吳公儀と陳克夫による太極拳と白鶴拳の戦いという動画を、道場の先輩がグループラインで紹介していたので、見ました。
1954年に行われた、チャリティ試合みたいです。
呉さんが呉式太極拳で、陳さんが白鶴拳の人ですけど、見た感想は、なんじゃこりゃーです。
ロープを張った四角いリングでレフェリーがいて、ボクシングの試合のような雰囲気です。グローブなしですけど。
試合は決着はつかなかったらしいですけど、中身はやっぱりボクシングっぽくて、遠間から、腕を一杯伸ばしての殴り合い。
白鶴拳とはどんなのかよくしりませんが、太極拳の方は、太極拳らしさが全くなし。白鶴の相手に合わせたのでしょうかね?
なんにせよ、見苦しくお粗末な試合だなあという印象を受けました。(ご存命ではないと思うので、素直な感想を言っても怒られますまい)
どちらも名人の誉れ高い先生だったと思うのですが、リングに上がって、上半身裸で、遠い間合いから向き合って、よーい始め! となると、こんなことになるのかもしれません。
これは太極拳にはまったく不向きで、戦略としては最悪でありましょう。だいたい、リングに乗せられた時点で、相手の土俵、負け確定ですね。
これは安田先生に聞いた話ですが、陳家溝の老人はこんな感じらしいです。
「どこからでもかかってまいれ」
攻撃を仕掛けようとすると、「お前は老人を殴るつもりかッ!?」と一括され、ひるんだところを投げられる、みたいな。
これが太極拳の戦術というものでありましょう。
さて、拳による殴り合いは太極拳っぽくないですが、しかし拳による殴り合いは、格闘乱闘となれば避けられないものであり、太極拳としても当然に対応できる必要があると思っております。
推手愛好家(異流派交流会の方々は除く)には、その意識がない人が多いです。殴りかかれるような隙が全くないN先生のような人は稀で、顔面も胴体もお股も隙だらけの人が多いです。(安田先生の場合、近づくのもヤバい、というかんじですが)
私が生徒さんに推手を教えるときは、顔を守んなさい、と言っています。
よその太極拳教室で経験のある人ほど、この意識がなくて、手の向きがどうたら勁がどうたら、枝葉末節というわけではありませんが、優先順位の低い方に意識がいっております。
そんな人には、実際に拳や肘を当ててあげます。もちろん、ポヨンと軽くですが、それで自分の隙を意識できるようになるし、その結果、形も正しくなってきますね。
そもそも四正推手は、拳や肘の攻撃を避ける形ですし、蹴りも出しにくい間合いになっています。
四正が崩れたら殴られます。相手がヤングな人の場合は、間合いを外したら蹴りこんであげております。これもポヨンと優しく。極真の人ならローキックぶち込む間合いですもんね。
現在の美しく上品な表演用太極拳は、洗練されて今の形になったのではなく、原理原則源流から外れた紛い物だと思っております。
そもそも、乱暴でお下劣な殺し合いが武術の源流です。
昇華して、養生や自然との融合、人生の向上、人類の友愛に役立つものになったとしても、源流は忘れてはならぬ、と思うのであります。
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