気の正体

「気」って何?

合気道で言う「気」は、きっと勁のことだろうと書きましたが、太極拳でいうところの「気」は、もっと広い範囲を表しています。

宇宙のエネルギー、どこもかしこにも一杯に満たされているもの、世界の始まりからあるもの、親から受け継ぐ「先天の気」や、生まれてから取り込み続ける「後天の気」など、いろいろと説明されますが、その正体はわからん。

しかし、私はひらめきました!

「気」は言葉です。

いや、それは当たり前やろ、そうでなくて、どういう物質やねん? と問われるかもしれません。

お答えいたしましょう。「気」には物質性がない。(私が作った持論です)

「気」は人間の言葉で作られたものです。言葉の中で存在する現実です。

つまり「気」という言葉が無ければ、「気」は存在しません。

日本武術に「勁」が存在しないように。

しかし「勁」という言葉を知っている私には、合気道にも空手にも「勁」は存在します。武術だけでなく、卓球でも水泳でも「勁」なしではプレイできないでしょう。

でも、やってる当事者にとっては、勁なんて存在しないと思います。

近代医学のお医者さんにとって、丹田とかチャクラは存在しないでしょう。解剖しても見つからないし。

でも、そのお医者さんが趣味でヨガでもやっていれば、存在を認めるかもしれません。言葉があるからです。

ということで「気」という言葉があるから、気はあるのです。

言葉による現実である「気」は、宇宙にいっぱいに満ちて、体の中にも入ってきて、体内をグルグル回ります。すると血流も良くなって、ぽかぽかと温かくなるのです。

言葉がイメージを作り、イメージが人間の細胞を動かします。

「あえいおえおうお」と活舌よくハッキリ聞きとれる言葉でなくとも、瞬間的に脳味噌を通り過ぎるようなのでも言葉です。イメージと言葉は、ほぼ同じだと考えてもいいのかもしれません。

自治会太極拳教室の皆様にそのことを説明し、「気は存在する!」といいました。勁の説明もしました。ポンリージーアンは、あげる、引く、押す、下げるじゃない! ポンリージーアンはポンリージーアンなんだ! と説明しました。

ポンとは、こんなかんじ、ジーとはこんなかんじ、と体感で理解してもらいました。

あるていどは感覚の違いの説明もしましたが、単語を違う言葉に置き換えたら、それはもはや違うものになる、現実が変わってしまうと説明しました。

これは私にとって、非常に大きいパラダイムシフトであります。トランスフォーメーションです。

しかし一気に上達した感じがします。

私だけでなく、教室の皆様全員の太極拳の質が、いっせいにあがりました。

この探求は、まだまだ続きます。

コメント

  1. 吉川 和博 より:

    久しぶりにコメントさせていただきます。

    「気」は言葉である。

    ただの太極拳オタクの「気」について何もわからないど素人の私が言うのもおかしいですが、今まで「気」について書かれたもので一番腑に落ちる「気」についての説明でした。

    理解不足かも知れませんが、「気」は「気」であって他の言葉では説明できない、自ら感じ体感してわかるもの。という理解でよろしいでしょうか?

    「ポンリージーアン」も「ポンリージーアン」である。一番腑に落ちました。まさに私にとって目から鱗でした。ありがとうございます♪

    • ドラゴンパパ より:

      吉川さん、お久しぶりです!

      まさに、そんな感じです。

      「気」は、説明すればするほどに、泥沼にはまってわからなくなります。

      流派によって、カテゴリーによって、個人個人によって、ぜんぜん解釈が違うように思えますけど、人間の言葉によって作られた現実だと知れば、なんの矛盾もありません。

      ポンリージーアンとか、丹田とかも同じですね。

      そのあたりの定義とか意味にとらわれているのは、言葉による現実だということを知らないからでありまして、それが分かれば、ああ、なんちゅうしょうもないことに囚われていたのであろうか! と開眼して、上のレベルに、ポン! と上がって、達人になれるのであります。

  2. 吉川 和博 より:

    本当にドラゴンさんの仰る通りだと思います。
    定義、意味に囚われ過ぎだと思います!
    もっと言えば「太極拳」もそうではないでしょうか?

    すいません、調子に乗りました…

    • ドラゴンパパ より:

      まさに!

      太極拳も言葉で作られていますね!

      「太極拳」について話していても、全然かみ合わない人は多いです。

      違う現実に生きていると考えれば、当然のことでありました。