「気や勁の解説を是非お願いします。」とのコメントをいただきました。
これまでも、気や勁についての考察はしてきましたが、ここらで、現時点での私の理解をまとめておきましょう。
あくまでも私個人の解釈、理解でありまして、世に広まっている俗説や月間秘伝の解説とは大幅に違っている可能性がありますのでご注意ください。
まあ~こんな解釈もあるんだな、程度にとらえていただければ幸いです。
まずは「勁」について。
勁は力のことです。日本語の「力」という言葉は、範囲が広くて、どんな力でも「力」で間に合わせてしまいますが、支那の言葉には、力の種類に区別があります。
日本語でも、例えば「青色」には種類がありますでしょう?
水色とか紺色とか、瑠璃色、藍色、群青色、鉄色などなど、伝統色が74色あるようですね。(おお、老架式一路74式と同じだ。)
日本語の青色に区別があるように、支那の言葉には、力の種類を区別する言葉があるわけです。
それが「勁」です。
勁には、拙勁、巧勁、掤勁、捋勁、擠勁、按勁、採勁、挒勁、肘勁、靠勁、聴勁、化勁、蓄勁、発勁、抖勁、沈墜勁、整勁、懂勁、折畳勁、霑黏勁、抜根勁、開合勁、捲勁、腰勁、胯勁、胸勁、跳勁、寸勁、零勁、蔵勁、十字勁、凌空勁などなど、これまた山のように区別があります。
それで「勁」とは何かといわれれば、「勁」は「勁」なのです。
「正しい骨の構造と纏絲によって生み出される協調して整った効果的な力」とでも訳せるかもしれませんが、それでも正確に訳せている気がしません。
「勁」とはこんなかんじ、と体感して、「あーなるほど、これが勁か」と理解するしかないです。
言葉による区別があるので、現実として存在します。それが「勁」です。
合気道などの日本武術には「勁」は存在しません。
なぜならば、言葉がないからです。
「力」という言葉では表しきれない作用を、合気の人は「透明な力」だとか「気」と呼んで、区別しているのだと思います。
つまり、ボキャ貧を補う言葉が「透明な…」とか「気」ですね。(失礼のほどお許しください)
「勁」という言葉を知っている私にとっては、合気道にも「勁」は存在します。お手合わせして、「気」だと説明されたものは、私にとっては「勁」でした。
「勁」を、摩訶不思議な実態ある物質のようにとらえている人もおられるかもしれませんが、力の作用の区別ですから、物質性はありません。
「気」もおなじく。
素粒子やニュートリノみたいに計測できるものと考えている人があるかもしれませんが、私は「気」も物質性はないと考えています。
「気」は「勁」と同じく、人間の言葉が作った現実です。だから「気」という言葉が無ければ「気」は存在しません。犬や猫に、「気」はないでしょう。
古代支那の思想では、宇宙が始まる前から世界のどこもかしこにも一杯に満たされていて、人間には親から受け継ぐ「先天の気」や、生まれてから取り込み続ける「後天の気」がある、みたいな説明がありますが、これも言葉が作っている存在です。
調子のいいときは元気、臥せっている時は病気、後ろから睨まれたら、はっ、殺気! と振り向く。
気分や感性、直感なども「気」という言葉があれば、なんとなく便利に説明できます。
「気」という言葉があるから「気」はあるのです。
「気」は何かと聞かれても、「気」は「気」なのです。説明に言葉を尽くせば、なんぼでも説明はできましょうが、それでも完全完璧に説明できたとはなりませんでしょう。
太極拳の現実に生きる人にとっての「気」と、合気道の現実に生きる人にとっての「気」は、一致しません。どっちも現実ですから、正解も間違いもありません。
勁とは? 気とは? の論争は、この根本的な人間特有の世界観、言葉による現実を理解せず、あたかも永遠不滅の物質性として宇宙に存在するかのように考えているところから、起こっているように思えます。
勁も気もあるのです。でも、無いんです。
そのような論争は、一言で言えば、アホくさいのです。
それよりも、勁を養う、気の感覚を磨くため、お稽古しましょう、ってかんじです。
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