十六話 太児、兵法の要を聞き套路の名を学ぶこと
- 第四十八話 太児、狂人の裁きを聞き身を守る理を知ること
- 第四十九話 太児、五常の徳を聞き勇義の心を知ること
- 第五十話 侠太郎、義の珠の由来を語り、煉魂計画の影あらわること
- 第五十一話 侠太郎、智の珠を持ち帰り、七徳探索はじまること
- 第五十二話 太児、書初めにて徳を記し文武の理を知ること
- 第五十三話 太児、台湾に迷い込み、杜毓澤が忽雷架を演ずること
- 第五十四話 杜毓澤、信の珠を語り、故宮に宝の眠ること
- 第五十五話 庵天、台湾へ発たんとし、太児が図説を託さるること
- 第五十六話 太児、雪中にて師と套路を打ち別れること
- 第二部
- 第五十七話 太児、高校に入りて迷い、道戒が心の道を説くこと
- 第五十八話 太児、美鈴と套路を合わせ、楊露禅が拳を組み立てよと教うること
- 第五十九話 太児、陵森公園に遊び、東山がこれを転がすこと
- 第六十話 トニー渓、太児を試し、裏武術界に招くこと
- 第六十一話 太児、裏武術会に赴き奇会に列すること
- 第六十二話 ヒロ、三節棍を変じ、九節鞭が舞うこと
- 第六十三話 美鈴、ダンクを放ち、理屈男が血にまみるること
- 第六十四話 拳二、勝ちを手放し、八極拳が宙を舞うこと
- 第六十五話 東山、黒歴史を語り 動かずして形意拳を降参させること
- 第六十六話 トニー渓、算盤を舞わせ 刺客が縛られること
- 第六十七話 太児、手拭いを放ち、古流剣術が舞うこと
- 第六十八話 太児、素手で剣をあしらい、旧友が参ること
- 第六十九話 トニー渓、八卦掌を巡らせ、太児が宙を舞うこと
- 第七十話 太児、地を踏み鳴らし、トニー渓が宙を舞うこと
- 第七十一話 トニー渓、七星会を明かし 珠が四つ揃うこと
- 第七十二話 春子、太児の母と語らいて 侠眼の妻の強きを知ること
- 第七十三話 晶、ホルモン店を経営し、テツは雇われ店長となること
- 第七十四話 美鈴、国史を正さんとして浩之が合理で会長になるのこと
- 第七十五話 ヒロ、百般護身のこと、経験最強のこと
- 第七十六話 道戒が般若心経で空を問われ、少年らがそれぞれ朝修行に励むこと
- 第七十七話 春子が乱世の兆しを説き、太児ら歴史の大転輪を知るのこと
- 第七十八話 師母が道を示し少年が諜報を知る
- 第七十九話 琴を弾き水影を観て、母の言葉に天命を聞くこと
第二部
第五十七話 太児、高校に入りて迷い、道戒が心の道を説くこと
朝、制服のネクタイを結びながら、太児は鏡の前に立った。
背はそこそこ伸びたが、平均よりは低いかもしれない。体重は、少し平均を上回っているかも。
「もう高校生なのねえ。ネクタイ似合うわよ」
お母さんに言われて、嬉しいような照れくさいような感じだ。
春の光が差し込む玄関。
新しい靴を履き、新しい通学鞄を持って、表に出た。
太児は、三年前の雪の日を思い出していた。「二週間で戻る」と言ったきり、庵天先生はまだ帰ってきていない。猪肉も食べつくしてしまった。
「お父さんと先生、どうしてるんだろうなあ…」
遠くで電車の音が鳴る。
あたたかな風が吹き、アスファルトの上を、桜の花びらが、流れる。
駅前で、拳二に会った。
「おはようっす、太児」
「おはよう~」
拳二は太児より背が高い。スラッとしているが筋肉質。中学生生活では、さわやか笑顔が女子に人気だった。
「美鈴は?」
「なんか、お化粧してるみたい。先に行っといて、だって」
「ハハハッ、何を張り切ってんだろな!」
「生徒会に入って、学園を牛耳るって言ってるよ」
「美鈴らしいや。おれは、少林寺拳法部に入るよ」
「へえ、少林寺拳法部があるんだね! いいなあ。太極拳部はないみたい。ぼくは帰宅部かなあ」
太児と拳二、美鈴は同じ高校に進学した。
同じ駅から電車通学をする。
ホームに電車が入ってくるのに合わせたかのように、美鈴が走ってきた。
「おはよう! 間に合った~!」
「初日から慌ただしいなあ」と太児。
「どこを化粧したんだよ。何も変わってないぞ」と拳二。
「うるさいっ! 舐められないように気合入れてんのよ!」
「別に、マウント取らなくていいじゃん」
「気合より、心のゆとりの方が大事だと思うなあ」
そういいながらも、ちょっと大人びた美鈴の横顔に、ドキッとする太児だった。
「晶ちゃん、違う学校になっちゃって残念ね」と、美鈴が拳二に言う。
「晶は、学生起業家になるそうだぞ。商売が好きなんだよ」
晶一家は、剛家の経営するアパートに住んでいた。
「晶は、家族の働く場を自分で作るつもりなんだよ。商店街の空き店舗を借りてホルモン屋を始めたけど、これからは商店街のイベントもするつもりだって。フードブランドや、オンライン料理教室、ボランティアを募って子供食堂もやるそうだよ。テッちゃんに移動屋台を引っ張らせながら、地元ローカルグルメの食レポ動画配信をさせて、コテコテの大阪弁で、好き放題に喋らせて、時々喧嘩させたらバズる、なんて言ってら。なんだかよくわからないけど、あいつはすごいよ」
「たくましいわねえ。私も負けないように、学園を仕切るわ」
「学校を仕切って、何すんだよ…」
「将来、国際的に活躍するであろう、優秀な生徒達を今のうちに手なずけておくのよ。日本を強くするために、長期目線で考えてるのよ、私は! そういう拳二は、何するのよ」
「俺は、少林寺拳法で全国一を目指すよ。アクションスターになりたいから、代々木アクション学園にも通おうかな」
「子供じみてるわねえ」
「なんだと!」
「もっと人類に貢献するような大きなコミットを持ちなさいよ」
「むむむ、高校生にしたら上出来なコミットだと思うんだけどなあ…」
拳二は、降参したといった顔だ。
「太児は、どうするのよ?」
自分に振られて、太児はちょっと固まった。
「うーん…。とりあえず太極拳は、もっと上手になりたいかな…」
「庵天先生もいないし、大会なんかも出ないんでしょ。太児はピアノが上手なんだから、そっちで頑張れば?」
「上手っていっても、音大を目指せるほどでもないし…。お母さんも音大はやめときなさいっていうしね」
「本当はどうしたいの?」
「…お父さんと庵天先生を探しに行こうかな…なんて…ははは」
太児が力なく笑うと美鈴がぴしゃりと言った。
「当てもなく行ったってしょうがないじゃない」
「わかってるけど…」
「待つしかないだろ」
「そうだけど…」
駅についた。駅から山道を15分登ると高校だ。
「毎日、登山だと鍛えられるなあ」と拳二がいう。
「有意義な3年にするわよ!」と美鈴は意気込む。
「そうだね…」と、同調する太児。
クラスではオリエンテーションがあり、担任の先生から学校生活のルールや、年間スケジュールが説明され、教科書が配られた。
そして、全員が、自己紹介。40人ほどだが、覚えきれない。
中学でも一緒だった、伊東道戒も同じクラスだ。
講堂では、クラブ活動の紹介があった。さすがに高校にもなるとクラブ活動の数も多い。
ユーモラスな寸劇のようなクラブ紹介もあった。
拳二が入部を決めている少林寺拳法部は、二人で演武を披露していた。白い道着の上に黒い法衣を着て、なんだか海苔巻きせんべいのように見える。
へー、拳二もあんな格好をして、来年あたり、ステージの上にいるのかな? なんて想像する。
生徒会の紹介もあった。
委員会と連携して、文化祭や体育祭を運営したり、ボランティア活動をしたり、活発に動いているようだ。他校との交流もあるらしい。
でも、学校を仕切るって、よくわかんないな、と思う。
初日の行事が終わり、せっかくだから学食でも見に行こうかなと、講堂を出た途端、クラブ勧誘の先輩たちに取り囲まれた
「きみきみ、もう入るクラブは決めているかい?」
「男なら裸一貫、相撲部にぜひ!」
「剣道部へ!」
「空手部へ!」
体育系は、それぞれのユニフォームを着ていて、何のクラブか一目瞭然だ。武道系も充実しているようだ
「知的な君、文芸部にぜひ! 小説を書いてみないか?」
「未来のノーベル賞! 化学部・物理部へどうぞ!」
「日本の伝統、囲碁将棋部はいかが?」
「合唱部は男が少ないから、モテモテだよー!」
文科系も熱心に誘ってくる。左右から声をかけられ、ボヤッとしていると、連れていかれそうだ。
「こちら野球部、マネージャー募集中! 甲子園にいこう!」
部員でなくマネージャーを勧誘しているクラブもある。人気のスポーツは勧誘しなくても入ってくるのだろう。
「俺は少林寺拳法部に入りまーす」と宣言する拳二。
「おおおーっ!!」と驚いたような歓声が上がる。
自分から入部する生徒は少ないのかもしれない。
「経験者かい? じゃあ、さっそく一緒に勧誘を手伝ってくれ!」
入部する前から、勧誘側に回されてしまう拳二。
「きみ! 柔道部に入らないか! 柔道体型だよ!」
柔道体型ってなんだ? と思いつつ、
「いえ、ぼくは、いいです…」と逃げる太児。
「帰宅部なんてありえないよ! 青春を謳歌しようぜ!」
喧騒の中、太児は、身をかがめて人込みをすり抜け、校門を脱出した。
「ふう、大変だなー」
美鈴は、生徒会の部室にでも行っているのかもしれない。
ひとりで帰りの電車に乗った。
「おや、太児君は帰宅部ですか?」
「あ、道戒君。君も?」
「私は、自宅がお寺ですから、本堂の掃除や座禅、読誦(どくじゅ)などの修行があるのです。クラブ活動みたいなものですね。今日は法事の準備の手伝いです」
「そうかあ。もう進路が決まってるんだね」
「縁に導かれているのです。…因果応報かもしれませんが。ふふっ。受け入れると心は平安です」
「そうなんだ…」
「迷いがありますね」
「うーん。みんな自分のことを決めて進んでいってる。なんだか取り残されている気分なんだ」
「煩悩はだれにでもあります。…心こそ心迷わす心なれ、心に心ゆるすな心。お釈迦様の教えです。答えはそのうち見つかりますよ」
道戒は、太児より一つ前の駅で「では、また明日」と言って、電車を下りた。
これまで、さほど仲良くしていたわけでもなかったけど、いい友達になれるかもしれないと、太児は思った。
第五十八話 太児、美鈴と套路を合わせ、楊露禅が拳を組み立てよと教うること
家に帰った太児は、制服を脱ぎ、いつもの練習着に着替えた。トレーナーと、ポケットのたくさんついているカーキ色の軍用パンツのレプリカが気に入っている。
ミリタリーオタクではないが、動きやすいし、普段着としても何かと便利だ。ストリートダンサーっぽく見えないこともない。
シューズは、中華街で見つけた、カンフーシューズ。ヒモもゴムもついていない、黒いペラペラのスリッパみたいな布靴だ。
やたら安かったし、カーンフーシューズっていうからにはカンフー練習用だと思って買ってみたのだが、最初はすっぽ抜けたりして、安物買いの銭失いだったか? と後悔した。
でも、せっかく買ってしまったのだし…と使い込んでいるうちに、普通の運動靴より使いやすく感じるようになってきた。
それで、履き潰しては買い替えてを繰り返している。
棍を入れた袋を背負い、自転車に乗り、湖のキャンプ場のある公園に行く。
庵天先生が旅に出てからも、みんなで太極拳の練習を続けていたが、中学生になると、だんだんと集まる日も減ってきて、ひとりで練習することが多くなっていた。
西に傾きかけた太陽に向かって、じっと立つ。站樁功だ。
暖かい。
湖面に水鳥が舞い降りて、羽を休める姿が逆光でシルエットになっている。
木の影が、北から東へ、だんだんと移動していく。
太児は歩幅を前後に広くして、両手を肩の高さに上げ指先を天に向けた。
後ろ足に体重を載せたまま、まっすぐ沈み、低くなる。お尻は地面まで10センチまで近づく。ふーと、鼻から息が抜ける。
ゆっくりと、体重が前足に移動し、体が浮かび上がる。頭はまっすぐのまま上体は同じ形を保っている。
再び、後ろ足に体重を載せ、低くなる。
この動作を、64回繰り返し、左右の足を入れ替え、また64回。汗が出てくる。
立ちあがり、手足をブラブラさせてほぐした後、今度は立った姿勢から、右足を折りたたみ、まっすぐに沈み込む。左足は、滑らせって前方に広げ、地面に吸い付くような低い姿勢になる。
伸ばした左足の方に頭の重みを載せ、まっすぐ立ちあがる。右足は引き寄せられる。
次は、引き寄せた右足を、先ほどと同様に前に滑らせ広げ、垂直に沈み込む。
沈みゆく夕日を横に見て、一直線上を、高くなったり低くなったりしながら、交互に脚が出して、前進していく。
8歩進んだところで、振り返り、元居た場所にズリズリと進む。これを8回繰り返すのだ。
地面に、足を引きずった跡が直線状に描かれている。
太児は木に立てかけていた袋から棍を取り出した。
両手で棍の中程を持ち、左右にグルグルと回す。棍は体に密着し、両脇の下を通る。
時々、棍がポケットのボタンに当たって、カチンカチンと音が鳴る。
棍の回転はだんだん速くなり、ブンブンと風を切る音が鳴る。
「たーいじっ」
制服姿で自転車に乗った美鈴が現れた。
「あれっ。今帰りなの?」
「ちょっと生徒会執行部に挨拶に行ってきたわ」
「生徒会って…選挙でえらばれるんじゃないの?」
「そうよ。でも、立候補受付を待って、それから公約を考えて、選挙演説をして…なんてチンタラやっていたら、遅いわ。初日が肝心。もう現執行部の先輩たちの心はつかんだわ」
「美鈴は、すごいね…。そんな先々まで考えて動くなんて…。ぼくには考えも及ばないや」
「でも、太児の黙々とずーっとやり続ける根性もすごいわよ。それ、庵天先生に4年前に出された宿題でしょう? まだやってたのね」
「だって、套路はアヤフヤなんだもん」
「一緒にやろうよ。私は順番覚えてるし」
「心強いけど、スカートでやるつもり?」
「ジャージに着替えるわ」
そういって、カバンから出したジャージをスカートの下に履いて、スカートを脱ぎ、制服の上着も脱いで、ブラウスの上から中学校時代のジャージを被る。
太児はドキッとする。
「ちょっとは恥じらえよう」
「だっさいジャージを?」
「うん、ダサい」
そういって、太児は自分の気持ちをごまかした。
「じゃ、いくよ」
美鈴がそう言って、太児の隣に立つ。西の空はだんだんと赤みを増し、湖面がほのかに光っていた。風が少し冷たくなりはじめた。
「準備式」
美鈴の声に合わせて、二人は同時に動き出す。両手を胸の前に広げ、静かに息を吸い込む。太児は、地球の引力や、筋肉の動きひとつひとつを意識している。美鈴の動きは滑らかだ。というか、テキトーだ。
(こんなんだったっけ…)
太児は、美鈴のフォームを横目で確認しながら、自分の動きを微調整していく。
「次、単鞭」
「うん……!」
このあたりまでは、散々練習してきたから、自分の方がちゃんとしている、と思う。
膝を沈め、腕を前にすっと伸ばす。夕陽に照らされた二人の影が、長く地面に伸びる。
「…美鈴って、最近も毎日、練習してるの?」
「朝6時に起きて、30分ベッドの横でやってるわよ」
「すごい。毎日30分も?」
「毎日でもないかも」
「でもすごいよ」
「30分もしてなかったかも」
「でもすごい」
「太児には後れを取りたくないからね」
太児はおおむね毎日、日の出前から一時間は練習していた。多い日は3時間くらい練習している。套路はあまり正確さに自信がなかったので、基本功が中心だ。
美鈴は、基本は少し怪しいが、套路の順番をちゃんと覚えている。
美鈴に引っ張られるように、套路の最後の動作に入った。
震脚で締める。
「……合ってた…? 今」
「うん、合ってたよ!」
