英霊感謝祭に参列しました

ライフスタイル

8月15日、終戦の日、英霊感謝祭に参列しました。

靖国神社じゃなくて、大阪護国神社です。

ちょっと前、日本会議の購読会員になりましたところ、送られてきた「日本の息吹」という本に挟まって、案内が入っていたので参列した次第。

戦没者の慰霊関係の式典には、私は49歳のこの歳になって初めての参列です。

 

実は私は戦没者の遺族でもあります。(まだ生まれてないのは遺族とは言わないのかな?)

私のおじいちゃんは戦死しています。フィリピンのルソン島で戦病死とのことで、実家に死亡告知書が残っておりました。

父からは、祖父の話を聞いたことはありません。

その父も誤嚥性肺炎で入院中、余命幾ばくかという感じでありまして、一人暮らしになった母が実家を色々整理していたら、兵隊さんの古い写真やら、戦死のお知らせやら、お葬式の写真やら、大量に出てきたのです。(戦前は商売繁盛で裕福だったらしくカメラを所有していたのだと思われます。)

 

おじいちゃんが戦死したのが33歳。

丸顔に丸い眼鏡をかけていて、気の小さそうな優しそうなお兄ちゃんという感じ。

たまたま先日、私の眼鏡が壊れて、眼鏡屋さんのおすすめに従って買い替えた眼鏡が、写真のおじいちゃんの眼鏡とそっくりでした。なんだか運命的なものを感じるなあ。

 

最近は先祖を意識することが、なにかと増えてまいりまして、いつかフィリピンのルソン島にもいかねばならぬなあと思っております。

父にも、そんな気持ちはあったとは思うのですが、聞いたことがないのでよくわかりません。父は公務員の中学校の教員でしたから、英霊に対する思いも複雑なものがあったろうと思います。(日教組とも関わりがあっただろうし。)

ここは、孫の私のお役目かな、という気もします。

(写真は、戦時中のものです。住吉大社か? 前列向かって左端の旗を持っている人が、おそらく祖父)

その第一歩として、英霊感謝祭参列です。

どんなカッコで参列していいのかよくわからなかったので、とりあえずスーツで参りましたら、正解でした。

クールビズの方もおられましたが、ほとんどの方はスーツで、暑い中、上着も着ておられました。

自衛隊の制服の方もおられました。

スーツの人には、議員さんも多かったみたいです。(日本会議の人も)

祝詞、お神楽のほか、玉音放送での昭和天皇のお言葉の読み上げもありました。

二礼二拍手一礼は、ピシッと、小笠原流っぽい正式なお辞儀をされている人もおられましたが、ふにゃふにゃっと、イマイチな人やら、いろいろ。(議員さんの代理の人かな?)

途中で、神主さんがひっくり返って、失神して救急車で運ばれていったのでビックリしました。熱中症?

 

台風10号が近づいていて、暴風雨警報が発令されていたので、もしかしたら中止になるかも、とも思っていたのですが、けっこう大勢の方が参列されていました。

その後の講演会も聞きたかったのですが、こちらは台風で中止。

講演会を聞けなかったのは残念でしたが、英霊感謝祭に参列できたのは良かったと思います。

しっかり黙祷して祈りを捧げることができました。

案内をもらってなかったら、一生、縁がなかったかもしれません。

どうしたって、私は太平洋戦争で犠牲になった軍人の孫なんですから、無関心でいていいはずがないのです。

ウィキペディアによると、ルソン島は激戦地で、最後は食糧の補給が途絶えて餓死者が続出ということで、祖父もマラリヤとか赤痢で死んだのかもしれませんが、日本国民のために死んだのです。子供二人を残して、33歳で。

どんなひどい目にあったのだろうと、考えてしまいます。

 

今の世の中、なんだか不穏な感じになってきております。

自分には関係ない、知らないよー、とか言って、アホなテレビばっかり見ていたら、騙されて、洗脳されて、望まぬ人生を歩む羽目になります。

おじいちゃんの無念を、繰り返してはならぬ、と思います。

これからの日本、進むべき道を見失わないためにも、たまには先祖に思いを馳せたいと思います。

コメント

  1. しげさん より:

    そんな時代に比べれば良い時代になったと感じます。 飢えることも戦争に行くこともなく。 そこそこちゃんと勉強をして、身の程を知れば大きな失敗もせず生きれるのですから。。

    • パパだよ より:

      このごろは身の程を知って地味に生きております。
      でも、自分から知ろうとしないとわからない情報が、けっこう隠されている世の中ですから、世の中のことの勉強は、ますます必要かなーと感じております。