太極拳を学ぶ順番として、まずは形を作る、その練習をやっているうちに、筋力や柔軟性も高まって、まあまあ健康、これが最初の段階でしょう。
多くのカルチャーセンター的教室では、ここどまりってかんじがします。この段階でも、形がキレイに見えれば、大会に出場してメダルくらいもらえます。
見栄えを超えて、形をさらに厳密に整えていくと、筋力や柔軟性以外のパワー、すなわち勁が養われてきます。
これで太極拳っぽさが出てきて、推手なんかもできるようになってきます。技術が上達すれば、色んな人と手合わせして楽しめる程度にはなりますでしょう。護身の役にも立つかも。
勁が整ってくると、体の内側の働きを感じてくるようになります。内臓の動きや、骨の動き、呼吸の作用など、人間の体ってこういう風になってたのかーと、感動します。
これが内功というもんではないかなあと思います。私はその段階に、ちょっと入りかけているかな? というところ。
この内功は、メンタルかフィジカルか、精神か肉体かと考えると、これはまだフィジカル、身体操作の域にあるような気がします。
まだゴールじゃありませんね。
ここからが太極拳の真骨頂じゃないかなあと、この頃思うのです。
人格とか人徳に太極拳を反映させ、自分を自然の一部として生涯気分良く生きるには、太極拳の体になるだけでなく、太極の頭になる必要もあるように思います。
まずは体から、それから頭、そして心と、変容していきます。
武術の練習という感覚ではなくて、もはや生活習慣、息をしていればそれは太極という境地です。
いったいどんな世界なんだ、と考えてみたら、昔の人が既に語っておられました。
無為自然とか、色即是空とか。老子や仏陀が語っていたことです。禅で求めていることも同じでありましょう。
私もわりかし勉強家ですから、知識、情報として、そんなことは知っておりました。大脳新皮質の左側にストックできていると思います。でも、データとして置いてある、というだけで、本当にわかっていたのではなかったですね。
それが、なんだかこの頃ようやく、感覚的といいますか、心が、ちょっと理解し始めだしたような気がしておるのです。
小学生の頃から武道武術に親しんで40年、ようやく小さい光がチラチラと遠くに見えてきたような気がする、という程度です。
この境地に完全に魂が一体となった時、それが達人ってことじゃなかろうか。
市販本やウェブサイトでは、お気軽に太極拳とマインドフルネスみたいに書いてあるのもありますが、ほんまにわかってんのんかいな? と疑ってしまったり。
そんな達人ゴロゴロおらんやろ、と思ってしまうのは、その境地に至っていない私の偏見でありまして、実は意外と身近におられるのかもしれません。わざわざアピールしていないだけで。
生きているうちにその境地に至りたいものです。
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