太児は、少し疑わしかったが、美鈴は自信ありげだった。美鈴にはかなわない、と思う。
湖の向こうに、太陽が静かに沈んでいく。
その日の夜、太児は夢の中で、昔の陳家溝に来ていた。
ずいぶん久しぶりだ。
寝ている時だったから、木の珠が光ったのかどうかわからない。
埃っぽい広場に、少し背の伸びた楊露禅がいた。
以前より、身なりも小ぎれいになっている。
「漢方の仕入れとか、お客の対応もするからな。おいら、もう店の顔だよ」
「すごいなあ。責任ある立場なんだね。ぼくは高校生で、何の責任もないなあ」
太児はこちらの世界でも取り残されているような気がした。
「套路を覚えきれないって? じゃあ、自分で組み立てればいいじゃん」
「えっ、勝手に作っていいものなの?」
「套路は基本動作を繋げたものなんだから、今やっているのを繋げていけばいいんだよ」
「練習している基本を全部繋げても、そんなに長くならないよ」
「じゃあ、同じことを繰り返したらいいのさ。おいらも最初は、短い套路で練習してたよ」
「えっ、短い套路があるの?」
「もともと、陳氏の拳術は、少林拳や回族の武術をベースにした短い套路が五つだったんだよ。それを繋げて長い套路にして練習しやすくしたのは、陳長興、おいらの師匠さ」
「えーっ、そうだったの?」
「おいらも、ずいぶんアイデアを出したよ。今の套路は、ま、師匠とおいらの合作といってもいいかな」
エッヘンと得意げな楊露禅。
「楊君、すごいじゃん」
「なにをいまさら。楊式太極拳も、将来おいらが作ることになるんだから。知ってるだろ?」
「ゆるやかで、激しい動作のない太極拳だね」
「清王朝の王族の子弟に教えるとき、キショク悪い宦官どもに、バタバタうるさいって怒られて、柔らかい動作ばかりに変えることになるのさ。後半の炮捶の部分は、全カットする」
「それが、ぼくの時代にまで伝わって、太極拳の主流になるんだなあ。…って良く未来のことがわかるね」
「そりゃ、ここが太児の夢の中だからさ。でも、太児は陳氏のノーカット版武術を極めろよ。おいらも指南してやるから。太児の時代の套路とは、違ってるところもあるかもしれないけどな。太極拳の原理原則に会っていればいいのさ。本来は一人一太極拳だ」
夢の世界で、楊露禅に合わせて、太児も套路を打った。
美鈴のアヤフヤ太極拳とは明らかに違う。庵天先生の太極拳とも違っているが、感覚は全く同じだった。
第五十九話 太児、陵森公園に遊び、東山がこれを転がすこと
日曜日に、太児は電車に乗って、陵森(みささもり)公園に来ていた。
駅を出ると、青空に、真っ白な気球が浮かんでいるのが見えた。
気球に向かって歩いていくと、大きな日の丸が見えてきた。日の丸の下には、巨大古墳の礼拝所がある。
黄色い帽子のボランティアガイドの人たちが、観光客の外国人に案内をしている。
砂利を歩き、古墳の正面に進み、二礼二拍手一礼をした。
公園に入ると、戦没者慰霊のための高い塔がある。この角度で見ると、塔に気球が引っかかっているように見える。
太児は、白い塔に向かって歩き、塔の下にある礼拝所で、やはり二礼二拍手一礼をした
礼拝所には、前の戦争で亡くなった数千人の市民の名前が刻まれている。
そこから見える広い芝生広場の上に、太極拳をしている集団が見えた。
今日は暖かいからか、人数が多い。
ほとんどがお年寄りだ。
音楽に合わせて、100人近い人たちが、簡化24式太極拳をしている。太児は、簡化式を習ったことはない。他の人のマネをしてみた。庵天先生や、楊露禅の太極拳とは全く違う。
音楽が終わり、きれいに並んでいた団体がバラバラと崩れ、お茶を飲む人、お菓子を食べながら談笑する人、剣や扇を取り出す人達…小さな集団に分かれていった
太児の目当ては、推手を楽しむグループだ。
庵天先生の先生、東山先生に誘われて、中学生の頃から、時々来るようになっていた。
お年寄りたちに、太児は可愛がられている。
「若い子が来てくれると、いいわねえ! 元気がもらえるわあ」
「私たちも若返るよねえ」
「太児君、お菓子があるわよ! おばあちゃんのポタポタ焼きと、都こんぶはいかが?」
太児は笑顔で「ありがとう!」と答えると、次から次へと、飴ちゃんやらクッキーやらが届けられる。
たちまちポケットがいっぱいになった。
のんびりと、やってきた東山先生の声が響いた。
「おー。太児君、人気者だねえ。うらやましい!」
「あら、先生、若い子に嫉妬してるの~」
「嫉妬など、しっとらん!」
あいかわらず、ダジャレが快調な?東山先生だ。
庭石に腰かけて、コーヒーをすすっていた人達がゆっくりと立ち上がり、芝生の上でペアを組み始めた
太児に声をかけてくれた最初の相手は、鉄羅漢の井上と呼ばれている元消防隊員のお爺さんだ。笑いシワが深く、筋肉質。
向かい合って、手を合わせた。
自分と相手の重心を感じ取り、引力に身を任せるように、太児は身体を動かす。二人はシンクロするように四正の動作をしていたが、だんだんと動きは自由になってくる
井上さんがスッと中に入ってきた。太児の隙をついて崩そうとしたのだが、その動きの中に、太児はわずかな固さを感じた。
「トン」
足が浮いて、後ろに弾けたのは、井上さんの方だ。
横目で見ていた東山先生が声をかける。
「井上さん、あいかわらず力が入っちゃうねえ。もうポンプで放水は引退したんだから、もっと軽く、柔らかく!」
「いやあ、太児君の柔らかさには、おそれいるなあ。若いのにすごい!」
「いえ、井上さんの安定感、すごく勉強になります!」
太児も何か褒めなければと言葉を選ぶが、ちょっと意味不明だったな、と思う。
次の相手は、いつもコーヒーを用意して来てくれるおばあちゃんだ。
相当な太極拳好きで、あちらこちらの教室や講習会に参加して検定試験も受けておられるらしい。太極拳が生きがいのようだ。
「ええっと、手がこう来るから、こうしたらいいのかしら? あれっ、足はこっち?」
「妙さん、考えすぎだよ」
東山先生がまた横から声をかけてくる。他の人と推手をしながら、周りの人にアドバイスを送っているのだ。
太児は、さりげなく妙さんを誘導する。
「あらっ、上手く動けるわ。太児くんと練習すると、なんだか上手になるのよねえ」
「妙さん、老いては子に従えだねえ!」
「あら、子じゃなくて、孫ね」
「アハハ。孫相手に、マゴマゴしてちゃいけないねえ!」
次の相手は、その東山先生だ。
「どうれ、上達したかな?」
推手をすると、誰一人として同じ感じの人はいないが、その中でも東山先生は全然違っている
触れている感じがしないが、といってフニャフニャに萎えているのでもない。
皮膚一枚でつながっているようで、洗濯機の中に放り込まれた感じがする。
太児はクルクル回され、ポンポン投げられ、片手を背中に回され地面にへばりつかされた。
「あっはっは! 逮捕じゃ」
太児は、警察が太極拳を取り入れたら役に立つだろうな…と思う。
「いつ見ても楽しそうよねえ。そんな風に自由自在にやりたいわ!」
別のおばさんが声をかける。
「難しく考えらんと、楽しく踊ればいいのじゃ」
東山先生が返す。
「あと何年かかるのかしら? 寿命がそれまで持つのやら?」
太児は、この人達が東山先生みたいになるのは無理だろうと思うが、みんな深刻さは全然なく、十分に楽しそうだ。これも太極拳の楽しみ方なんだな、と思う。
その時、男の声がした。
「ハロー。ミーもいいざんすか?」
初めて見る顔だった。
第六十話 トニー渓、太児を試し、裏武術界に招くこと
どこから現れたのか、細身でスーツ姿の男が、芝生の上に立っていた。
髪型をビシッと固め、蝶ネクタイをしている。メガネにちょび髭、口を開けると前歯が光る。
「えっ……?」
周囲の人たちが、一斉に彼を見る。場違いな雰囲気に、一瞬ざわつく。
「ミーは旅の者ざんす。全国の武術道場を巡って、強敵を探しているざんす」
男は、フワフワと芝生を歩き、指先をヒラヒラさせながら話す。
「この陵森公園…年寄りばかりでがっかりざんす。でも、そこのボーイ、ちと活きがいいざんすね」
みんなの視線が、太児に集まる。
「ユーと、お手合わせ願いたいざんす」
太児は、男をチラチラと見ていたが、おずおずと会釈した。
「はい…。よろしくお願いします」
「おおっ、よござんす! ナンパ拳法がお相手するざんす!」
「……ナンパ拳法って、なんだ?」
井上さんが眉をひそめて呟いた。
「うっしっし。中国南方に伝わる伝統拳術をもとに、ミーが独自に編み出した愛と欲望と家庭の事情の融合武術ざんす!」
周囲はあ然としている。
「太児くん、大丈夫かい?」
東山先生が芝生の隅から声をかける。
「まあ、ちょっとした交流でしょうし…」
太児は無理やり笑顔を作った。
二人は向かい合い、手を軽く合わせる。
「レディ、セッツゴーざんす!」
スーツの男が仕掛けてくる。まるでダンスのステップのように、軽やかに滑り込み、ひねり、腰を絡めてくる。
(このリズム…なんだかよくわからないけど…武術だ!)
太児は流れるように受け、回転する。ひとつ、ふたつと技を交わしながら、男のリズムを見極めていく。
「おおっ、ノリがいいざんすね! これはどうざんしょ…ハッ!」
男が突然、腰を落とし、足を交差させ、太児の背中に回り込んだ。
だが、太児の体は自然に沈み込み、その力を受け流す。
「おっとと…!」
次の瞬間、男の片足がふわっと浮き、くるりと回転した。回転するコマとコマが戦っているようだ。
太児の背中越しに、スーツの男の腕が伸び、腕の内側を太児の首を絡めた。太児は腰を落とし、腕をすり抜け、男の股の下に脚を差し込んだ。
太児の肩が、スーツ男の脇腹を押す形だ。
(このまま立ち上がれば、吹っ飛ばせるけど…)
そう思ったが、やっていいものか、一瞬迷う。
すかさず男の足元が、ぐるりと円を描いた。まるで円盤を回すような動き。
(あっ、掃腿? 久しぶりに見た!)
足に気を取られたところを、男は片手を伸ばして前に突き出し、もう片手を頭上に掲げたかと思うと、体を回転させながら太児の脇へと滑り込んだ。
(えっ、八卦掌…?)
円を描くように動きながら、常に死角から攻める武術。一見、ふざけているように見えるが、動きに無駄がない。
これは本物だ。公園のお年寄りたちのナンチャッテ武術じゃない。
「ふふん。ついて来れるざんすかね~」
男は、太児の横をすり抜けたかと思えば、すぐ背後に現れ、掌をそっと肩へ当てる。
そのまま体を一回転させて、今度は脚を絡めて倒そうとする。
太児は、片足を上げてかわした。
「なかなかやるざんす!」
男の体がひときわ大きく旋回し、両手を広げたかと思えば、右手で太児の右腕をつかみ、左腕を、太児の胸に押し当てた。
「肘関節いただいたざんす。フィニッシュざんす!」
太児は、右人差し指を天に向けた。いただかれたはずの肘を、下に沈め、腰も沈む。
スッコーン。
ひっくり返ったのは、スーツ男のほうだった。
「おっと、危ない」
太児は、絡まっていた腕を引き上げ、男が頭を打たないように、回転させると、男は軽やかに芝生を転がり、立ち上がった。
「ナイスざんす!」
「だいじょうぶですか?」
「一本取られたざんす! ユー、ただ者じゃないざんすね…名前を聞いてもいいざんすか?」
「柔太児です」
「ミスター太児、覚えたざんす。ミーは、トニー渓ざんす。こんな若者に出会えるとは、武術巡りも悪くないざんす!」
男は、ニッコリ笑って、親指を立てた。
太児も、あわてて礼を返す。
「あ、ありがとうございました。ナンパ拳法、面白かったです」
「サンキューベリーマッチ! シーユーアゲイン! また近いうちに会うざんす!」
そう言い残し、ひらひらと手を振りながら去っていった。
その背中を見送りながら、東山先生が一言。
「なんじゃったんじゃろ? 」
太児は、深呼吸をし、芝生の空気を味わった。
妙さんが太児に声をかけた。
「あら、後ろの襟に何か挟まってるわよ」
首元を探ると、折りたたんだ紙が挟まれていた。
紙を広げると、こう書いてあった。
「ユーは合格ざんす。裏武術界の交流会に招待するざんす。次の日曜日の夜、縦浜の下山公園に来るざんす」
裏武術界? なんだか怪しい…
横から覗き込んだ東山先生が軽い調子で言った。
「ほーなんじゃろ。ワシも一緒にいこうかの。面白そうじゃ」
妙なことになったなあ…と太児は思った。
第六十一話 太児、裏武術会に赴き奇会に列すること
朝、駅に向かって歩きながら、太児は拳二に聞いた。
「少林寺拳法部はどう?」
「歓迎してもらっているけど、高校から始めた先輩がほとんどで、黒帯の俺は、なんだか居心地悪い感じ」
「気を遣うね…」
「まあなあ。新入生らしく大人しくしているけど、乱捕りの練習なんかはやりにくいな…」
拳二らしくなく、戸惑っているようだ。
「何言ってんのよ」と美鈴。
「アドバンテージがあるんじゃない! リーダーの責任があるってことよ。拳ちゃん、クラブを仕切っちゃいなさいよ」
「俺、お前ほど厚かましくないよ。それに、武道系だぞ。生意気な新入生は先輩にシバキあげられるかもしれないじゃないか」
「バカねえ。うちは進学校なのよ。そんなレベルの低い生徒が集まってるわけないでしょ。とりあえず、一年生のリーダーにはなっておくのよ。ゆくゆくはキャプテン。生徒会と武道系クラブとのパイプ役になってもらうわ」
「お前、生徒会長にでもなるつもり?」
「当たり前でしょ。まずは足元を固めて、人脈を広げておいて、ゆくゆくは政界に打って出て、日本の何番目かの女性総理になって、強い日本にしていくのよ」
「うひゃあ。壮大な計画。ついていけるかなあ」
「ついてらっしゃい! 太児はどうなの? 地味に一人練習しているだけ?」
「この前、裏武術交流会とかに誘われたよ」
「なによ、その怪しいの」
「よくわからないけど、今度の日曜日に下山公園に行ってみるよ。東山先生も、面白そうだから行ってみるって」
「へー、俺も行ってみよう!」
「ぼくは合格したから招待されたらしいんだけど、一緒に行っていいのかな」
「公園に行くのに合格も不合格もないでしょ。私も行くわ」
「えええーっ、何があるか、わからないよ?」
「だから行くんじゃないの。思わぬ人脈ができるかもしれないわ」
「反社会的人脈だったらどうするんだよ」
「その時は、晶ちゃんのパパに出て来てもらうわ」
「うへー。人使い荒ええ」
ふたつ目の駅で、伊東道戒が電車に乗ってきた。
「ああ、みなさん、おはようございます」
「ねえ、道戒君、お寺さんも反社会的勢力とはつきあわないの?」
「はて、いきなりなんですか? …最近は反社関係者の墓地使用や檀家登録はお断りの傾向にありますが…。葬儀会社も受け付けませんし。暴力団排除条例がありますからね。お寺もコンプライアンスです」
「そうなのね」
「そりゃそうだ。ヤクザと坊さんじゃ、真逆だろ」
「しかしですね…。仏の教えに縁起(えんぎ)があります。一切のものは縁によって生じ、縁によって滅します。縁には善縁(ぜんえん)悪縁(あくえん)がありますが、相互依存であり、独立して存在するものはないのです」
「さっぱりわからねえ」と拳二。
「拳ちゃん、少林寺拳法で仏教の勉強してるんでしょ」と美鈴が笑う。
太児が聞いた。
「それって、陰陽ってこと?」
「そうです。善悪は絶対的なものではなく、相対的です。完全な悪、完全な善はないのです。大善は大悪でもあります。すなわち善悪は変化します。極道が仏門に入った例はいくらでもあります。善悪を分けようとする心は執着であり、道から離れるもとです。戦争は、正義対正義の争いです。執着を手放すことが、解脱であり、涅槃寂静なのです」
「じゃあ、私も裏武術交流会に行ってみるわ!
「えっ、どうしてその流れ?」
「はて、何のことですか?」
「夜の遊園地に裏の武術家が集まって、ルール無用のトーナメントがあって、生き残ったら1000万円ゲットできるそうなのよ」
「えっ、そんな話だったっけ?」
「それは興味深い。私も参りましょう」
「ええっ、道戒くん、武術に興味あるの?」
「いえ、誰か亡くなられましたらお経をあげようと思いまして」
「ズコッ」
日曜日。薄暗くなってきた下山公園。
最寄りの駅前のコンビニ前に太児、拳二、美鈴、道戒が集まっていた。
そこに東山先生が合流。
「なんじゃ、ずいぶん大人数になったのう」
「はじめまして。伊東道戒と申します」
「あれ、ずいぶん礼儀正しいお友達じゃの…。わしは東山と申します。太極拳の指導を生業としとったが、今はボチボチ好きなようにのんびりしとるジジイじゃ」
「よろしくお願いいたします」
「うむ、何をよろしくか、ワシも良くわからんのじゃが。とにかく行ってみよう」
公園に入っていくと、奥の方の広場から、コーホー、ハアア~と息吹の音が聞こえてくる。
うすボンヤリと照明のついたグランドに、人が集まっているようだった。
「なんだろうな…やっぱり怪しい」
と拳二がつぶやく。
「なにか、怖いね…」と美鈴は太児の後ろに隠れるようについてくる。
伊東道戒は数珠を取り出した。
ざわざわと声が聞こえてくる。
「うーむ。この雰囲気、なんとなく懐かしいような…」と東山先生。
「一行三昧(いちぎょうざんまい)な雰囲気を感じます」と道戒。
「なんだか、美味しそうなにおいがするんだけど…」と太児。
「タコヤキだな」と拳二。
パッと、ナイター用の照明がつき、明るくなった。
「レディース&ジェントルメン&おとっつあんおっかさん、グッドイーブニングおこんばんは。ディスイズ、トニー渓と申します。ただいまより恒例の天下一武道会の開催ざんす~!」
グランドには、道着を着たもの、グローブを嵌めた者、レオタードを着たもの、まちまちのコスチュームの人たちがいる。
「ミスター太児、来たざんすね。エントリーはミーが済ましてるざんす。こっちのシートに座るざんす」
太児一行が、おそるおそる入っていく。
「なんざんすか、このご一行は。ギャラリーざんすか。見物客は、入場料1000円にワンドリンク500円ざんす」
「俺も出場する!」と拳二が叫んだ。
「私も出るわ!」と美鈴。
「飛び入りざんすか? お嬢ちゃんも? グレート!! でも、参加には審査があるんざんす。こちらで書類審査をうけてパスしたら、エントリフィー3000円ざんす」
「えっ、金とるの?」
「運営費ざんす。ユー達は学生? じゃあ、学割で2000円。スポーツ障害保険料込みざんす。あ、ミスター太児はご招待だからタダざんすよ」
「ワシも出てみようかな」
「ジジイに出る幕はないざんす。…って、ユーは陵森公園にいた太極ジジイざんすね…、面白いざんす、自ら出向いてこようとは…。ユーは無審査パスざんす。でも、3000円。そっちの抹香臭いユーは?」
「私は見学でお願いいたします」
「じゃあ1500円」
エントリーをすませた選手たちが、勢ぞろいした。
拳二と美鈴も合格したらしく、列に並ぶ。
「書類審査って、何だったの?」
「二択問題が30問ほどあっただけだよ。5万円入りの財布が落ちていたら、交番に届ける?もらっておく? クルマを運転していて、水たまりの水を通行人にぶっかけてしまったら、無視して行き過ぎる?止まって謝る? レストランで注文を間違えられたら、笑って食べる? 怒って怒鳴る? 親友が犯罪行為を打ち明けてきたら、通報する? つけ込む? みたいなのがズラズラと」
「引っ掛けクイズ?」
「考え込むような問題もないし、なんだ?ってかんじだったわね」
会場のざわざわが静かになった。
「アッテンションプリーズ! 大会ルールを説明するざんすよ!」
トニー渓の甲高い声が響いた。
「おかげさまで今回も満員御礼ざんす! 出場コートと組み合わせは、こっちのボードに書いてあるんで、確認するざんす。トーナメントじゃないざんすよ。勝ち負けは、次の試合に影響しないざんす」
ライトに照らされた大きなボードに、選手名が書き込まれている。
「それじゃ、天下一武道会にならないじゃん…」と拳二。
「打撃も投げ技もなんでもあり、武器の使用も可、禁止事項は一つだけ。相手に怪我をさせたら失格ざんす! よござんすね!」
トニーが、ぐるりと選手たちを見渡す。
「試合時間は10分。勝敗の判定は、自己申告ざんす! 審判はいないざんすよ! ユーのプライドが審判ざんす!」
太児は、なんと変わったルールだと思ったが、会場の選手たちには驚いた風もない。常連達なのだろう。
「つまり、徳の有る者しか参加できんってことじゃな…」
東山先生が、ニヤリと笑った。
「しかも、相当な実力がないと無理な芸当じゃよ」
第六十二話 ヒロ、三節棍を変じ、九節鞭が舞うこと
第一回目の対戦が、4つのコートで同時に始まった。
勝ち残りのトーナメント形式ではない。
負けても次の会に出場できる。人数が多いので、総当たりとはならないようだが、前回の組み合わせも考慮され、なるべく多くの人に当たるよう組み合わされているらしい。
太児の出場するコートの第一戦は、空手VS合気道だった。
ふたりとも道着を着ているが、合気道の選手は紺の袴を穿いている。
「第一戦ざんす! レディ! ゴー!」
スピーカーから流れる合図を聞いて、向かい合った両者が礼をかわした。
空手家は拳を握り、合気道家は掌を広げ、向かい合って構える。
スススッと、両者が近寄ったと思った瞬間、空手家が突きと蹴りを連発した。合気道家が後ろに下がる。
大きな回し蹴りを、くぐり抜ける合気道家。
見ている方は緊張するが、戦っている本人たちは、にこやかだ。
空手家が突き出した右拳の外側に、合気道家がすれ違った瞬間、空手家は宙を舞い、背中から落ちた。
すぐに立ち上がり構えなおす空手家。
「さすがやね。米田はん」
「紙一重やったな。小山はんの突き、おとろしいわ」
お互い良く知る者同士らしい。笑いがこぼれている。
米田はんと呼ばれた合気道家は、小山はんの前蹴りをかわし、さらに打ち込んできた手を取り、返して、ひっくり返す。
小山はんが、投げられながらも繰り出した回し蹴りが、米田はんの首にかかる。米田はんは蹴りに合わせて、首を振り、すり抜けるが、その体制の崩れた瞬間に、小山はんは足の裏で着地、間髪入れず、米田はんの脇腹に正拳を叩き込み、連発して、アッパーカットを突き上げた。
あっ、やられた! と太児は思ったが、米田はんは倒れない。
「参った。ワシの負け」
小山はんのアッパーカットは、寸止めされていたのだ。寸止めといっても、1センチも空いていない。完全に当たったように見えたのだが、ダメージのないギリギリの距離で止めていた。その前の脇腹への正拳も、軽く当たっていただけだったようだ。
「ほんまやったら肋骨骨折と、脳震盪やな」
両者、礼をして、コートから退場した。
「1コート、勝者小山さん。両者休憩して、第三戦目に備えてください」
女性の声が上がる。
試合時間は10分とのことだったが、3分も経っていない。
むこうの第2コートでは、武器対武器の試合がまだおこなわれているようだ。
「あれ、もしかして、ヒロさん?」
浅黒い顔に坊主頭、黒いコスチュームで棍を持っている男は、まぎれもなく、以前、薬物ゾンビの魔の手から太児と拳二を救ってくれたヘンテコ武器マニアのヒロだった。
ヒロの方も太児達に気づいたようで、一瞬、口を目を開いてビックリしたのち、ニヤッと笑った。
ヒロの相手は槍だ。槍の先についている刃が十字になっている。
両者、間合いを取り、お互いの突きをうまくかわして、カンカンと音を鳴らしている。
ヒロの棍より相手の十文字槍の方が、けっこう長いようで、リーチの差を埋めるために、ヒロは槍を払いつつ左右に回り込み、深い間合いに入ろうとする。
だが、十文字槍は引き際に引っ掛けることもできる。引き寄せられる十文字を防いだヒロの棍が、跳ね上げられた。
「あっ!」
しかし、跳ね上げられたと思った棍は、三つに分裂した。
「三節棍?」
伸びた三節棍が、ブン! と回転し、槍の相手の頭を狙う。
しかし槍男も巧みなもので、姿勢を落とし、棍を躱し、低い位置から十文字槍を突いてくる。
ヒロは戻ってきた端っこの棍をキャッチし、三節棍を十文字に交差させ、突き出された十文字槍を上から挟み込み、地面に突き刺した。
槍男は、槍を素早く手放し、空中を高く飛んだ。
なんと意外! 弾道ミサイルのような飛び蹴りがヒロを襲う。
「あっ!」
ヒロは、後ろに転がりながら、引き抜いた三節棍を、槍男に向けて振ると、カンカンカンカンカン!と音とともに、三節棍が伸びた。
「九節鞭?」
三節棍の3つの棍の一つ一つが、さらに3つづつに分かれて伸びて、9つの棍になったのだ。それぞれの棍はヒモでつながっており、棍というより鞭のようなしなやかな武器となる。
九節鞭が、鞭男の足に絡みついた。ヒロが起き上りながら、九節鞭を引き寄せると、槍男がどう!と倒れ込んだ。
ヒロがさらに九節鞭を引き寄せると、カカカカカカカカン!と、元の一本の棍に戻る。
ヒロは棍をくるっと一回転させ、槍男の喉元にピタッと当てた。
「ま、参った」
ヒロは、棍を外し、槍男の手を取り引き起こした。
パチパチパチと、まばらな拍手が起こる。
「2コート、勝者ヒロさんでした。両者休憩して3戦目に備えてください」
「うむ。すごいもんを見せてもらったのう」
東山先生が感心したように言った。
「だが、疑問に思わんか、おぬしら」
と太児達に聞く。
「えっ、まだ勝負はついてなかったとか?」
「場外にはみ出てたけど、ペナルティはないとか?」
「いや、そんな些末なことじゃない」
東山先生が険しい顔で言った。
「…節が二つなのに三節棍、節が八つなのに九節鞭とはこれいかに?」
「えっ、そこ?」
3コートでは、柔道対レスリング、4コートではカポエラ対ムエタイの対戦が終わったようだった。
※ 日本語の「節」は「中間の接続部」「区切り」のニュアンスですが、中国語では分割されたパーツを数える言葉ですので「構成パーツの総数=節数」になります。三つの棍なので三節棍。九節鞭は木製の節(セグメント)が8つで、持ち手(グリップ)と合わせて9節とカウントします。東山先生が知らないはずはなく、太児達をからかっているのです。
第六十三話 美鈴、ダンクを放ち、理屈男が血にまみるること
「太児、来てたのか~。ビックリしたぜ」
選手控えコーナーにいた太児に、コートから退場してきたヒロが声をかけた。
「ぼくもビックリですよう。ヒロさん、常連選手なの?」
「いや~、2回目だ。ざんすざんすの変なオッサンに誘われてさあ。相手にケガをさせない武術大会だって言うから、興味が湧いてな」
「ぼくも、その人に公園でいきなり絡まれて、合格したとかで、よくわからないまま来たんだよ」
「たいしたもんだな。ここに出ている連中は、相当な使い手ばかりだぜ。でも一般的な試合や競技に向かない修行をしていて、表舞台に出ることがないんだな。そういうのを集めているらしい。けっこう面白いぜ」
「まさか、ヒロさんが武術大会に出るなんて思ってもみなかったなあ」
「俺もだよ~」
「じゃあ、そんなに怪しい大会でもなかったんだなあ」と拳二。
安心したような拳二に、ヒロが言った。
「いや、怪しいぜ」
「えっ?」
「選手も怪しいが、主催者のトニー渓が何者かわからねえ。金儲けにもなってなさそうだしな。どうも日本人じゃないような気もするんだよなあ。俺も日本国籍じゃないけど」
「ええっ、メガネ出っ歯で、昭和の典型的日本人サラリーマンってかんじですけど?」
「トニーだからアメリカ人じゃないの? 英語喋ってるし!」
「あれが英語かねえ? それにお前ら、昭和なんて知らないだろう…。それより次の試合が始まるぜ、話はあとだ」
ヒロが第3コートを指さした。
「えっ、もう美鈴の出番?」
「レディースアンドジェントルメン! 第二戦、はじめるざんすー!」
トニー渓の甲高い声がコロシアムに響き渡ると、場内が一瞬、静まった。
白線を引かれた四角いコートには、美鈴と、対戦相手の西森浩之が立っている。
「浩之じゃない。あんた、こんな大会に出てたの?」
美鈴が眉をひそめて言う。
「美鈴じゃないか。おまえこそ、なんでこんなところに? 武術なんかできるのか?」
西森浩之が、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
浩之は、中学生時代、美鈴と生徒会会長選挙で争った仲だ。成績優秀で、スポーツマン。合理主義の皮肉屋だ。
美鈴も成績優秀、バスケットボール部で活躍していたが、直情的で性格は正反対だ。
浩之が会長、美鈴は副会長になったが、二人の意見はロクに合わず、生徒会の成果は何もなかった。
「できるかどうかは…」
美鈴はゆっくりと構えを取る。
「やってみなきゃ、わからないでしょ?」
「ふん、論理破綻の典型例だな」
浩之がにやりと笑った。
「不確定な要素に賭ける時点で、すでに戦術としては破綻している。お前の敗北は、確定だ」
「ごちゃごちゃうるさいわね」
美鈴が雲手の動きで浩之に近寄った。その足取りは軽く、舞うようだ。バスケットボールのドリブルのようにも見える。
「なんだそれ、太極拳か?」
「そうよ、あんたのは何よ」
「敵に手の内をバラすわけがないだろう。相変わらず、短絡的思考だな」
「人には言わせておいて、自分は隠すなんて、相変わらず卑怯ね」
「それはあなたの感想ですよね。こういうのは卑怯じゃなく、兵法っていうのさ」
美鈴の雲手が伸び、左右からビンタのように浩之を狙う。
しかし浩之は、パパパパッと、すべての攻撃をはたき落とした。
「そんなスローな攻撃は当たらないな。俺の攻撃がかわせるかな?」
いうなり、浩之のまっすぐな連続パンチが美鈴に迫る。
美鈴は、仰け反りながらも巧みなフットワークでギリギリかわすが、近寄ろうとすると、下から斧のような蹴りがまっすぐに飛んできて、反撃ができない。
「フフッ。お前のようなフワフワした中途半端な武術など、この俺の合理的実戦武術の前には、まるで及ばない」
美鈴は、横から回りこもうとするが、直線的な上下からの攻撃に隙が見いだせず、振りまわされてしまっている。
「型が崩れてガタガタだな。ハッハッハ」
美鈴がぐらッとよろめいた瞬間、浩之の掌が美鈴の頬を叩き、足が美鈴の足を刈り、どうと美鈴は転倒した。
東山先生が、つぶやく。
「型がガタガタ…。あやつ、やるのう。あれは詠春拳(えいしゅんけん)じゃな…」
「えいしゅんけん…知らないですね」
「伝説のカンフースター、ブルース・リーが学んでいたことで有名になった武術じゃ。映画じゃ派手な立ち回りをしていたブルース・リーも、元来はコンパクトな武術を極めていたのじゃ」
「間合いがすごく近いみたい…」
「同じ間合いの太極拳にとっては、脅威じゃな」
浩之はゆうゆうと、コーナーに下がる。
美鈴は倒れたまま、浩之をキッと睨みつけた。
「あんた、女の子を殴ったわね! 最低ね!!」
「これは武術の大会だからな。自ら望んで出場した者に、男女は関係ない。はい、論破」
「何を屁理屈こねてんのよ。許せないわ!」
「ふふん、感情に任せているようでは、勝ち目はないな」
美鈴は立ち上がり、半身になって構えた。
浩之が言う。
「勝負は自己申告だ。俺の勝ち」
「勝手に勝利宣言するんじゃないわよ。まだ終わってないわよ!」
美鈴がふたたび、細やかな足運びで、浩之に近づく
「じゃあ、完膚なきまでに叩きのめしてやるまでだ!」
バババババッと、浩之の拳が繰り出され、美鈴は受けるのに精いっぱいだ。
拳を受け流しつつ、足を浩之の股下に差し込み、肩で体当たりを狙ったが、さっと躱され、美鈴はまたしても地面に転がった。
「ハハハッ、何度やっても同じだな」
「許せない!」
「許せないのは自分の下手さ加減だろ。はい、論破」
「うっきー!!」
美鈴は浩之の目の前で大きく飛びあがった。
「ダンクシュート!!」
おもわず上を見上げた浩之の鼻柱を、美鈴の拳が、あたかも金槌が釘を打つように叩きつけた。
ブシューッ!
鼻血が舞い、浩之は尻もちをついた。
浩之は、後ろにゴロゴロと回転し、立ち上がり、サッと構えなおす。
「うへっ、油断した。ヒステリー女は何をするかわからんな。もう容赦しねえ!」
ところが、美鈴は構えを解き、浩之の顔を指さして言った。
「あんた血まみれよ。怪我をさせたら失格だったわね。私の反則負けでいいわ」
「いや、ちょっと待て、まだ終わってない」
「いーえ。ルールにより、あんたの勝ち。よかったわね。女の子殴って、女に殴られて血まみれになって、あーよかったよかった、おめでとう」
「いや、ちょっと待て、こんなの怪我のうちに入らん、まだできる」
「いーえ、終わり終わり、あんたの勝ち。はい、論破」
「いや、勝ってない~!」
叫ぶ浩之を後に、美鈴はコートを退場した。
「うーむ、勝負に負けて、メンタルで負かしたのう…」
「なんだか、スッキリしない泥仕合だったなあ…」
「美鈴がケガしなくて良かったけど」
「勝った方がかわいそうな気がするぜ」
トニー渓の声がスピーカーから響いた。
「第3コート、勝者なしざんす」
ボードには美鈴の欄に「失格」と記載された。
第六十四話 拳二、勝ちを手放し、八極拳が宙を舞うこと
「あー、お腹空いたわ」
美鈴が試合場から外に出ると、観客席にタコ焼きの屋台が出ていた。
「おいっ、美鈴やんけ。何やってんねん」
「あれっ、晶ちゃんのパパ。こんなところでお店出してたの?」
「そや。客も少ないし、たいして稼がれへんけどな。イベントには屋台がつきもんや。誰か知り合いでも出てるんか?」
「知り合いじゃなくて、私が出てたのよ」
「な、な、な、なんやと~」
「拳ちゃんや、太児も出てるわよ」
「ほんまかいな! 何を好き好んで…」
「たまたまよ。テツさんは出ないの?」
「こんな賞金もでえへん大会、ワシが出るかいな。そもそも、エントリーしても不合格やで。屋台でなんぼか稼いでる方がええわ。美鈴、たこ焼き食うていけや。ドリンク一杯はタダやで」
美鈴は、タコヤキを頬張り、熱かったのでウーロン茶を流し込んで、冷やしながら、テツに聞いた。
「その、合格とか不合格って、なんなの?」
テツは、タコ焼きを回しながら、少し考えて、答えた。
「ここは審判がおらんからな。軍鶏の喧嘩はあかんのや。死んでも負けを認めへんような奴おるやろ。感情に任せてムキになる奴とか、嘘つくやつとか、いらんらしいわ。ほんで、事前に審査して出ささんようにするわけや。ワシはインチキしてでも勝つタイプやからな。この大会の趣旨に合わへんのや」
美鈴の声を聞きつけて、観客席にいた伊東道戒もやってきた。
「先ほどの試合は、理屈と感情の対決、正しさの執着争いのようでしたね。しかし…勝ちを手放し、相手に押し付けた美鈴さん、見事でした」
「あら、そう? ありがと」
「なんや、ようわからへんけど、美鈴は負けたんか?」
「勝負に負けて、気分は勝者です」
「ま、どっちも負けよ」
「ま、ええやんけ。勝っても銭にならへんようなもん、頑張ったかてしょうない。それより、うまいタコヤキでも食うとけ」
伊東道戒も、タコ焼きを買って食した。
「次の試合は、拳二君の出番のようですよ」
「あいつも勝気やからなあ。どうなることやら。まあ、見てこうけ」
コートに立った拳二は、ジーパンにトレーナー。そもそも出場する予定もなかったので、普段着だ。
対する相手は、中国武術服を着ている。高校生の拳二より、ずいぶん年上だ。
「えーと、剛拳二です。少林寺拳法やってます。初めてです。よろしくお願いします」
「あ、ご丁寧に。阿形です。八極拳です。5回目の出場です」
「えっ、ベテラン! お手柔らかに…」
そういいつつ、拳二は内心喜んでいる。高校の少林寺拳法部では、自分より経験の浅い先輩たちに遠慮の毎日だったからだ。
とはいえ、八極拳とはどんな武術なのか、皆目見当がつかない。
拳二は、軽く構えを取った。
右足を少し引き、両手は自然体からすっと前へ。少林寺拳法特有の、掌を低くおろした一字構えだ。
対する阿形は、両足を肩幅よりやや広く開き、重心を低く落とした。
拳は胸元に構える。静かだが、圧がある。
拳二は、さて、どう攻めて良いものやらわからない。そもそも、少林寺拳法には攻める技がない。相手の出方を、待つことになる。
ドンッ!!
床が鳴った。
阿形が踏み込んだ音だ。
八極拳特有の震脚(しんきゃく)の踏み込みで地面を震わせ、その反動をそのまま打撃に乗せる。
拳二は一瞬、びくっとしたが、震脚を知らないわけでもない。庵天先生に習った記憶がある。
だが、滑り込むように一気に距離を詰める八極拳の戦法に、拳二はひるんだ。
「近ッ!」
拳二はとっさに、前で構えた掌ではたき落とすように阿形の突きを受け、後ろ足で蹴り返そうとしたが、
ドゴッ!
衝撃が腕を突き抜ける。
「うおっ……!」
受けたはずなのに、押し込まれる。
阿形の拳が、体ごと突き抜けてきた。
拳二は思わず、飛び下がった。
「ありゃ、八極拳じゃな」と東山先生。
「本人がそう言ってたよ」と太児。
「年よりは耳が遠いんじゃ!」
「すみません…中国拳法だよね…」
「そうじゃ。接近戦が得意な武術で、猛烈な爆発力で体当たりをぶちかましてくる拳法じゃ。昔、少年サンデーのマンガで一世風靡をしたんじゃが、お前たちの年代は知らんのじゃのう」
「すみません、知らないです…」
「軍隊も採用した実戦本意の武術じゃ。あやつ、手加減できるんじゃろか?」
「拳二は手加減上手だけどね。毎日、ヘタクソな先輩相手に手加減してるみたいだよ」
「少林寺拳法は、相手をケガさせない仏の精神じゃからなあ。しかし、その気持ちのままだと、八極拳相手は厳しかろうの」
再び距離をとって向かい合う二人。
少林寺拳法の受けは、流し、崩し、制する。
だが八極拳は違う。
受けさせてから、押し潰す。阿形の腕が、まるで丸太のように突き込んでくる。震脚と同時に、腰から背中へと波のように力が伝わり、そのまま拳に到達する。
拳二は、一字構えを立て直し、呼吸を整える。
その瞬間、再び震脚。
ドンッ!!
再び真正面から滑り込むような踏み込み。
拳二は半歩、横へ。
掌で阿形の前腕をわずかに流し、その手首に自分の掌を巻きつけた。
(逆小手!)
ドンッ!
阿形がさらに踏み込んできた。体を入れ替え、前腕を立て、肘を拳二の腹にえぐりこんでくる。
「どひゃっ!」
拳二はなんとか受けきったものの、勢いでコートの枠の外まで転がった。
「ほう…よう逃げおったな」と東山先生。
「関節技が決まらず、押しきられたかんじだけど」と太児。
「いや、間合いを読んできとるよ」
観客席側では、タコ焼きを頬張るテツが、ぼそり。
「拳二、勝たれへんやろ。とっとと負けといたらええねん。銭にもならんし」
美鈴がタコヤキを頬張りながら相槌を打つ。
「拳ちゃんじゃ、私みたいに心理戦には持ち込めないわ」
伊東道戒は静かに言う。
「執着を捨てれば状況は変わるかもしれません」
拳二がコートに戻った瞬間、
ドンッ!!
再び震脚。踏み込みと同時に、肘が飛ぶ。八極拳の真骨頂、体当たりのような肘打ち。
拳二は受けず、半身になり、掌でわずかに軌道をずらすが、
ズドンッ!
「ぐっ……!」
肘は逸れたが、肩がかすめた。衝撃で身体が横に流れる。
八極拳は止まらない。一撃が流れれば、二撃目、三撃目。蹴りが同時に飛んでくる。
拳二は、必死になって捌くが、反撃の間もない。
阿形はそのまま踏み込み、短い拳を打ち込みながら、拳二に密着、片手で拳二の腰を抱きかかえた。
身動きの取れなくなった拳二の胴に、阿形は掌を向ける。
「大纏!」
叫んだのは、観客席にいた小学生くらいの女の子だ。
「ん? 誰?」
「高杉凛です…」
阿形の掌が、拳二の胴に深くめり込んだ。
ボンッ!!
観客席が一瞬、静まり返る。
拳二の身体は大きく揺れたが、倒れない。
「……?」
拳二は、打たれた瞬間、完全に力を抜いていた。
受けきろうとも押し返そうともせず、息を抜いた。
観客席で伊東道戒が小さくつぶやく。
「…手放しましたね」
東山先生が目を細める。
「勝ち気を捨てたか…」
太児がつぶやく。
「化勁?」
阿形が再び踏み込む。
ドンッ!!
震脚。
だが宙を舞ったのは阿形だった。
「海底翻花だ」
つぶやいたのは太児だ。
拳二は、押さず引かず、その場で身を翻しただけだ。
阿形は八極拳の爆発力が、暴発したかのように、弾けて跳んだ。
まっさかさまにひっくり返った阿形の頭が地面に激突する直前、拳二は阿形の手を引いた。
背中から地面に軟着陸した阿形は、ゆっくり立ち上がり、頭を振って、言った。
「…参りました」
「えっ?」
「君は、戦わずして、勝ちに執着していた私を無にした」
拳二は慌てる。
「え、そうなの? いや、そんなつもりじゃ…」
阿形は軽く笑って、深く一礼。
拳二も慌てて礼を返す。
勝敗は誰も宣言しない。
拳二はコートを降りながら、思う。
(勝ったのか? 負けたのか?)
控えコーナーに戻ってきた拳二に二人が声をかけた。
「少林寺拳法じゃなかったのう」
「太極拳だったね。拳二、覚えてたんだなー」と太児。
「いや、もういいやって思ったら、勝手に体が動いたんだ…」
屋台に戻ったテツがタコ焼きをひっくり返しながら言う。
「あんなハッキリせん勝負、バクチやったら暴動が起きるわ」
伊東道戒が微笑む。
「得意を手放したら、自然な動きが出たのです」
テツはうなずく。
「ま、手に汗は握ったな。ドリンクもう一杯タダにしといたるわ」
第六十五話 東山、黒歴史を語り 動かずして形意拳を降参させること
選手控えスペースに、派手な蝶ネクタイを締めたトニー渓がひょっこり顔を出した。
「ミスター東山。次はユーの出番ざんす。本来ならメインイベントにしたいくらいざんすが、ユーの栄光を知る者も、もういないざんしょ」
「ん? ワシを知っとるのか」
「達人を求めて世界中渡り歩いてるミーざんすよ。ユーの黒歴史も知ってるざんす」
「なにっ! ワシの黒歴史じゃと!」
東山先生の顔が青ざめた。
「えっ、先生の過去にいったい何が?」
太児が思わず声を上げると、東山先生が、声を震わせながらつぶやく。
「これだけは墓場に持っていこうと思っとったが…」
太児がゴクリとつばを飲む。
「…あれは、ワシがまだ血気盛んで…髪も黒々していた頃…」
「ゴクリ」
「テレビ番組に出た…」
「ゴクリゴクリ」
東村先生が、あたりを見渡し、低い声で言う。
「…素人名人会で漫談をしたら、鐘が一つしかならんかったのじゃ…」
数秒の静寂。
隣にいた、年老いた男が突然振り向き、持った湯飲みをバッタと落とした。
「あ、あれは、おたくさんでしたんか…!」
「むむっ、あなた様はあの日の司会者、浜村淳二、ここであったが百年目!」
「えっ、先生、何を?」
「サイン、くだされい!」
東山先生が差し出す色紙とマジックインキを見て、浜村淳二は小膝叩いてにっこり笑い、サラサラと良く読めないサインを書いた。
「ありがとう浜村淳二…ワシの黒歴史は、今、栄光の瞬間に変わった。陰極まりて陽になるとはこのことじゃ」
恍惚とした表情になる。
「ガチョーン!! ちがうざんす!!!」
トニー渓がコメカミに青筋を立てている。
「ちがうのかい?」
「ユーが、表舞台から消えたきっかけざんす!」
「ああ、あれかい」
東村先生が昔を語った。
「しょうもない話じゃ。実はのー、わし、人に大怪我させたことがあるんじゃ。新年会の後で酔っ払っとっての。絡んできた奴をテキトーにあしらうつもりが、なんの力も入れてなかったんじゃが、10メートルすっとんで、二階から転げ落ちてのう。救急車やらパトカーやら出てきて、大ごとになったんじゃ。それ以来、知らんもんとは推手はできんようになった。こわくてのう」
「そんなことがあったんですね」
「そもそも太極拳が推手の元祖のはずじゃが、太極拳をしている者が、ロクに取り組まん。他の武術をやっている者が興味を持つんじゃが、中途半端にかじった者が、ワシをターゲットに挑戦してきたりして、キリがないし、危ないし、アホらしくなって、引退したんじゃ。じゃが、こういう流派問わずの遊びみたいな大会には興味あるのう」
トニー渓がいう。
「まさか、ユーが来るとは思わなかったざんす。ここの猛者ども相手に、どう立ち回るのか楽しませてもらうざんす」
本部席に戻ったトニー渓が声を張り上げた。
「さて、みなさん…じゃなくて、レディースアンドジェントルメン! 第4試合の始まりざんす!」
東山先生がベンチから立ち上がり、のんびりコートに向かう。
「そんじゃ、ちょっくら遊ばしてもらおうかの」
まるでボウリングのレーンに向かうかのような足取りだ。
コートの向こう側に立つ対戦相手は、体重100㎏を超えていそうな、重心の低い、いかにも武術家体型の中年男だ。柔道着に帯を締めている。
「形意拳です」
「太極拳じゃ」
東山先生が無造作に右手の甲を相手に向けて差し出した。
つられるように、相手も手を差し出す。
「よろしくお願いします」
「うむ。怪我せんようにな」
お互いの手首を合わせることを搭手(とうしゅ)という。中国武術の伝統的な試合開始のスタイルだ。
吸い付いたような二人だが、そのまま動かない。
東山先生は、柔らかい表情のまま、静かに立っている。
形意拳を名乗った男の額に汗が流れた。
一瞬ゆらり、と揺れたが、すぐにおさまる。
静寂だ。
観客席からは、テツ、美鈴、道戒が小声で批評をしている。
「なんや、オッサン、動けへんやんけ」
「寝ちゃったのかしら」
「空ですね」
コートの脇には、太児と拳二。
「化勁…ほとんど見えないけど…」と太児。
「打っていったら…飛ばされるな…」と拳二。
10秒経った。
「…参りました」
口を開いたのは、形意拳の男だった。
場内がざわっと揺れる。
「勝者、ミスター東山ざんす」
会場のあちらこちらから、ふーっとため息が漏れる。
両者、搭手を解き、両手で握手を交わし、にこやかに退場する。
「こんなん、腹も減らへんやんけ」
テツがつぶやいた。
第六十六話 トニー渓、算盤を舞わせ 刺客が縛られること
「さすがざんすねえ。ほれぼれしたざんす」
コートを退場してきた東山先生を迎えて、トニー渓が言った。
「でも、あれじゃ、盛り上がらないざんす」
「そうかね。わしゃけっこう楽しんだよ。濃い10秒じゃった」
「見ている者が理解できないざんす」
「木戸銭とる興行じゃあるまいし、良かろうよ」
「まあ、それがこの大会の良さざんすが…」
満足したような、物足りなそうな複雑な表情をしていたトニー渓だったが、気分を変えたのか、サバサバと本部席へと戻っていった。
「レディースアンドジェントルメン! ブレイクタイムで、アトラクションざんす」
おおっとどよめきが起こる。
「第5戦の選手、欠員が出たもんで、ミーが代わりに入るざんす。対戦相手は、田英海選手。えー、武器使用ざんすね。ミーも武器を使うざんす」
先ほどまで、4つのコートが同時に開始だったが、アトラクションとのことで、一面だけが使われる。選手や観客たちが、コートの周りを取り囲んだ。
蝶ネクタイのまま出てきたトニー渓と、シャツの胸をはだけた、でっぷり貫禄ある体型の田英海が向き合った。
田英海は、丸い玉のついた紐をビーンブーンと振り回す。
「ありゃ流星錘だ」
ヒロが解説する。
「遠距離から振り回して、鉄球をブチ当てる武器だ。敵に巻きつけて引き倒したりできるが、扱いが難しいぜ」
ヒモは長く、隣りのコートまではみだす勢いだ。
田英海と紹介された男が、低い声で、叫ぶ。
「初参加で主催者様相手とは光栄だ! 遠慮はしねえぜ!」
次の瞬間、猛烈な遠心力で回転していた鉄球の軌道が変わり、まっすぐ直線状に、トニー渓を襲った。
「ヒモを肘に引っ掛けて、軌道を変えたんだ」とヒロが解説。
「当たる!」と拳二が叫ぶ。
しかし、トニー渓は、慌てる風でもなく突っ立ったままだ。
鉄球が、トニーの顔面に直撃したかに見えたその直前、ジャッと音が鳴り、鉄球は斜め上にはじけ飛んだ。
「イヒヒ。ほんとに遠慮なしざんすね。試合のルールをご存じざんすか? ま、アトラクションざんすから構わないざんすけど」
軌道の変わった鉄球はすぐさま引き寄せられ、もとの周回運動に戻り、ブーンブーンを空気を切り裂いている。
「どうやって、弾いたんだろう?」と太児。
「ありゃ、算盤だな」
「そろばん?…っていう名前の武器?」
「ちがうわい。電力不要のSGDsな昔ながらの計算機だ。丸い珠がびっしり並んでいて、その回転で鉄球を受け流したんだ」
二発目が飛ぶ。
ジャッ。
またしても鉄球はトニー渓の目前ではじけ飛ぶ。トニーが算盤の面を鉄球の飛んでくる方向に合わせ、衝撃を逃し、軌道を変えているのだ。
鉄球は、直線運動と回転運動を織り交ぜ、前から横から次々とトニー渓に迫るが、まるで見えないバリアーがトニーを囲んでいるかのように、鉄球は当たらない。
「ううっ、どうなってるんだ」と焦る田英海。
「だが、防いでいるだけでは、埒が明かないぜ!」
田英海は左右から、同時に鉄球を投げた。ヒモの両端に鉄球がついていたのだ。
「双流星だったのか」
ヒロが感心する。
「さいざんすか。じゃあ、ミーからも行くざんす」
トニーが算盤を足元に落とした。
「シエーッ!」
トニーが飛び上がり、算盤に飛び乗った。
ジャーーーーッ。
スケートボードに乗っているかのように、一気に田英海との間合いを詰める。
「えっ、計算機が乗り物に??」
トニーは流星錘の軌道を潜り抜け、算盤に乗ったまま、掌を田英海の首に絡みつけ、足を跳ね上げた。
ドスン!
田英海の巨体が倒れ込み、勢いをなくした鉄球がゴンゴンと田英海の頭に落ちる。
「哎呀!」
トニーは、そのまま滑ってコートの端へいき、ジャッと算盤を跳ね上げ、手に受けた。
「くそっ!」
田英海は慌てて立ち上がるが、ふらついている。
「まだやるざんすか?」
「勝ったつもりになるなよ!」
また流星錘が飛んでくるが、ジャッジャッと、トニーは難なく躱す。
ガツッ。
算盤に槍の先のような鋭い金属が刺さった。
「鏢(ひょう)だ。あいつ、他にも隠し持ってたんだな…本物じゃねえか」
ヒロが解説する。
「バカにしやがって!よくも恥をかかせてくれたな。殺してやる」
田英海が叫び、懐から取り出した鏢を次々と投げる。
トニーがひょいひょいとよけると、鏢はエントリー表にザクザクと刺さった。
「プライドが審判と言ったざんす。メンツじゃないざんす。負けず嫌いの子供は、キッズの大会にでも行くざんす」
トニーが算盤に刺さった鏢を抜いて投げ捨て、おもむろに歌い出した。
「あー願いましてはあ~」
算盤を振り、指で弾いてリズムをとる。
ジャッジャッジャジャーッ、ジャッジャララララッラ、ジャジャッジャジャジャッ。
「♪あんたのお名前なんてーの? えらいこっちゃえらいこっちゃヨイヨイヨイヨイ」
「お、おれは田英海だ」
「♪ホントのお名前、なんてーの?」
「なにおっ?」
「ユーはC国の工作員ざんしょ」
「…」
一瞬、無言になった田英海だったが、懐の奥に手を突っ込んだ。
「…バレてちゃあ仕方がない」
田英海は、拳銃をトニーに向けた。
「ありゃ、ノリンコ 92式拳銃 …」
ヒロが解説しかけたが、
バシッ!
田英海の手から、拳銃が弾け飛んだ。
バシッ!バシッ!バシッ!
田英海は仰向けにひっくり返った。
算盤の珠が、田英海の眉間と鼻の下と胸の真ん中を打ち付けたのだ。
「ふん。ミーを殺しに来たざんしょ」
トニーは、倒れている田英海にひらりとまたがり、流星錘のヒモで手足を縛る。
運営テントから二人の男が走り出てきて、田英海を担ぎあげ、会場の外に消えていった。
東山先生と拳二が顔を見合わせた。
「やっぱりこの大会、怪しかったかのう?」
「これって警察沙汰になるんじゃ?」
ヒロが言う。
「あの拳銃がオモチャじゃなくて、本物だったとしたら、国際的事件だぜ…」
太児がつぶやく。
「今、トニーさん、光らなかった?」
拳二が答える。
「そういや、なんかボヤッと、一瞬白くなったような…」
観客席の端では、テツと美鈴と伊東道戒が顔を見合わせていた。
「なんやなんや、エライ物騒なことになったやんけ。チャカなんか持って、ヤー公が紛れ込んでたんかいな」
「あやうく死人が出るところでした。あの方、後光が差してましたね。南無阿弥陀仏…」
「演出じゃない? ざんす男がライトアップされたみたい…」
「あいつ、よう光りよんねん。エンターテイメントに徹しとるんやろ」
「レディース&ジェントルメン!」
トニー渓の声が響く。
「今、何かあったざんすか? ミーには何も見えなかったざんす」
選手一同、大きく首を振り、拍手が起こった。
「サンキューべリマッチの、アイブラユー! じゃあ、第6戦、続けるざんすよ!」
第六十七話 太児、手拭いを放ち、古流剣術が舞うこと
「柔太児選手、こちらへどうぞ」
大会案内係が、太児をコートに誘導する。
相手に怪我をさせないルールだと聞いたが、試合を見ていると、そんな紳士的な選手ばかりでもなさそうだ。さきほどは観客にも死人が出かねかなかった。しかも出場選手の技術レベルは、とんでもなく高くなって常軌を逸している気がする。
とうてい自分が来るような場所ではないように思える。
コートに入ると、向かい合った相手が言った。
「太児か?」
そのビックリした顔は、小学生の時、剣道教室で見た顔だった。
「藤吉?」
「えらいところで会ったな。お前がこんなところに来るとはなあ」
「うん、驚いた」
驚いたが、少しほっとした気もする。
「レディースアンドジェントルメン! 次はなんと、武器対素手になってしまったざんす! 最初の組み合わせと変わったざんすが、人生そんなもんざんす」
藤吉は木刀を持っている。
「お前、無手か?」
「藤吉は、剣道?」
「剣道はやめた。今は古流の剣術だ。お前は太極拳だよな」
「うん」
「油断はしない。お手並み拝見だ」
藤吉が上段に構えた。
刀先は背後に向き、太児からは柄頭しか見えない。
刃の軌道が読めない。
藤吉が、ジリジリと近寄ってくる。
遠い。徒手の間合いではまったく届かない。太極刀でもまだ遠い距離だ。
突然、藤吉の左腕が伸びた。
「うわっ」
反射的に太児は後ろに飛んだが、木刀の先が、鼻先をかすめた。
刀身が見えないところから、いきなりまっすぐ降ってきて、まったく距離感をつかめなかった。
太児はゴロゴロと後ろに転がり、立ち上がった。
「よくかわせたな」
藤吉が低く唸る。
(ひっつかないことには、なんともできない…)
だが、近寄れそうにない。
再び藤吉が上段に構えた
コートの外のヒロの声が聞こえた。
「太児! 秘密道具を使え! スパイダーネットだ!」
「えっ?」
そういえば小学生の時、護身用にと、薬害ゾンビ捕獲用飛び出し網をヒロから支給されたことがあったが、今、持っているはずもない。
だがその瞬間、太児の指がポケットの中の布に触れた。
日本手拭い。
(これだ)
太児は右足を引き、半身になる。
左掌を前に出す。
藤吉の死角になる右側の太腿のポケットから、手拭いをつかむ。
藤吉が近づく。
刀の間合いに入る直前で、太児は手拭いを投げた。
市松模様の布が広がり、藤吉の視界を覆う。
藤吉は慌てる様子もなく、袈裟斬りで手拭いを斬り捨てる。
その瞬間、太児は飛んだ。玉女穿梭だ。
手拭いを投げた勢いに乗って、滑るように間合いを詰める。藤吉の刀は、手拭いを袈裟斬りの流れで左下に落ちている。
太児は藤吉の右腕に触れながら着地した。体を返し、左足を巻き込む。後ろ足を刈る。
(倒れる…勝った)
そう確信した瞬間。
藤吉の体が軽やかに宙に浮いた。
太児の足は空を切る。
手拭いの巻き付いた木刀が、藤吉の背後を回る。
切っ先が天を向く。
(剣道じゃない!)
藤吉は、落下してくる。垂直の斬撃。
太児は、刀を躱して前方に転がり、ふたたび藤吉と向き合った。また元の間合いだ。
手拭いがはらりと地面に落ちた。
「やるじゃないか、太児。だが俺の剣術も、制限だらけの学校剣道じゃない。足払い、体当たり、なんでもありだ」
「行きたかった道に進めたんだね…」
「そうだ。お前が気づかせてくれたんだ」
藤吉の気迫に押される。
(強い……)
当たり前だが、小学生の頃の藤吉とは、まるで別人だった。
第六十八話 太児、素手で剣をあしらい、旧友が参ること
下段に構えた藤吉が、スタスタと近づいてくる。
「お前が剣を持ったら、もっと面白かっただろうな」
太児は間合いを外して、後ろに下がる。
お互いが円を描くように、左に進む。
(このまま時間いっぱい逃げ切ったら負けないか…)
太児がふと思ったとき、藤吉が言った。
「太児。不利なのはわかるが逃げ切ろうとするなよ。俺は勝負を楽しみたいんだよ」
気迫に押された太児はコートの端っこまで来てしまった。
場外は関係ないルールだが、後ろには他の選手もいて、これ以上は下がれない。
藤吉が、滑るように間合いを詰め、刀を振りかぶった。
完全に剣術家の間合い。
太児の脳裏に、過去の映像がフラッシュバックした。
猛烈な勢いで駆けてくる馬に乗った盗賊が、刀を振り上げる。
「やられる!」
恐怖と絶望、殺意と良心の狭間で、動けなくなった瞬間、太児は青い光に包まれた。
コートが消える。
見覚えのある景色。
土の匂い。畑。老人。
声が聞こえてくる。
「…武装した逃亡兵が…食料や女を差し出せと…若い衆はみんな外へ出ていて…」
「ふむ…ならば行くか…兵たちよ…食料ぐらい分けてやる…大人しく出ていけ…」
「なんだと、この死にぞこないのジジイが! まずはお前から血祭りにしてやる!」
槍を突き出した兵士が叫び声を上げ、すっ飛んで畑へと逆さまに落ちる。
「このジジイ、何をッ!」
真っ二つに斬られたかと見えた老人の足元に、刀を振り下ろしたはずの兵士が押さえつけられていた。
振り向いた老人と、太児の目が合った。
「太児よ…素手で武器をあしらう方法は見せたじゃろうが」
ニヤリと笑う老人。
「あ、陳王廷老師…そうでした…」
下山公園の競技場。
振り下ろされる木刀を優しく包み、太児は低く沈む。
気づけば、太児の足元で、身動きが取れなくなった藤吉が「参った」と呻いていた。
「勝者。ミスター太児!」
トニー渓の嬉しそうな声が響く。
太児が藤吉を解放した。
「…大丈夫だった?」
「ああ。気遣われるのも癪だが、お前はホントに凄いよ」
「無我夢中で、何をやったのか覚えてない…怖かったし…」
「そりゃそうだ。そもそも無手で剣に向かおうってのが無茶な話だ。たいしたもんだよ。ま、桜の木で作った木刀だから、当たっても大したことはなかったけどな」
「そうだったのか…。本物に見えたよ」
「俺も、お前が剣を持っているように見えたよ」
向かい合って礼をし、握手を交わし、両者コートを退場した。
第六十九話 トニー渓、八卦掌を巡らせ、太児が宙を舞うこと
試合はその後も続いた。
合気柔術、カリー、剣道、サバット、サンボ、システマ、シラット、テコンドー、薙刀、ボクシング、モンゴル相撲、レスリング…(アイウエオ順)
中国武術からは、蟷螂拳、通背拳、摔跤、酔拳なども。
実に多彩な流派の選手たちが集まり、互いの腕を試していた。
美鈴は二回戦を辞退。
拳二は日本拳法の自衛隊員と対戦したが、激しい打撃戦の末、体力が続かず押し切られて降参した。
東山先生は髷を結った力士と対戦。
東山先生は、力士に組み付かれるたびに崩し、転がし、また起こしては転がす。
十分間、延々と力士は転がり続け、東山先生が勝利した。
力士は砂だらけでヘトヘトだ。
東山先生は「まあ、土俵際がなかったからねえ」と慰める。
ヒロの試合は、あいかわらず奇妙奇天烈だった。
鎖鎌の使い手に対しては、オリジナルヌンチャク。
剣と盾を持つバイキングには、改造刺股と警棒の組み合わせ。
奇抜な武器を使い、エンタメ要素もたっぷりで連勝を飾った。
太児は、もう対戦するつもりもなかったが、案内係に呼び出されてしまった。
コートの向こう端に立っていたのは、なんとトニー渓その人であった。
トニーが太児に声をかけた。
「なんで、ミーがユーを気にかけているか、わかるざんすか?」
「テストに合格したからでしょ?」
「なんで、テストしたか、わかるざんすか?」
「たまたま公園にいたからじゃないんですか?」
「そんなたまたま、あるわけないざんす」
「えっ?」
「これが終わったら懇親会で教えてあげるざんす」
スピーカーから開始の合図が流れた。
「太児と、ざんすのおっさんやんけ。おもろなりそうやなあ」
テツが笑う。
「あの人、いい者なの、悪者なの?」
美鈴が尋ねる。
「ああ見えて約束事はちゃんとしよるしな。あんがい礼儀正しいし、ワシらにも丁寧や。ええ人ちゃうか?」
「内面に徳を備えた人なのでしょう」
伊東道戒が言う。
トニー渓が構えた。半身になり、片手を太児に向ける。
「やはり八卦掌じゃな…」
東山先生がつぶやく。
「え、八卦掌って?」
拳二が聞く。
「八卦掌っちゅうのはな…円を描くように歩き続けて、相手の死角に回り込む中国拳法じゃ。力でぶつからずに、位置取りで崩す。太極拳に似ていないこともないが…初めてだと、どこから来るか分からんじゃろう」
「そんな武術があるんだね…」
「それよりも気になるのは…」
「えっ、なになに?」
「…懇親会って、ビールとか、出るんじゃろか?」
「ビールは別料金では…? ていうか、俺たち未成年だよ!」
そんなことを言っている間に、試合は始まっている。
トニー渓は、太児の周りを八卦歩で回りながら近寄っていく。
トニーの掌と太児の掌が触れた。
その瞬間。
スコーン、と乾いた音が響いた。
太児の体が宙を舞い、砂の上に、叩きつけられた。
「……っ!?」
あわてて起き上がる太児。だが、自分がどう倒されたのか、まるでわからない。
「上に気を取られて、足を掬われたのじゃ」
東山先生が、のんびりと言う。
「目まぐるしい変化に惑わされると、厳しい戦いになるぞい」
拳二が腕を組んでうなずく。
「俺が負けたんだから、太児も負けてくれないとな。今後の学園生活に響くよ…」
「お主、案外ケツの穴が小さいのう。親友を応援せんかい」
「フレーフレーた・い・じ!」
「ま、たまに負けるのも良い経験じゃ」
「どっちだよ!」
「どっちにしても、この後の酒はうまそうじゃ」
「だから、俺たち未成年だっての!」
第七十話 太児、地を踏み鳴らし、トニー渓が宙を舞うこと
美鈴が試合を辞退したのには、いくつか理由がある。
そもそも、この大会に参加するつもりはなかった。
勢いでエントリーして、かつての生徒会仲間を叩きのめしてしまい、若干気分の良さはあったものの、そんな自分に嫌気もさしていた。
それに、だんだんエスカレートしていく試合に、太児や拳二が心配になってきたのだ。
「こんな試合、勝つことに何の意味があるのよ。とっとと負けて帰ったらいいのよ」
そういう美鈴に、伊東道戒が答える。
「この大会、勝ち負けにも執着していない気がします。参加者は腕試しの面白さを期待しているのでしょうが…。主催者の意図がいまいちわかりませんね…」
「トニーは、自分が楽しみたいんやで。金持ちの道楽や。ワシはタコ焼きが売れてくれたらええけど」
テツが呑気に答える。
コートでは、またしても太児がクルクルと舞浮かされ、ひっくりかえされていた。
「太児、大丈夫かしら。やられっぱなしじゃない?」
コートの向こうからは「フレーフレー」と気の抜けた拳二の声援と、「立て、立つんじゃ、ジョー!」と丹下段平の下手な物真似をしている東山先生の声が聞こえてくる。
「太児! 頑張って!」
美鈴が大声で叫んだ。
太児は転がりながら、美鈴の声を聞いてホッとした。反則負けでふてくされているんじゃないかと、心配していたのだ。
「ガールフレンドの応援でニンマリとは、余裕ざんすねえ」
トニーもニンマリ笑う。
太児が起き上りながら言う。
「トニーさん、ぼくに稽古をつけてくれているんでしょう?」
「なんで、そう思うざんす?」
「ぜんぜん殺気がないですよ」
「そりゃ、怪我をさせないルールざんすから」
「それにしても、技がバラエティに富みすぎていて、なんだか技術展覧会みたいになってますよ」
「ふふん。しゃらくさいこというざんすね。もう時間もないざんす。ひとつくらい返してみるざんす!」
八卦歩で回り込んでくるトニー渓の掌が、太児の首筋に滑り込んでくる。
すれ違うように、体を返し、トニーに纏わりつこうとするが、その時には既にトニーはそこにいない。
追い詰められているようで、追いかけているのは自分だ。そしてドツボにハマるパターンを繰り返している。
(そうか、捨己従人を忘れていた!)
太児は目を閉じた。どうせ目で追いかけても、追いつかない。
トニーが回転しながら足を刈ってくる気配を感じた。最初に太児がひっくり返された技と同じだ。
トニーの回転の勢いに吸い上げられるように、太児は脚を上げた。体が浮き上がる。
(浮いたなら落っこちればいいんだ)
トニーの回転に抵抗せず、まっすぐ上げた足を落とす。
ズン!
震脚。
地球の引力が螺旋状に跳ね上がる。
ブルッ!
太児の腰が震えた。
「しぇ~~~ざんす~~~」
トニー渓が、激しく回転しながら空中高く舞い上がり、そのままゴロゴロとコートの上を転がり、場外にいた東山先生の足元まで転がった。
「時間です」
アナウンスの声が響いた。
「跳んで跳んで跳んで跳んで回って回って回って回る…。すさまじいもんじゃ」
つぶやく東山先生に、トニー渓が言う。
「回った数なら、ミスター太児の方が多いざんす。ミーの勝ちざんすね」
「急がば回れ、回るが勝ち、回る門には福来たる…じゃな」
「意味不明ざんす」
「トニーさん大丈夫ですか?」
ビックリした顔で心配そうに太児が声をかける。
「ザッツオールライト! ま、勝負なんてどうでもいいざんす。ユー、すごい成長ざんすよ」
パチパチと拍手が響いた。
「すごいわ、太児!」
美鈴も大きな拍手を送る。
「あの飛ばされ方、前にワシが庵天先生に飛ばされたのとおんなじやな。さすが先生の生徒や」
テツが感心して言った。
「ええもん見せてもろたわ。タコ焼きもよう売れて、今日はええ日や」
第七十一話 トニー渓、七星会を明かし 珠が四つ揃うこと
大会のプログラムはすべて終了し、打ち上げの懇親会となった。
試合会場にはテーブルや椅子が並べられ、パーティー会場に早変わり。
テツは屋台を会場に引き入れ、ビールを並べてホルモンを焼き始めた。会場に焼き肉のいい匂いが充満する。
「寿司もピザもワインも焼酎もあるざんす。楽しむざんすよ」
トニー渓のアナウンスが流れる。
スリリングな技の応酬を交わしていた者たちが、今は大笑いしながら歓談している。
「流星捶の人、どうなったんだろうね?」
小声で太児と拳二がささやく。
隣のテーブルにいた八極拳使いの阿形が、指を口に当て「シッ」と言った。
「俺たちは何も見ていない。詮索しない方がいい。少なくともこの場ではね…」
「は、はい…」
「それより武術の話をしようよ。君たち高校生かい? すごいね」
「いえ、まあ、はい…」
「えへん。こいつらの師匠はこの俺様。小学生の頃から武芸百般、鍛え上げてきたのさ」
ヒロが話に割り込んできた。
「えっ、そうだった??」
そういう拳二に、ヒロが片目をつむり「シッ」と言った。
「ここで庵天のことは話すな…」と小声でささやく。
どういうことかわからない。
「うむ、そしてわしは、こやつらのエンタメの師匠じゃ」
東山先生が割り込んでくる。
「えっ、そうだった??」
「ワシ伝授の話術で、女子にモテモテじゃろうが」
「女子って…」
太児は公園の御婦人方を思い浮かべた
「いや、そこにもおろうが」
東山先生が指さす方には美鈴がいる。
「はっ、太児が口下手で頼んないから、面倒見てあげてんのよ。モテてない!」
「そうでしたっけ…」
テツがホルモン焼きの皿を、太児達のテーブルに運んできた。
「太児は先生にも仲間にも恵まれとるで。人徳やなあ」
「テツさん、ありがとう。ところで、ここのお代はいらないのかなあ?」
「主催者持ちやがな。心配せんでええ」
「ええーっ、あんなエントリー代で足りるのかな?」
「金持ちのやるこっちゃ。心配せんでええ」
席には入れ代わり立ち代わり、いろんな人たちが訪れ、声をかけてくる。東山先生は参加者たちにも知られていたようで、懐かしそうに話す姿も見られた。
ヒロは武器使い達にオリジナル武器を得意げに披露している。
「エクスキューズミー、ミスター太児」
縁もたけなわ、皆がほろ酔い気分で、隣りの話など聞こえなくなったころ、トニー渓が太児に声をかけてきた。
「は、はい?」
太児は慌てて立ち上がる。トニー渓は相変わらず陽気な笑顔だが、その目だけは妙に真剣だった。
「今日の試合、ベリーグッドざんす。若いのに見事ざんすよ」
「いや、そんな……」
太児は頭をかく。
トニー渓は少し声を落とした。
「ユーに内緒話があるざんす」
「え?」
「この大会には、いろんな武術家が集まるざんす。強い人も、変わった人も……。だいたいは純粋に自分の技を試したい人ざんす。だけど、時々そうでない者が混じってくるざんす」
太児はふと、拳二と目を合わせる。
さっき話していた「流星捶の人」のことが頭をよぎった。
トニー渓はグラスのワインをくるくる回しながら続ける。
「ユーを呼んだのには理由があるざんす」
トニー渓が静かに言った
「ユーがマスター庵天の弟子だからざんす」
太児の表情が固まる。
「…え?」
「ユーのことは調べてあるざんす」
トニーは胸ポケットから、小さな珠を取り出した。
古い木の玉。
「これは礼の珠ざんす」
玉を返すと、「礼」の文字が見えた。
太児は息をのむ。
「ユーも持っているざんすね?」
太児は無意識にポケットを押さえた。
トニーはニヤリと笑う。
「安心するざんす。敵じゃないざんす」
そして声を落とした
「仲間ざんすよ」
「へ、仲間?」
「七星会ざんす」
「?」
「知らないざんすか?」
「あまり社会の成績は良くなくて…」
「教科書に載っているような話じゃないざんす」
トニーは周囲を見渡し、誰も聞いていないことを確認し、低い声で言った。
「僕はね、北京大学の学生だった…」
笑顔が消える。
「戦車の前に立ったこともある。知ってるかい? 天安門事件」
「教科書に載ってたかも…」
ざんす口調が消えたトニーに、太児が少しとまどう。
「教科書ね…。1989年、中国の北京で学生や市民が民主化を求めて天安門広場に集まりました。政府は軍隊を動員してこれを武力で鎮圧しました…くらいの記述だっただろう
太児がこっくりとうなずく。
「仲間が大勢むごたらしく殺された。僕はアメリカへ逃げた」
しばらく沈黙。
「命からがらざんす」
太児はどう切り返していいのかわからない。東山先生ならしゃれた言葉で会話を繋げるのだろうか。
「生きて逃げ延びた仲間が結束して、民主化運動を続けることにした。それが七星会」
しばし沈黙。
「幸いにも僕にはビジネスの才能があった。華僑ネットワークの支えもあり、商売が成功して活動資金を調達できるようになった。この大会も七星会が出資している。スポーツ選手ではない本物の武術家を集めている。人脈作りのためと、武術界の敵味方の分別のためだ」
トニー渓は再び周囲をぐるりと見渡した。
「僕は狙われている。C国政府が民主化運動を許すはずがない。日本にも、中国の秘密警察が入り込んで、反政府思想を持つ中国人を片っ端から捕まえている。捕まえるのが難しければ、暗殺だ」
トニー渓がグラスを指さす
「このワインは、ノンアルコール。僕は酔っぱらうこともできない」
さらに声を潜めて言った。
「田英海と名乗った流星捶の男は、日本に送り込まれた中国警察の警官だ。情報操作でも破壊工作でも暗殺でもなんでもやる。今、七星会の地下施設に監禁している」
トニーが足を組み替えた。
「以前、七星会が立ち上がったばかりの頃、日本で生まれた僕の息子がC国の工作員に誘拐されたことがある。助けてくれたのが日本を拠点とする秘密組織「連環」だ。そのときのエージェントが庵天、つまり君の師匠だ」
「えっ」
太児が小さく声を上げた。
「七星会と連環は共通の思いがある。七星会はC国の民主化。連環は日本の自立だ。ともに世界平和を願っている」
「庵天先生と君の父親。その二人を、七星会も追っている」
「えっ…!」
太児の心臓が跳ねた。
トニーはグラスを置いた。
「台湾から香港、そして大陸へ向かったようだ」
太児の時間が止まった。
「世が乱れるとき、とある武術の里に伝わる七つの珠が、不思議な力を発揮し、革命が起きるとの伝承がある。二人は珠の行方を探っている。七つの珠のうち二つが今ここにある」
トニー渓が「礼」の珠を持ち上げ、そして、太児のポケットを指さした。
太児はポケットに入れた手に力を込めた。
「…もう一個はここや」
土手焼きの皿を持ってきたテツが、腹巻の中から袋を取り出した。
「義」の文字が見えた。
「えっ? ええーっ?」
「春子はんから、ワシが持っとくように言われたんや。それが一番ええんやと。売ったらアカンって、せんど言われたわ」
「春子さんから?」
「せや。春子はんからも、話を聞いたらええ」
春子は庵天先生の奥さんだ。庵天先生がいなくなってからも、時々は拳二達とアパートに遊びに行っている。春子さんも庵天先生がいなくなって寂しいのだろう。いつも歓迎してくれる。
「ふふっ。ここにいるわよ」
「ええええーっ?」
パーティー会場の女性スタッフのユニフォームを着て、ヤキソバ大盛りを持ってきたのは、春子だった。
春子が首にかけていたペンダントを見せる。
「智」と書かれた木の珠だった。
春子とトニー渓が目を合わせ、ニコッと笑った。
「役者がそろったざんす」
会場ではゲラゲラと酔っ払いの笑い声が響いている。
ホルモンの匂いが漂う
「太児」
トニーが真剣な目で言った。
「覚悟はあるか?」
「えっ、なんの?」
「先生と父親と、残りの珠を探す覚悟だ」
「え、あ、あの、うん…」
太児は、頭がグルグルした。
「フフフ。今は楽しむざんす」
そう言うと、マイクを手に取り、陽気に叫んだ。
「レディース&ジェントルメン! まだまだビールはあるざんすよー!」
会場がどっと沸いた。
第七十二話 春子、太児の母と語らいて 侠眼の妻の強きを知ること
父が出張に出かけたのは、太児が小学5年生の時だった。
冬に庵天先生も旅に出た。
時はやや遡って、太児が中学生になった春の午後。
太児の母が、台所で湯を沸かしていると、玄関の呼び鈴が鳴った。
「こんにちは」
入ってきたのは庵天先生の妻、春子だった。
太児の母は微笑む。
「春子さん、いらっしゃい。お茶、今いれるところよ」
彼女は時々こうして訪ねてきた。
特に用事があるわけではない。
夫が留守のもの同士、お茶飲み友達だ。
二人は縁側に座った。
庭の梅が散り始めていた。
しばらく世間話が続いたあと、母がぽつりと言った。
「……不思議なの」
「何が?」
「毎月、お給料は振り込まれてるんだけど…」
春子は黙って聞いている。
「振込日が、変わってたのよね」
母は苦笑した。
「変よね」
しばらく沈黙が続いた。
「庵天先生も、でかけたっきりなのね」
風が庭の木を揺らす。
「中国よ。先生は昔中国で暮らしていたから、あっちに仕事のつながりが多いのよ」
「うちの人たら、なんにも詳しいことを教えてくれなかったわ」
母はしばらく考えていた。
そして小さく笑う。
「…普通の会社員じゃないって、思ってたわ」
「どうして?」
遠くを見るような目。
「夜中に電話が来たり」
「急に何日も帰らなかったり」
「体に傷があったり」
母は続ける。
「でもね…聞かなかったの」
春子が聞く。
「どうして?」
母は静かに答える。
「聞くのが怖かったし…言えない仕事なんだなあって思ったから」
柔らかい風が庭を吹き抜けた。
「でもね…信じてるの」
母は少し笑った。
「悪いことをする人じゃないわ」
母は続ける。
「信念を持つ人なの」
母は湯のみを両手で包み、しばらく黙っていた。
「生きてるのかしら」
その声は小さかった。
春子はただ静かに言う。
「もちろん、帰ってくるわよ」
母はその言葉を聞き少しだけ目を閉じた。
「そうね…帰ってくるわね」
その夜。
春子はアパートで通信機を開いた。
短い報告を送る。
「侠眼の妻、おおむね異常なし」
送信先は連環。
そして彼女は小さくつぶやく。
「…侠眼」
「あなたの奥さんは強い人ね」
第七十三話 晶、ホルモン店を経営し、テツは雇われ店長となること
「いらっしゃい!」
鉢巻き姿のテツが、ホルモンを焼いていた。
太児、中学2年生の冬。
「おお、太児とお母はん。ようきたのワレ」
テツは、商店街の焼き肉店で、雇われ店長になっていた。
寂れた商店街で、跡継ぎもなく閉店を考えていた店を、中学生だった晶が借り受け、父親のテツを店長に据えたのだ。
母親のヨシ江は仲居さんだ。
実家のホルモン屋を、真面目に経営せず、遊んでばかりのテツだったが、馴染みない土地で、娘が用意した店を任されたとあっては、逃げ出すわけにもいかない。
テツの濃いキャラクターは、最初は地元の人たちを戸惑わせたが、だんだん人柄が親しまれるようになり、地元ニュースにも取り上げられて、すっかり、商店街の名物店長となっていた。
「珍しいやんけ、太児。お母さん孝行か?」
「晶ちゃんから、ぼたん鍋を始めるって聞いたもんだから、お母さんにも食べてもらおうと思って」
「おお、そうか! 晶が猪肉を仕入れて来よってな。ま、奥に上がれや」
「いらっしゃーい!」
「あれ、拳二もいたの」
「冬休みじゅう、晶にこき使われてるんだよ。今日は朝から、猪の解体をやってた」
「うひゃー。ぼくも手伝うよ。今度、イノシシが取れたら教えてよ」
「お前は武術修行の一環だろ、どうせ」
そういって拳二が笑う。
「まあね。庵天先生に、いろんな修行をやれっていわれてたし」
「また、みんなで合宿もしようぜ」
「うん、いいね。春子さんにお願いして、合宿させてもらおう」
湖に近い庵天先生のアパートは、その後も4人の集まり場所となっていた。
「晶ちゃんは?」
「イノシシの解体の後、裏の空き店舗を見に行ってる」
「空き店舗?」
「手作り豆腐屋の藤原さんだったんだけど、豆腐の配達をしていた跡継ぎ息子がカーレーサーになってイギリスに行ったとかで、閉めたんだよ」
拳二が寂しそうに笑う。
「そこで、新しく始める気らしい」
「何を?」
「猪肉の加工場とか。食肉処理業許可を取るんだって」
太児は目を丸くした。
「加工場?」
「ぼたん鍋以外にも、ソーセージとかジャーキーとかペットフードとか、作るんだってさ。商店街の名物にするって」
奥の厨房からテツの声が飛ぶ。
「おい拳二ぃ! はよ肉もって来んかいワレ!」
「はいはい、今行きますよ店長」
拳二が立ち上がる。
太児もついていく。
店の奥の台の上には、解体したばかりの猪肉が並んでいた。
拳二が言う。
「晶はさ」
包丁を動かしながら続ける。
「猪だけじゃないって言ってた」
「え?」
「山のもの全部やるって」
「全部?」
「猪、鹿、山菜、蜂蜜、炭」
拳二が肩をすくめた。
「ジビエ名物の商店街にするんだとよ」
太児は驚いた。
「すごい計画だなあ」
その時、店の戸が勢いよく開いた。
「ただいまー!」
息を切らせて入ってきたのは晶だった。
髪に木の葉がついている。
「お、太児来てたん」
「あれ、晶ちゃん、山行ってたの?」
「そや。猟師さんのとこ」
そして手に持っていた袋をテーブルに置く。
中には白い塊が入っていた。
「これ何?」
「蜂蜜や」
拳二が吹き出した。
「今度は養蜂かよ」
晶は真顔で言う。
「猪だけやったら、商売は広がらへん。冬だけやし」
そして笑った。
「商店街、空いてる店、全部使ったるで」
テツが奥から叫ぶ。
「晶! ぼたん鍋もう一つや!」
「何をえらそうに指図してんねん、雇われ店長!」
「す、すんまへん」
お母さんが座敷から、ビックリした顔で覗き込んでいる。
晶はエプロンをつけながら言った。
「まずは、この店から繁盛させるで」
太児は、ふと思う。
晶は、将来とんでもないことをやるかもしれない…
第七十四話 美鈴、国史を正さんとして浩之が合理で会長になるのこと
太児達が中学3年生になったときのこと。
庵天先生のアパートの合宿で、ぼたん鍋を食べながら、美鈴が言った。
「私、生徒会長になるわよ」
「ええーっ、まじ!」
と、拳二が驚く。
「大人になったら私、総理大臣になるわ。そのために今から、選挙とか政治とか、生きた勉強を積むのよ」
「総理大臣になって何やんのん」と晶。
「日本列島を、強く豊かに」
「おおっ、すげえ!」と拳二。
「その第一歩が生徒会長なんだね。壮大な計画!」と太児。
「生徒会長になって、なにやんのん」と晶。
「とりあえず、歴史の教科書を入れ替えることを公約にするわ」
「ええっ、そんなこと、できるの!?」と太児。
「というか、なんで?」拳二。
「うちの学校で使っている日本の歴史の教科書、あれ変よ。ちゃんとした教科書に入れ替える」
「何が変なん?」と晶。
その質問に、美鈴が問い返す。
「日本史って、どこから始まったと思う?」
「石器時代?」
「石器時代は歴史じゃなくて、考古学よ。うちの学校の日本史の教科書は、縄文時代弥生時代の考古学からいきなり、いたかどうかもわからない卑弥呼にとぶの。そして、そこから200年とんで奈良時代よ。仁徳天皇や聖徳太子の時代ね。つながりがわからないわ」
「卑弥呼って、謎の人?」
「中国の文献、魏志倭人伝に出てくるだけ。日本の正史である日本書紀や古事記には出てこないのよ。卑弥呼神社もないし、日本人だったのか、疑わしいわ」
「そうなんだ!」
「それに仁徳天皇は、第16代目の天皇よ。初代からの歴代天皇が教科書に載ってなくて、卑弥呼が載ってるっておかしくない?」
「初代天皇も謎の人なの?」
「謎じゃないわよ。古事記や日本書紀には載ってるわ。初代天皇は神武天皇。その前は神話の時代」
「神話って、作り話だろ?」
美鈴は首を振った。
「違うわ。神話は国家の自己紹介よ。古い国の歴史は神話から始まるのが当たり前なの。昔々からの言い伝えが歴史の始まり。歴史教科書には、それが載っていない。国の始まりを、学校で教わらないの、私たちは! 変じゃない?」
「教科書がそうなってるんだから、しょうがないじゃん」
「しょうがなくない! 始まりのわからない歴史を学んだって、国や民族を大切に思えるわけがないわ。日本人だってことに誇りを持てない」
「なんで、そんな風に思ったの?」
「私、交換留学に行ったの知ってるでしょ」
「あ、十日間ほど行ってたね」
「うらやましい」
「あっちの生徒達と自分の国を紹介し合ったの。私、日本のことを全然知らなくて、恥ずかしかったわ。こんなんじゃダメ。世界を股にかけてブイブイ言わせられるはずがないわ!」
「ブイブイ言わせるのかよ」
「そうよ! ブイブイする手始めに教科書を変えるの! あんたたちも、応援演説とかするのよ!」
「ええーっ、マジで!!」
晶にしても、美鈴にしても、女の子って強いなあと、感心してしまう太児だった。
「問題はね」
美鈴が言った
「屁理屈男が出てくるのよ」
「屁理屈男?」
拳二が聞き返す。
「西森浩之。あいつ、嫌いなのよね」
太児は少し考える。
「誰だっけ」
「理屈で人をやり込めるタイプよ」
晶が笑う。
「ほな、頭ええんやな」
「そうなのよ。だから腹が立つの」
そこへ、台所から春子が湯のみを持ってきた。
「選挙にでるのね」
「そうよ。生徒会会長になるわ」
「すごいわね! がんばって!」
「教科書を変えるのが公約なの」
春子は、少し微笑んだ。
「それは無理ね」
「え?」
美鈴が驚く。
春子は静かにお茶を置いた。
「生徒会に、教科書を変える権限はないわよ」
拳二が肩をすくめた。
「まあ、そうだよな」
「そうかあ。残念だね」
「諦めたらアカン」
春子は続けた。
「権限はないけど、できることはあるわ」
「なに、どういうこと?」
「たとえば…生徒の声を集めて、副教材やデジタル教材の導入を学校に提案するとか、来年度採択に向けて意見書を提出するとか」
美鈴が息を呑む。
「……なるほど」
春子は言った。
「変えることはできなくても、声を届かせる生徒会ね」
「いいわね。それでいくわ!」
美鈴が、力強く言い切る
「そやけど、うちらが使うには、間に合えへんやん」
「それはいいのよ。私たちの後輩たちからでも、日本についてちゃんと知ってほしいと思っているの」
「もしかしたら…教科書は無理でも、副教材や資料集、図書館の本やったら、うちらのおる間に導入されるかもしれへんな」
太児が感心する。
「なんだか政治みたいだね」
美鈴は笑った。
「そうよ。政治をするの」
そして選挙の立会演説会。
体育館に全校生徒が集まった。
壇上には、何人かの候補が立っていた。
「ただいまより、立会演説会を行います」
立候補者の名前が読み上げられ、一番手は、生徒会会長候補の西森浩之だった。
浩之は眼鏡を押し上げて、スピーチを始めた。
「皆さん、こんにちは。三年二組、西森浩之です」
候補者が緊張の面持ちで立っている中、笑顔でよどみなく話す。
「皆さんに一つ質問します。今の学校生活は、効率よく回っていると思いますか?」
生徒たちは、お互いの顔を見合わせたり、斜め上空を見上げたりして、考えている。
「行事の準備で、必要以上に時間を取られたこと。意味がよく分からない作業を、ただ習慣や伝統だからと続けていること。アンケートを取っても、結果がどこにも反映されないこと。そういう経験、あるでしょ?」
「うん、うん、あるある」と晶がつぶやく。
「こら、敵に同調するなよ」と拳二。
「でも、その通りかも…」と太児。
浩之が続ける。
「努力は、成果につながってこそ意味があると僕は思います。僕は、感情や慣習ではなく、合理的な仕組みで学校を良くする生徒会を目指します」
「まず一つ目。学校運営のデータ化です。授業や行事について、生徒の意見を集め、満足度や改善点を数値として整理します」
「二つ目。行事の効率化です。文化祭や体育祭の準備のために勉強時間や部活の時間が削られるのは本末転倒です。作業を整理し、無駄を減らし、短い時間で質の高い行事を実現します」
「三つ目。学校のデジタル化です。アンケートや連絡をオンライン化し、情報のデータを共有できる仕組みを作ります。探したり聞いたりする時間をカットして、合理化します」
「理念だけでは、学校は変わりません。必要なのは、合理的な制度と仕組みです。僕は、生徒会を、声を上げる場所から、学校を動かす組織に変えます。透明で、結果を出す生徒会へ」
「にしもりひろゆき、にしもりひろゆきに、清き一票をよろしくお願いいたします。ご清聴ありがとうございました」
嵐のような拍手が起こる。
「くそう。あいつは頭がいいぜ」
拳二が悔しがる。
次は美鈴だ。少し膝が震えている。
フーっと息を吐きだし、マイクに向かった。
「私は、日本の歴史を、きちんと学べる学校にしたいです」
生徒たちがざわつく。
「今の教科書では、ちゃんと日本の歴史は学べません。太平洋戦争で日本が負けた後、戦勝国によって、教科書が変えられたそうです。日本人が大切にしてきたことが、教えられなくなったんです」
「もちろん、その気になって勉強すれば、今の世の中いくらでも調べて、知ることはできますけど、子供が最初に学ぶのは学校です。学校で学んだことだけじゃ、外国の子供たちに自信を持って、日本のことを話せないんです。私は交換留学先で、悔しく悲しい思いをしました」
「自分の国を知らない子供を育てる学校でいいんですか?」
「私は本当は、教科書を変えたいと思ってるんです。でも、いきなりは無理なので、教科書の改善を提案する制度を作ったり、副教材やデジタル教材の導入を学校に提案します!」
生徒たちは、ぽかんとしている。
大きな拍手をする先生と、顔色が青ざめた先生がいる。
「ふっ、ワンイシューか…」
浩之がつぶやいて、小さく笑う。
拳二が応援演説に立つ。
「こいつ、めちゃくちゃ勉強してます!」
笑いが起きる。
太児も続く。
「美鈴は、本気で考えてます!」
晶は腕を組んで言った。
「やると決めたら、最後までやる女やで!」
拍手がチラホラと聞こえてきた。
投票が行われ、結果が掲示板に張り出された。
「会長 西森浩之」
美鈴は落選だった。
「書記くらいに立候補しとけば当選したかもなあ」
拳二が慰める。
「そうね。残念だったけど、政治はここからよ」
美鈴はあきらめない。
西森浩之の公約は、ある程度成果を出した。意味のないルールの見直しとのことで、髪型とスマホ使用の規制を緩和し、女子は髪の毛が肩にかかっても良くなり、スマホが昼休みに使えるようになった。
その結果、生徒たちからは絶大な支持を受け、半年後の選挙でも生徒会長に当選した。
美鈴は会長は避け、副会長に立候補し、当選した。
美鈴は言った。
「あんなしょうもないルール変更で生徒の御機嫌取りなんて、私が目指すところじゃないのよね。浩之とは気が合わないわ」
美鈴の公約だった副教材の導入案は、結局通らなかった。教科書も変わらない。
「結果は出なかった。でも…やれることからコツコツやるわ」
美鈴は令和書籍の「中学国史教科書」を自費で3冊購入し、学校の図書室に寄贈した。
太児は思った。
美鈴が国を動かす日が、本当に来るかもしれない。
第七十五話 ヒロ、百般護身のこと、経験最強のこと
「いよう、太児、拳二、元気かあ~」
中学3年生の太児と拳二が、キャンプ場の公園で練習をしているところに、ヒロがやってきた。
「ギャルズは、このごろ一緒に練習してないのかい」
「ギャルズって、何時代だよ…。晶は、商売が忙しくって、美鈴は生徒会」
と、拳二が答える。
「お前らはヒマってわけか」
「ヒマじゃないよ。この後、少林寺拳法の道院があるし」
「太児は」
「ぼくは…ヒマなのかなあ。いや、でも、受験勉強もあるし、お母さんにピアノも習ってるよ」
「おう、ピアノまた聞かせてくれよ」
「いいけど…」
「受験は大丈夫なのかよ」
「こう見えても俺たち、成績いいんだぜ」
「春子さんに教えてもらってるんだよ」
「春子さん、すげえぜ。何でも知ってるもんなあ」
拳二が、なぜか得意げに言う。
「おお、春子さんか。庵天の嫁さんとは思えない才女だよな。っていうか、ありゃ諜報員の特殊能力だぜ」
「なんだ、ヒロさん、知ってたの」
「庵天と何年の付き合いだと思ってるんだ。俺も協力者の一員だよ」
「ええーっ、そうだったの?」
「たいした役でもないけどな。でも俺、春子さん、ちょっと苦手…っちゅうか…。太児の母ちゃんの方が、優しくていいよな」
「ええー、春子さんも優しいよ」
「お前たちにはわからんだろうなあ~」
ヒロは、ちょっと口ごもったが、気を取り直して太児に聞いた。
「まあいい。ところで、太極拳は習ってないのか?」
「東山先生と推手の練習はしているよ」
「お前の専門の陳氏太極拳は?」
「庵天先生がいないから誰にも習ってないよ」
「他の先生に習おうとは思わないのか?」
「そんな先生、いないもん。東山先生も、庵天先生に代われるような先生はいないっていうし」
「ふーん。それでいいのか?」
「先生が帰ってくるのを待ってるよ」
「けなげだなあ。よし、俺は太極拳はできないが、武器を使った護身術を教えてやる。庵天から色々教えるように頼まれてたんだ」
「えええ~~。怪しいのだろ~~」
「再現不可能な武器ばっかりだしね」
「そんなんばっかりじゃねえ! 身近な道具を使うんだ」
ヒロの講義と実習が始まった。
「まずは、考え方、マインドセットが大切だ」
ヒロが、レンガの花壇の上に腰かけ、あらたまって話し出した。
「お前たちは既に、そこそこの武術の腕を持っている。多少は自信もあるだろう。でもそれは、忘れろ。過信するな。執着するな。現場で同じ状況になることなんて、ない。常に初めての体験だ。まっさらな気持ちで取り組むんだ」
「太極拳でも同じようなことを習ったよ」と太児が口を挟む。
「そうか。さすが庵天。本物の武術はそういうもんだ。柔軟な頭が大事だな。身近なものでも武器になるし、突き詰めれば立派な武術になる。シャーロックホームズのステッキは武術だったと、もてはやされてる昨今だ」
「へえー」と拳二が感心する。
「だからって、ロンドンの探偵ルックで当時のステッキで練習したってしょうがない。シャーロックホームズは、普段使っているステッキを武器にしたわけだが、現代なら、コンビニのビニール傘だろうな」
「俺のはもうちょっと上等だよ」
「僕のも、ボタンを押したら勝手に開くやつ」
「くそう…お前らブルジョワだな…。まあいい、現代の武道や武術にしたって同じことが言える。お前たちも刀や剣の練習をしているだろうが、そんなの普段持ち歩いているか?」
「もってない…」
「昔の人が昔の道具で編み出した武術の形は、もちろん合理的で、人間の体を最大限に活用した素晴らしいものだ。学んで身につける意味はある」
太児がうなづく。
「しかし、それは現代の現場で、そのままでは使えない」
「そりゃそうだ」
「競技試合はあるが、ほんの一部分の技術の、腕比べをしているだけだ。ポイントを取るのがいくら上手くなっても、ゾンビに襲われたら役に立たない」
太児と拳二は、小学生の頃に、薬物中毒ゾンビ男に襲われたことを思い出した。
「護身術は、身を守ることであって、勝つことじゃない。逃げることも護身だ。だけど、自分だけ逃げればいいってもんじゃないってことは、わかってるだろう」
ふたりは深くうなづいた。
「だから、正々堂々とか、卑怯とか、正統じゃないとか、カッコ悪いとか、相手に悪いとか、危機に遭遇したら、そういった雑念は、一切、瞬間的に、頭から消す。使えるモノはなんでも武器だ。状況、環境、見えるものすべて、闘争か逃走に利用するんだ」
「とうそうかとうそう?」
「戦うにも逃げるにも何でも使えってことだ」
「なるほどねえ」
「身近なもので武器になりそうなものを、あげてみな」
太児と拳二が、思いつくまま、口に出してみる。
傘を剣にする。
カバンを盾にする。
懐中電灯やペンライトで眩しくする。
手拭いで目くらまし。
石を投げる。
水筒の水やコーヒーをぶっかける。
スパイクで蹴とばす。
箸やボールペンでつっつく。
自転車をぶつける。
彫刻刀でぶっ刺す。
「おいおい、だんだん物騒になってきたな。彫刻刀は、奪われたら自分が刺されかねないぞ…。今あげたのは、学校の行き帰りのイメージだな。家にいる時とか、マクドナルドでハンバーガーを食ってる時も考えてみな?」
「ぼくモス派」
「俺も」
「くそう…そこはどっちでもいい…」
「ん-と、ハンバーガーをぶつける」
「コップを投げる…って、紙コップじゃ威力がないかなあ」
「トレイの方が痛そう」
「椅子を振り回すってのは?」
「よしよし、今のは、強盗やキチガイが乱入してきた想定だな。外出先で危険に遭遇したら、他の人に助けを求めるのも、ひとつの方法だ。人も武器、ってことだな」
「そうか。一人で対抗しなくていいよね」
ヒロがうなづく。
「じゃあ、車が店に突っ込んできたとしたらどうだ」
「ええーっ、そんなのよけられないよ」
「運次第じゃんか!」
「そこだ」
ヒロがニヤリと笑った。
「危機が起こる前にあらかじめ、可能性を考えておくんだ。店の前の道路を見たら、車が突っ込んでくる可能性があるかどうか、わかるだろ。それで、どこに座るかが変わってくる」
「そうか。火事や地震もあるよね」
「そうだ。護身術は防災対策と同じだ。考え方が大事なんだ」
「そんなに対策し切れないよ」
「たしかに、細かいケース一つ一つ想定していたらきりがない。対策をいくら準備したって、その時に動けなきゃだめだ。いざってときは、体が勝手に動くようにマインドセットしておくんだ」
ヒロはさらに具体的に、道の歩き方、パニックの避け方、ヤバい人の見分け方などを、レクチャーしていった。
「今日の実習は…そうだなあ、受け身だな。お前たち、ある程度は受け身もできるだろうが、これもマインドセットしておこう。道場で上手に受け身ができるのと、本当に身を守る受け身じゃ質が違う」
「うへー、服が泥だらけになるんじゃ…」
「いい勘してるな。お前らのブルジョワ精神を木っ端みじんにしてやる」
「服はしまむらだよ」
「俺、ワークマン」
「同志だったか…」
ヒロの受け身実習は、前回り受け身、後ろ回り受け身といったオーソドックスなものから、段差で足を踏み外した時、突き飛ばされた時などの予想外の時の反射、また壁に投げられたり、階段や斜面を転げ落ちたり、あらゆる状況を想定して、体験してみるものだった。
二時間ほどびっちり。二人はヘロヘロになった。
「ま、今日はこんなとこだ。次回は、ダッシュで逃げるコツ。やられたフリ、死んだフリの方法。罪に問われず暴力を振るう方法。警察への釈明フレーズ集。裁判での弁解フレーズ集。恨みを買わない方法ってとこかな」
「ヒロさん、なんでそんなに良く知ってるの?」
「まあ~経験に勝るものはないわな」
「…」
「次は、ビックリどっきりメカも新発表するぞ。来週もお楽しみに!」
第七十六話 道戒が般若心経で空を問われ、少年らがそれぞれ朝修行に励むこと
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子…
読経の声が本堂に響く。
伊東道戒は中学生にして、修行僧のような生活をしていた。もちろん学業があるので、学校に行く時間以外だ。
朝はまだ空の暗いうちに起きる。
井戸水で顔を洗い、境内を掃き、仏前に灯明をともす。
それから本堂で正座し、経を唱える。
「…羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経…」
低く落ち着いた声だった。まだ少年の声だが、不思議とよく通る。
外では、鳥が鳴き始めた。東の空が、明るくなってくる。
読経が終わると、道戒は静かに一礼した。
「……ふむ」
黙って聞いていた父が声をかける。
「声はよく出ている」
道戒は振り返り、頭を下げた。
「まだまだです」
「経は覚えたようだな」
「はい。般若心経は」
父はゆっくりと頷いた。
「…空とは何だ」
父の問いに、道戒は少し考える。
「…何もないこと、ですか」
父は首を横に振る。
「違う」
本堂の壁に日が差し込む。
「何もないのではない。すべてのものは、縁によって成り立つ。ゆえに、固定した実体はない。それが空だ」
道戒は黙って聞いている。
「怒りも、悲しみも、恐れも、すべては縁によって生まれる。空を理解すると苦しみから解放される」
道戒は小さく頷いたが、よくわからない。
父が笑った。
「まあ、急ぐな。お前はまだ十三だ。人生の苦しみをたいして知らん。空を理解するには、少し早い」
道戒は父の言葉を胸に刻んだが、「空」が何を意味するのか、朝の光のようには明るくはない。
朝の読経が終われば、徒歩で登校する。
拳二と晶に出会った。
「拳二君、晶さん、おはようございます」
「おはよー」
「やあ、道戒。今日もお経をあげてきたのか?」
「朝の勤行は毎日ですから」
「俺も、百本突きと百本蹴りを毎日やってるぜ」
「うちも太極拳の型は続けてんで。商売人は体力第一や」
「素晴らしい習慣ですね」
しばらく歩くと、太児と美鈴に出会った。
「太児も毎朝、太極拳やな」と晶が聞く。
「うん。站樁功をしながら日の出を待つんだ。それから基本功を一時間ほどやって、套路を通すの」
「朝から一時間か。すげーな」
「もうちょっと長いかな…」
「私も毎日、太児と一緒にやってるわよ」
「えっ、そう? だいたい途中からだし、寝坊とか、宿題とか、ウンチが出ないとかで、休みが多いような…」
バッシーン!
大きな音が鳴り、太児の頬に赤い手形がつく。
「仲良きことは美しき哉…by 武者小路実篤」
道戒が微笑んだ。
「道戒は、家を継いで坊さんになるのか?」
拳二が聞いた。
「そうですね。いずれはそうなるでしょうが、その前に俗世界のいろんなことを経験しておきたいとは思います。寺の中だけで育った僧が、ほんとうの意味で人の苦しみを知れるとは思えません」
「そうなんやー。呑む打つ買うも経験しとこうってわけやな」
「それは極端ですけど、人の欲や迷いを知らずに、何が救えるのかとは思います。仏陀は、王族に生まれ、贅沢三昧の生活を体験し、結婚し子供もできてから、人生に迷い、苦行の道に入り、苦行に意味はないと気づいて、本当の悟りを得たのです」
「アップダウンの激しい人生ね」
「そこに人の世の奥深さがあるように思います」
太児は、自分が将来なにをしたいのか、どうもピンとこない。導いてくれる人がいないような気がしている。
「じゃあ、学校を卒業したら、就職とかするの?」
「そうですね。民間企業に就職するもよし、起業も面白そうです。自衛隊に入って国に奉仕したい気持ちもあります」
「政治家はどう?」
「政教分離ですので、それはないかと」
「あら、そうなのね」
「宗教家が国民を導くのも有りかとは思うのですが、私としましては、ひとりひとりの目線で苦しみや悲しみや怖れを分かち合いたい気がしているのです」
「ふーん。そうかあ」
「ま、この先、自分の気持ちがどう変わっていくのかわかりませんね。諸行無常、色即是空です」
今の気持ちが永遠に続くわけでなし、今は今の気持ちでいいか、と太児は、少し気楽になった。
第七十七話 春子が乱世の兆しを説き、太児ら歴史の大転輪を知るのこと
下山公園での武術大会は、変わった経験だった。
太児は、人生の転機が来たように感じていた。
トニー渓から、天安門事件と七星会の話を聞いた。
多くの武術家との交流もできたが、闇の勢力の存在も目の当たりにした。
気になったのは、父と庵天先生の行方を追っているとの、トニーの言葉だ。
あれから、4年。先生と父は、いったいどうしているのか…。
武術大会からの帰りに、トニー渓より渡されたメッセージカードには、こう書かれていた。
「ご参加、感謝。長い付き合いになるざんす。よろしく」
拳二のメッセージカードにはこう書かれていた。
「グッドファイトだったざんす。またきてちょんまげ」
美鈴にはこうだ。
「勇敢なレディーにエールを送るざんす」
東山先生のカードにはこう書かれていた。
「伝説の名人とのご縁に感謝。またの御出場お待ち申し上げるざんす」
「ほっ。面白い男だの」
東山先生は、意味深に笑った。
次の日の夜、太児、拳二、美鈴は庵天先生のアパートに集合していた
「きのうはお疲れ様だったわね」
春子がお茶を出してくれる。
拳二が言った。
「春子さんがいたんで、びっくりしたよ」
太児が言う。
「トニーさんと知り合いだったんだね」
「前から知ってはいたけど、会ったのは、先生が渡航したあとよ。組織を通じて紹介されたの。トニーさんは、先生に会いたかったらしいわ」
「へえ。怪しいルートだね」
「完全に信用しているわけじゃないけど、トニーさんが先生に助けられて感謝してるのは本当ね。お互いの目指すところは一致しているところもあるし、協力することにしたの」
「何を協力するの?」
「七星会の活動の支援。具体的には情報共有ね。C国の悪だくみ情報よ。トニーさんは、C国内の動きを提供してくれる。先生と、太児君のお父さんの情報も追いかけているそうなのよ」
「ええっ。そうなんだ」
「今、ふたりがいるはずの中国は…、いえ、中国だけじゃなくて、世界中が大きな転換の渦の中にあるわ。日本にいると、あまりわからないかもしれないけど、この10年、世界はどんどん変わっている。わかる?」
春子は湯のみをテーブルに置き、ゆっくりと皆の顔を見回した。
「あちこちで戦争しているよね」
「モノの値段が、なんでもかんでも高くなってるし」
「外国の人が増えたよ」
「AIがすごくなりすぎて、何がホントで何が嘘かわからなくなった」
「そうね。この十数年は、将来、歴史の教科書に世界の転換期って書かれると思うの」
美鈴が聞く。
「転換期? 違う世界になるってこと?」
春子はうなずいた。
「いろんなことが次々起きて、その時は、わからなくても、あとから振り返ると、全部繋がって大きな流れになっていたことがわかるのよ。第一次世界大戦も、第二次世界大戦もそうだったでしょう」
「そうかあ、その時代に人には、流れが見えなかったかもしれないね」
「そう。ここまでを振り返ってみましょうか。ちょうど日本の元号が令和に変わったあたりからが、わかりやすいわ。そのころ、香港で大規模デモが起きたでしょう」
美鈴が小さく頷く。
「ニュースで見たわ。女の子のリーダーが捕まっていたわ」
「それまで香港はイギリスが統治していて、自由主義だったの。99年間の租借の期限が来て、中国に返還された途端、中国政府は香港の自由を奪いに来た。香港のデモは、中国の統治のやり方と自由主義の衝突だったのね。翌年には香港国家安全維持法が施行されて、民主派の人たちが次々と逮捕された。中国と西側は価値観が違うってことが、世界中が知れわたったのよ」
拳二が口を挟む。
「そうか、香港映画が面白かったのは、それより前の時代なんだな」
美鈴もいう。
「ジャッキーチェンも、新しい作品はたいして面白くないものね」
春子が続ける。
「そのあとに新型コロナ。パンデミックで、世界は一変した。国境は閉じて、物流は止まって、都市はロックダウン。人の移動がこんなに簡単に止まるなんて、誰も想像していなかったわね」
太児が思い出して言う。
「旅行にいったらダメだったし、学校もお休みになったね」
「商店街の店も、たくさん潰れたなあ。晶は商売の準備をしてたけどな」
「その間に、世界の仕組みが変わり始めたのよ。国際機関への不信、ワクチンをめぐる対立、政府の権限の拡大。社会の分断も広がった」
拳二が苦い顔をした。
「ワクチンを打たないと、悪者みたいな感じだったな。俺は打ってないけど
「ぼくも」
「私も。みんなセーフだったわね。先見の明があったのかも」
春子が感心して言った。
「あの雰囲気の中で、よく注射から逃げれたわね」
「お父さんがダメって言ってたから」
「俺も」
「私は、打ったことにしておけって言われたわ」
春子が苦笑い。
「それから、アメリカ軍がアフガニスタンから撤退した。途端に、武力勢力のタリバンが政権を握ってアフガニスタンは人権のない場所に戻ったわ。世界の警察と思われていたアメリカの信頼も揺らいだの」
美鈴が息をついた。
「それでロシアが…」
春子は頷いた。
「ロシアがウクライナに侵攻した。ヨーロッパで大規模な戦争なんて、もう起きないと思われていたのに」
拳二が言う。
「アメリカが舐められたんだな。それで、エネルギーも食料も値段があがったんだ」
「そう。戦争は遠い場所の話じゃなくなった。世界経済、政治、生活、全部に影響する時代に戻ったの」
美鈴がつぶやく。
「日本でもビックリの事件があったわ」
春子の声は暗くなった。
「元総理大臣が狙撃され、暗殺され、翌年には現職の首相にも爆発物が投げ込まれた。日本は政治的暴力と無縁だと思われていたけど、安全神話はガラガラ崩れたわ」
しばらく沈黙が落ちる。
美鈴が言う。
「トランプ大統領も暗殺されかけて耳を撃たれたわ」
春子が答える。
「大統領は何度でも狙われるわね。それから、火薬庫だった中東が爆発したわ。ハマスがイスラエルを急襲、民衆を殺害して、その報復でガザが空爆され、報復合戦になり、さらにレバノンやイランにも飛び火して、なんとアメリカはイランのトップ政治家たちをまとめて殺害。中東は大混乱で、煽りを受けて一帯一路政策で世界征服を狙っていた中国の野望も崩れ、平和ボケしていた日本人も目を覚まし出した」
春子は続けた。
「中国は、ずっと台湾を狙っている。中華人民共和国は天命による正統性がないものだから、なんとしても前国家を亡ぼしたいのよ。隣では北朝鮮がミサイルを撃ち続けている」
拳二が言った。
「落ち着く暇がないな」
「戦争だけじゃないわ。AIの登場。2022年にChatGPTが公開されてから、情報の世界が一気に変わった。仕事も教育も、政治も、全部影響を受け始めている」
美鈴が感心したように言う。
「すごいことよ。世界のスピードが上がったわ」
「それに気候変動。山火事、洪水、猛暑。異常気象が当たり前になってきた。食料や保険や経済にも影響している」
美鈴が言った。
「つまり、全部つながってるのね」
春子は静かに微笑んだ。
「その通り。感染症、戦争、AI、気候、人口減少。別々の問題に見えるけど、実は同時に起きている」
太児が尋ねた。
「世界は何が起きてるんだろう」
春子は窓の外を見た。
「たぶんね……」
少し間を置いて言う。
「世界のルールが入れ替わっている途中なのよ。戦後ずっと続いてきた歪な秩序が崩れて、新しい形に組み替えられている」
美鈴が小さく息を飲む。
「これからどうなるの?」
春子は肩をすくめた。
「どこかの国家が消滅するかもしれないし、敵味方の関係が変わるかもしれないし、力のバランスも変わるかもしれない。諸行無常よ」
そして、少しだけ微笑んだ。
「一つだけ言えることがあるわ」
皆が彼女を見る。
「私たちは今、歴史の転換点の真ん中にいるの」
部屋の空気が、静かに重くなった。
第七十八話 師母が道を示し少年が諜報を知る
「さて、あなたたちももう高校生。戦国時代なら、元服して一人前の武将、軍を率いて初陣を迎える年ごろよ」
春子がニッコリ笑った。
「ええっ、クラブのキャプテンくらいがせいぜいじゃない?」と拳二。
「生徒会会長くらいならなんとか」
これは美鈴。
「ぼくはリーダーには向いてないかも…」
太児は自信なさげだ。
「中学生の時に、受験勉強のお手伝いをさせてもらったけれど、私が何を心がけていたかわかる?」
春子が問う。
「志望校合格…じゃないの?」と美鈴。
「それもあるけど、それよりも、思い込みや、偏った見方ではなく、広い視野で物事を判断できるようにすることよ」
「そういえば、前に来ていた家庭教師とは、ずいぶん教え方が違ってたよ」
小学生の時、拳二の家では、バイト学生の家庭教師を雇い、晶と二人、勉強を見てもらっていた。
「試験問題そのものについても、よく考えて? 他の見方はない? なんて聞かれたわね」と美鈴。
「世間には、デタラメな情報がまかり通っているわ。鵜呑みにはできないし、教科書に載っていることが正しいとも限らない」
「私は、教科書がおかしいと思うようになって、生徒会に立候補したわ」
春子がふふふと笑う。
「今、ロシアや北朝鮮、中国やイランが悪の枢軸みたいに言われているけど、5年後、10年後、20年後、50年後、100年後では見方が変わっているかもしれないわよ」
「どう考えても、あいつらが悪いと思うなあ」
「立場が違えば見方も変わるわ。膨大な情報の中から、常識や世間の声に惑わされず、何が本当かを見極めて、何をどうするか判断することが大切なの。これをインテリジェンスと言うのよ」
「インテリ? 賢い人って意味だよね」
「ちょっと違うわ。そっちは、ロシア語で知識階級を意味するインテリゲンツィアから来ているの。文化人ってニュアンスだけど、知ったかぶりの生っちょろいモヤシな感じもするわね。インテリジェンスは英語で、「知能・知性」を表し「情報収集」「情報分析」のこと。戦略の元になるものよ。諜報活動や諜報機関のことも、まとめてインテリジェンスと呼ぶの。私の所属している連環もトニーさんの七星会もインテリジェンスと言える」
「へー。そうだったのか…」
「受験勉強を通して、私はみんなにインテリジェンスのセンスをつかんでもらっていたの」
「高校に合格するためだけじゃなかったんだね」と太児。
「高校生は学生の身分だけど、もう社会を動かす一員よ。受験勉強は終わったけど、これからもここで勉強会は続けるわよ」
「春子先生の勉強は面白いから続けるよ」
「晶ちゃんはすでに動いている。ビジネスを通じてね。商店街の活性化は、これから始まる新しい世界、誰も知らない世界で、経済を動かしていく予行練習みたいなものよ」
「あいつが、ねえ…」と拳二はいうが、太児は、とても晶らしいと思った。
「美鈴ちゃんは政治よ。生徒会はその練習」
「そうかあ。練習だと思ったら、学校運営なんて簡単に思えてきたわ」
美鈴が、吹っ切れたように言う。
「俺たちは何をするのさ」
そう問う拳二に、春子がきっぱりと答えた。
「インテリジェンスよ」
太児はゴクリと唾を飲み込む。
「庵天先生とお父さんもそうだったんだね」
「そう。諜報員。私もよ」
しばし沈黙。知ってはいたが、ハッキリ言われて、しかも、自分たちも同じ世界に入るのだと思うと、なんともいえない重さを感じる。
「私たちのインテリジェンスの目的は、世界平和よ。全人類が幸福に生きていける世界を実現させるの。その前に、自分の国が平和でなければいけない。政治的な強さ、経済的な強さ、そして軍事的な強さがあってこそ、平和が保たれる」
3人は黙って聞いている。
「平和って、みんな仲良くってことだけど、弱いといじめられるわよね。喧嘩はいけませんなんて、うわべの仲良しは、そのうち壊れる。お互いに尊敬しあってこそ、本当に仲良くできる。もちろん強いだけじゃ尊敬できないけど、強さは最低必須条件よ」
強さの上に、「徳」が必要なんだ、と太児は思う。
「ヒロさんからも特訓を受けてきたわね。これからは本物の武器の扱い、自動車や船の操縦、サバイバル訓練なんかも、こなしてもらうわよ」
「ええーっ、免許もないのに??」
「連環の私有地で訓練するから大丈夫よ」
「そんな場所があるの??」
「ここもそうよ。地下室、見たでしょ。自衛隊の演習所とまではいかないけど、実弾訓練のできるくらいの設備も国内にあるわよ」
「すごい組織だったんだね」
「公式な組織じゃないけど、バックは日本政府よ。秘密だけどね」
ゴクリ。
「私たちの任務は、七星会と協力して、庵天先生と侠眼を捜索し、合流、C国の陰謀を阻止し、民主化を応援することよ」
「そんな、無茶すぎる!」
「昔、陸軍には中野学校っていうインテリジェンス機関があったの。そこで数カ月訓練を受けた秘密工作員達が、第二次世界大戦の裏で、インドやビルマ、マレーなどの独立を支援したのよ。日本の諜報員が欧州白人によるアジアの植民地支配に終止符を打ったのよ! 今、アジアやアフリカの弱小国や少数民族が、C国に主権を握られているわ。世界中に不幸な人がいる。今のドサクサが人々を救うチャンスよ」
壮大過ぎて頭がクラクラする。
お母さんには、何て言おう…と太児は考えていた。
第七十九話 琴を弾き水影を観て、母の言葉に天命を聞くこと
「太ちゃん、上手になったわねえ」
自宅のグランドピアノを弾く太児を、母が褒めた。
太児は、母以外からピアノを習ったことはない。厳しい指導をする先生の噂も聞くが、子供の頃から母からは怒られたこともない。デタラメに弾いていても、いつも褒めてくれる。
今、練習しているのは、ドビュッシーの「水の反映」だ。
水面に広がる波紋がキラキラ光る、映像を表す印象派の作品と言われるが、きらめくような旋律があるかと思えば、静かに沈むところもあり、太児は陰陽を表しているようだと思う。
「なんとか、つっかえないで弾けるようになったけど、まだまだだよ」
謙遜しつつ、学校の文化祭くらいなら拍手喝采だろうな、とも思う。
でも、ステージで目立ちたいとは思わない。
昔の音楽家が、どんな風に宇宙を聴いていたのか、どう音で伝えようとしていたのか、それを知りたいと思う。
小学生の頃に弾いた曲も、誰に聴かせるわけでもないが、ずーっと飽きずに練習している。
太極拳の套路を練習するのと、気持ちは同じだ。
「右手を意識して弾くのと、左手を意識して弾くのと、比べてみてね。きっと、何か違いを感じると思うわよ」
母のアドバイスは素直に聞ける。その時は意味が分からないこともあるが、ずっと後になってから、納得することもしばしばだ。
それから1時間、太児は同じ曲を何度も繰り返した。左を意識して、右を意識して。
あまりよくわからない。
右の時は、カッチリ間違えずに弾けるような気がする。左の時は、流れに乗っているようだが、ミスタッチが多くなる。
「でも、左の方が、好きかな…?」
1年後くらいに、はっきり違いが分かるんじゃないかと思うし、違いがなくなるのかもしれないとも思う。
鍵盤から指を話し、太児は振り返って、母を見た。
「ところで、お父さんのことだけど…」
母の表情が硬くなった。
「本当は何の仕事で行ったの?」
しばらくの沈黙。
「貿易よ。輸入や輸出の交渉をしたり契約をとったり、現地での生産の調整をしたり、すごくたくさんのお仕事があるの」
太児は黙って聞いている。
「…というのは、表向き…って思っているのね」
「うん。もっと大きな仕事をしているんだと思う。そして、なにかトラブルに遭ってるって…」
「どうして、そう思うの?」
「なんとなく」
「…あなた、お父さんに似てきたわね」
「本当は、ある人から、ちょっと聞いたんだ。こないだ武術大会に出た時だけど…」
「夜遅くまで出かけていた時ね。交流会って言ってたわね」
「うん。そこの主催者が、中国人なんだけど、中国から亡命した人なんだよ。その人のグループが、お父さんの行方を捜しているって言ってた」
「…そうなの?」
太児は、春子のことを母に話すべきか、迷った。
先に母が、口を開いた。
「春子さんから、ちょっと聞いたわ」
「えっ」
「…親子で隠し事はやめましょう。…隠していたわけじゃなくて、良く知らないことは話していなかっただけだけどね」
「国家の機密に触れるんじゃない?」
「そうかもしれないわね」
母はそう言って、窓の外に目をやった。
「お父さんがそんな世界につながる人だなんて、結婚した頃は思いもしなかった。でもね、本当は、どこかで気づいていたのよ」
太児は黙って聞いている。
「ただ、知らないことにして暮らしていただけ。人は、そうやって日常を守るものよね」
母は少し笑った。
「どんなにうすらぼんやり暮らしている人でも、どこかでみんな世界と繋がっているのよ。知らんふりをしていても、繋がりは消えないわ」
「お母さん…」
「庶民はそんなことを知らずに平和に暮らしていれば幸せかもしれないけどね」
そういって母が笑う。
「老子だね」
太児が笑って答える。
「でも、人にはそれぞれ天から定められた使命があるのよ」
少し間があった。
「お父さんは、天命から逃げなかった人」
太児は、さっきまで弾いていた旋律を思い出した。
水面のきらめきの下で、見えない流れが静かに動いている。
「天命…僕にも?」
母は答えなかった。
ただ、太児の肩にそっと手を置いた。

コメント